Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

新たな始まり

18

 一人の台所女が、慌てた様子でとある店の裏口の扉を叩いた。
 時間は夜、夕食時は既に過ぎている。
 女は出迎えた同業の知人に、混乱気味に訴えた。

『とにかく材料が足りないんだよ、それに人手も! まったく急な話でさ!』
 彼女が言うには、飛び込みの団体客が入って色々と不足が出そうだということだ。材料や人手、調理器具。何でもいいから協力してもらえないかと、そういう相談だった。

『そりゃあ大変だわ。うちは今日の分はもうひと仕事終えた感じだから、宿の旦那さんに話せばちょっとは融通してくれるかも』

 知人は困惑もあらわに応えたが、女はそれだけでもホッとしたようだった。

『頼めるかい? お代はちゃんと頂けそうだから、安心しておくれと伝えてもらえる?』
『早速伝えてみるよ。他の店にも訊いてあげる。しかし困ったもんだね、こんな時間じゃ市どころか露店も閉まってるってのに』
『そうなんだよ。でも半端な残り物なんて出すなって、女将が言うもんでさ』

 口では文句を並べながらも、女の顔は興奮でやや上気している。
 ここ数年で一番の客なのだと、下働きの彼女でさえもわかっているのだ。

『だってあの『天空の蒼(セレスト・ブルー)』の船乗り達に、不味いものなんか出せないもんね。これを機にご贔屓にしてもらうんだって、うちの店の連中皆、はりきってるんだから!』


「皆さんお腹減ったでしょう? うちの料理人が奥で腕をふるってますので、もう少しお待ちくださいね」
 愛想笑いを浮かべた妙齢の女将が、長い睫毛をはためかせながら上目遣いにそう告げる。

 港街で宿を営む女将の殆どは、亭主が港湾か船舶の関係者だ。そして彼女は、数年前から一人暮らしなのだと事ある毎に匂わせてきた。

 まるで全身を舐め回すようなその視線を、スタンレイは誠実そうな微笑みで跳ね返す。
「ありがとう。こんな時間に大勢で詰めかけてすまないね、女将。残り物を並べてくれればそれでいいから」
「いえいえ、うちはいつ如何なるときでも、お客様に最高のおもてなしをするんです。皆さんにはお腹いーっぱいになっていただきますよ!」
 そう胸を張った女将は、食堂を兼ねた広間を見渡す。

 吹き抜けの天井から燭台が下がり、その柔らかい明かりの下にたくさんの卓と二人がけの長椅子が並ぶ。奥には屋根を貫く煙突つきの暖炉があって、その周りにも椅子が置かれていた。羽目板の壁には色染めした鮮やかな布が飾られ、女性ならではの感性をあらわしていた。

 今、席の殆どを占めているのは粗野な海賊達である。
 といっても、彼らは現時点で楽しそうに飲むだけだ。酒に飲まれて大暴れということもない。給仕の娘達に妙な手出しをする者もいなかった。

 田舎から出てきた旅人などよりも遥かに行儀がいい海賊達を、女将が上質の客と判断したのは明らかだ。
 もちろん彼女のもうひとつの狙いが、引き締まった身体つきをした男盛りの航海長(マスター)であることは、誰の目から見てもはっきりしていたが。

「気の利く店だ。では俺達は蒸留酒で、下の者達には腹に貯まるものを出してもらえるかな。久々に陸の美味い料理を食わせてやってくれ」
「かしこまりました!」
 目いっぱいの笑顔をスタンレイに向けた後、思わせぶりな流し目を送って女将は厨房に去っていった。

 その後ろ姿を嘆息交じりに見送り、航海長(マスター)は隅の席で酒盃を傾ける頭領の許に戻ってきた。
「随分もてるじゃないか」
 ずっと様子を見ていたルシアスに茶化され、スタンレイは苦笑を浮かべた。

「ご冗談を。この手の店は、暴漢以外は大抵上客でしょうよ」
「彼女のあの目は、もっと個人的なものに見えたが」
「知りませんね。妻以外の女性から向けられる秋波なんて、なんの意味もないんですから。今のあなたならわかるでしょうに」

 席についたスタンレイが横から睨めつけると、ルシアスは目を伏せて笑った。
「そうだな。こんなに意識が変わるとは思わなかった」
「でしょう? 職場に同志ができて俺も嬉しいですよ」

 にこやかに応えてから、スタンレイは声音を一段落として告げた。
「……とはいえ、今の俺達の仕事は目立つことなので」
「羽振りのいい海賊らしく、な」
 ルシアスは酒盃にわずかに残った蒸留酒を飲み干した。

 人々の目を引きつけるため、あえて格式が上過ぎず下過ぎない、この店を選んだのだった。秘密がきっちりと守られる高級宿でもいけないし、流れ者の娼婦が大勢待ち構えているような安宿でもいけない。
 街の住人達との繋がりもあって、それなりに噂話の拡散力が高い店としてここを待機場所に選択したわけだ。

 ルシアスが何気なく視線を流すと、若い給仕女(オーベル・フラウ)が何人か、厨房に続く廊下の入り口に立ってこちらをちらちらと伺っているのが見えた。
 音に聞こえた海賊に怯えているのではない。資産家でもある美貌の青年から、声がかかるのを待っているのだ。

「わかってはいるが、気乗りしないな」
 彼女達の期待に満ちた眼差しに、逆に気を削がれたルシアスがぼそりと呟く。航海長(マスター)はそんな若い頭領に同情の目を向けた。
「葛藤は理解します。でも、ディアナとライラのためですから」

 ライラがディアナの許に向かう間、せいぜい派手に飲んで人目を引きつけなくてはならない。が、酒場にいるのに女を一切近づけないのでは不自然すぎるのだ。

 もちろん、誰かと良い雰囲気になったとしても個室に引きこもるようでは台無しで、下の者達にもそれは厳命してある。何かあった際には、動きが取れるようにしておかなくてはならない。

 黙り込んでしまったルシアスに、航海長(マスター)は嘆息した。
 それから彼は、意識を切り替えるように爽やかな笑みを顔に貼り付けると、こちらを伺う給仕女(オーベル・フラウ)達に手招きしたのだった。


 ディアナが連れていかれた建物というのは、ヨーゼフ・ファン・ブラウワーがヴェスキアに来た折に購入した郊外の古い家だった。

 運河沿いにあるのは、川遊びができるようにという元の持ち主の意向が反映されたものらしいが、ヨーゼフはそれを商売に活かせないかと考えた。
 その狙いは当たり、水運を利用してヨーゼフの一家は息を吹き返していく。
 今は街の中に邸宅を買って住んでいるが、ここも手放さずに管理しているという。

「子供の頃は、僕もよくこちらの屋敷に来ていたんですよ」
 と得意げに言ったのはフリッツ・シュライバーだ。
「ブレフトとは、かくれんぼや探検ごっこをして遊びました。だから、建物の隅々まで知ってますよ!」

 夜のシュライバー商会事務所には彼とライラの他に、ファビオや、ハル、バートレットという面々が集っていた。

 フリッツは机に広げた紙に建物の見取り図を描いてみせた。そればかりか、細かい補足まで書き込んでいく。癖のある字が、見取り図をまるで宝の地図のように見せていた。

「正面から見ると塀が敷地を囲んでいるように見えますけど、端のここ、動物か何かが穴を掘った跡があって、僕達が出入りできるようにこっそり拡げたんです。茂みの影だし、まだ改修されてないと思うなあ」

「古いというけれど、築年数はどのくらいかわかりますか? 家の手入れが常に行き届いていたかどうかも」
 ライラが訊くと、フリッツは一瞬きょとんとした。

 船乗りだらけの面子の中で、唯一の女性が質問してくるのが不思議なのだろう。が、彼は快く答えた。

「だいぶ古いとしか……探検が楽しかったのは古い建物だからですよ。石造りの頑丈な砦みたいで、昼間でも薄暗くて。そうそう、暖炉があるんですけど、この建物が建てられた当時は煙突はまだ珍しくて、富の象徴だったみたいですね。ヨーゼフおじさんにそんな話を聞いたことがあります」
 記憶を探るようにフリッツは語る。

「手入れは……おばさんは母と比べれば地味というか大人しい人でしたけど、刺繍は得意で。部屋の装飾も可愛らしくて、僕の姉さんなんかは憧れてましたね。ただ、家そのものの改修はそんなにしてなかったはず。壊れた鍵がそのままなんてこと、何箇所もありましたから」
「その場所は覚えていますか?」
「もちろん」

 頷いて、フリッツは見取り図のいくつかの場所に印をつけていく。

「ラ……アラベラ。何とかいけそうか?」
 バートレットが傍らのライラに尋ねると、彼女は見取り図に視線を落としながら頷いた。
「ああ、かなり楽になった。下調べが自分でできなかったからね。行き当りばったりですべての部屋を探るのは危険だし」

「あのう、未だに信じられないんですけど、本当にモレーノ船長が捕まっているんですか?」
 書き込む手を止めたフリッツが、困惑した様子で訊いてくる。
「最近でこそブレフトとは疎遠になってましたけど、そんなことする奴に思えなくて」

「しかし、姉上と父上にお話を聞いたのでしょう?」
「そうなんですけど……」
 ライラに言われ、フリッツは身を縮こめる。

 被害に遭いかけたエルセから状況を教えられ、説得に行った父も追い返されてきたとなれば、信じないわけにはいかないだろう。

「本当に何やってるんだか、ブレフト兄さん。こうなったら、僕が直接彼と話をしてみるとかは……」
「構いませんが、恐らくお父上と同じ結果になると思いますよ」
「そうですよねえ」
 溜め息をついて、それから彼は顔を上げた。

「でも、一緒に行きます。モレーノ船長も心配だし、もしかしたら通訳も必要かもしれないですし。クラウン=ルースの役にも立ちたいです」
「危険なので、あまりお勧めできないのですが」
 ライラが言うと、ハルが彼女の肩をポンと叩いた。

「見取り図があるとはいえ、現場知ってる人間がいるっていうのは違うもんだぜ。どうせ肝心な部分はお前さんに任せるしかなさそうだし、俺らが守っておくよ」
「ハルがそう言うなら」

 ライラは渋々ながら頷き、商人の子息に視線を戻した。
「くれぐれも馬車から出ないでくださいね」
「わかってます」
 やんちゃな雰囲気を残したフリッツは、精一杯背伸びしたような真面目な顔で請け負った。

 それからライラは、ファビオに向き直った。
「ファビオ、念の為言っておくけど……どうか早まらないでほしい。気持ちはわかるけれど、今は感情的になられたら困るんだ」

 言いにくそうなライラに対し、ファビオは破顔した。
「了解だ、セニョリータ。大丈夫、もう落ち着いてるよ。今は目の前の仕事に集中するだけだ……といっても信用できないか。君に酷いことを言ってしまった後だから」
「酷いこと?」

「ルースの女どうこうって。あんな格好悪いこと言うつもりじゃなかった」
「ディアナが危険に晒されている状況で、無感情でいろというほうが無理だよ」
 ライラが平然と応えると、彼は大げさに首を振った。

「ああ、セニョリータ。君は物分かりが良すぎるな。そんなんだと、俺みたいな男に付け入られちまうぞ。油断は禁物だ」

「失礼ですが、この女性はベインズさんの奥方、なんですよね?」
 ふたりのやり取りに混乱したフリッツが口を挟む。
 バートレットが複雑な顔で「一応そうですね」と言う。

 この辺りの男達にとって、寝取られ男の称号は何があっても回避したいものだ。が、ファビオは一向に気にしない。

「坊っちゃんは若いな。恋が実った時点で物語は終わりだと思うのは、その年じゃあ仕方ないか。それからふたりは幸せに暮らしましたとさ、なんてな。だが実際は、実ってから第二章の幕があがるんだ。いいかい、恋に気を抜いてる暇なんかないぜ」

「雇い主の子息に妙なこと吹き込むな」
 ハルが呆れた声を出す。

 ライラはくすりと笑い、肩の力が抜けたところで気持ちを入れ替えた。
 さあ久々の仕事だ、と。