Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

新たな始まり

22

 主人の言動に不安を覚えたトビアスは、ひとり馬を駆ってファン・ブラウワーの旧邸を訪れた。朝まで待てと進言したその舌の根も乾かないうちの行動に、彼自身、忸怩(じくじ)たるものを心に抱えながら。

 到着したのはもう深夜になろうという頃だった。なのに、屋敷の雰囲気は妙に賑やかだ。門を潜るより前に、屋敷の明かりが空を淡く照らすのが見えていた。

 管理の者達を置いているとはいえ、家主不在の空き家である。夜ともなれば、裏手の使用人の部屋以外は暗く沈んでいるはずだった。それが今、ぼんやりとした明かりをまとって建物の影が闇の中に浮かび上がっている。

 まるで主人の一家が住んでいた頃に戻ったようだと、トビアスの胸に懐かしさが込み上げる。先代の主人がいて、ブレフトもまだ幼かったあの頃に。

 敷地内に入ればさらにその変化がはっきりしていた。
 馬車まわしの松明にも火が入り、玄関に近い一室の鎧戸の隙間からは明かりが漏れている。
 馬丁(ばてい)の男もまだ起きていて、彼に手綱を預けながらトビアスは訊いた。

『誰か来たのか』
『はい。シュライバー家のご子息がお立ち寄りです』
『フリッツ様が? こんな時間に?』

 トビアスがぎくりとしたのは言うまでもない。
 人質を放してやってくれと、父親であるダニエル・シュライバーが頼みに来たのが今日の昼間である。どうも女を捕らえるにあたって彼の娘が巻き込まれ、そのせいで露見したようだった。

 となると、フリッツもある程度事情は知っているだろう。父親で駄目だったから、今度は息子が来たのだろうか。しかし、だとしたら何故旧邸のこちらなのか。

 トビアスの不安も知らずに、馬丁は続けて言った。
『近くで馬車が故障なさったようで。こんな暗くちゃ修理もできませんし、何より馬車酔いが酷そうだったのでこちらにご案内したんですよ。取り急ぎ本邸へ知らせに人をやったんですが、行き合いませんでしたか』
『いや……』

 無意識に眉根を寄せながら、トビアスは再度明かりのついた部屋の窓を見やった。
 この出来事が示唆するものがなんなのか、見当がつかなかった。

 散々段取りの悪さに足を取られたこの一件だ。自分が取り仕切っておきながらここまで失態が重なるなど、この家に仕えてから今までなかったことだ。

 そうなると、さすがに長年務め続けた自負にも綻びが見えはじめ、どんなささいなことにでも危機感を煽られてしまう。

 何か見落としているのではないか。自分の目の届かないところで、また取り返しのつかないような問題があるのではないか……。

 トビアスは不安定に揺れる気持ちのまま、裏手の使用人出入り口から屋内に入った。

『あら、キッケルト様』
 ちょうど行火(あんか)を抱えた侍女のユリィが廊下を通りがかり、執事を見つけた彼女は立ち止まって一礼した。

 気立ての良い彼女の姿を見て、トビアスの心も多少はほぐれる。

『こんな時間までご苦労だね、ユリィ。それはフリッツ様のところに持っていくものか?』
『いえ、フリッツ様のお部屋は暖炉に火を入れました。これは屋根裏のご婦人にと』
『そうか』

 図らずも例の人質が話題に出て、せっかくほぐれた彼の心がまた強張る。
 あのエスプランドル女は金の交渉のために必要な存在だが、トビアスには悪運の象徴のように思えはじめていた。

 気を取り直して、彼は訊ねた。

『ジャックを見なかったか?』
『はい、少し前に広間近くの廊下でお見かけしました』
『その用事が済んだらで構わないが、彼を呼んできてほしい』
『かしこまりました』

 微笑んで会釈し、ユリィは階段のある方角へと去っていった。
 彼女とは別の方向へ足を向け、トビアスは客人が滞在している部屋に向かった。

 部屋の扉の脇に護衛らしき男がふたり、手持ち無沙汰に立っているのが見えた。とてもただの使用人とは思えない、日に焼けた肌をした厳つい男達だ。

 形ばかりの一礼をする彼らの前を通り抜けて中に入ると、暖炉の近くに運ばれた長椅子に、青白い顔で横たわるフリッツの姿があった。
 手摺りに枕を置いて背中を凭れかけたフリッツは、トビアスの顔を見ると微笑んだ。

『こんばんは、トビアス。久しぶりだね』
『フリッツ様。久しくお会いしないうちに、すっかり立派になられましたな』

 フリッツが立ち上がろうとする前に、トビアスは足早に長椅子へと歩み寄り、膝をついて視線を低くした。

『この度は大変な思いをなされたそうで。お加減はいかがですか?』
『おかげでだいぶ良くなったよ、ありがとう。思いつきで夜間の遠出なんかするもんじゃないなあ』

 あはは、と笑うフリッツは、トビアスが幼少期から見知っている彼そのものだった。
 もともとフリッツは深謀遠慮をめぐらすような性格ではなかったが、裏表のない相手だからこそ、こんなことに手を染めた自分達をトビアスは後ろめたく感じた。

 彼の主人とて、昔はこの青年と同じ目をして無邪気に遊んでいたのだ。
 なのに。

『……。下の者に聞きましたが、お家に迎えを寄越してくださるよう手配しておるそうです。馬車が来るまで、ごゆっくりなさってください』
『うん。その言葉に甘えさせてもらうよ。こんな夜更けに押しかけてすまないね』
『とんでもございません。思いがけずお会いできて、私も嬉しゅうございます』
『……まるくなったなあ、トビアス。昔はちょっとしたことであんなにガミガミしてたのに』

 呆気に取られたフリッツに、トビアスも苦笑を誘われる。

『それが歳を取るということですよ。あの頃は腕白(わんぱく)坊主のいたずらに毎日振り回されていたのですから、どうかご容赦いただきたいですな』
『悪かったよ。当時はまともに僕達に付き合ってくれる大人なんて、お前しかいなかったからさ。今思うと、お前が心労で倒れなくてよかった』

 笑みが混ざっているものの、微かに目を伏せたその表情からトビアスはフリッツの言っていることが理解できた。病で倒れて帰らなかった、ブレフトの父ヨーゼフを思い出しているのだろう。

『ブレフト兄さんは元気かな。トビアスがついているんだから、心配はなさそうだけども』

 フリッツのその声に探るような気配はなかった。父親を突然失って、人生が急変してしまった幼馴染を慮る響きだけだ。

『……。元気にしておりますよ』
 複雑な内心を悟られないよう、トビアスは静かに答えた。
『ただ、目まぐるしい毎日に翻弄されておいでです』

『そうか。僕がこんなことを言うのも変だけど、これからもブレフト兄さんを頼むよ。お前が一番の頼りなんだ』
『心得ております』

 頷いたトビアスに対して、フリッツはもどかしそうに言う。

『そんなお行儀よくなくていいからさ。昔みたいに、僕達が間違っていたらガツンと言ってもいいんだよ。そんなことお前にしかできないんだからね、トビアス』

 トビアスは目を丸くした。
 若いとはいえ、さすがに成人した主人に子供扱いをするわけにもいかないと、慇懃に対応していたのは確かだ。だが、相手のほうは急に態度を変えられて壁を感じていたのかも知れないと、今更気がついた。

 特にブレフトは精神的にも未成熟だ。頭では当主たれと理解していても、心の奥底では寂しい思いをさせた可能性はあった。

『……そうですね。いざというときは、そうさせていただきましょうか。ブレフト様にはおつらいことですが、ここが踏ん張りどころでございますから』

 自分がしっかりせねばならんのだ──ブレフトの面影を胸に描いてそう決意したトビアスは、主人よりも若い青年に笑いかけた。

『それにしても、この数年で一段と成長なされましたな、フリッツ様』
『さすがに僕も大人になったんだよ』

 と、そういう表情にはまだまだ子供っぽさが残る。そんなフリッツに笑みを深くしながら、トビアスはちらりと部屋の入り口に視線を転じた。扉を叩く小さな音がしたのだ。

『……。申し訳ございません、フリッツ様。私は一度外させていただきますが、ご入用の物がございましたら他の者にお申し付けください』
『わかったよ、ありがとう』

 頷いたフリッツに腰を折った一礼を返し、トビアスは廊下に出た。
 馬車酔いに見舞われたフリッツよりも青い顔をしたユリィが、そこで待っていた。走ったのか、少し息が乱れている。

『キッケルト様。急ぎお知らせしたいことが……っ』
 そう言いながら、彼女は壁際に並んでこちらを見ているフリッツの護衛を気にして言葉を濁す。母国語での会話とはいえ、彼らが理解できないとは限らないのだ。

 取り乱した様子のユリィが気になったのか、明るい空色の瞳のエスプランドル人のほうが、彼女に愛想のいい微笑みを向けてきた。
 侍女は状況を忘れて思わず頬を染めた。しかし上司がその場にいることを瞬時に思い出し、羞恥から身を縮こまらせるようにして俯く。

 異性に遠慮の少ないエスプランドル男の手にかかれば、こんな初心な娘などひとたまりもないなと、トビアスは嘆息した。
『わかった、ユリィ。向こうで聞こう』

 彼女を促してその場を離れ、奥の使われていない穀物庫の前まで来る。
 そこで、彼女は泣きそうな表情でトビアスに訴えた。

『あの……! ご婦人が、お部屋にいらっしゃいませんでした……!』
『なんだと?』
『その、見張りの方達は、誰かが建物に侵入してきて連れ去られたと仰っています』
『……!』

 愕然として、トビアスは立ち尽くした。
 やはり、見落としはあったのだ……!

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