Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

新たな始まり

17

 部屋を薄闇が満たし始めた。と同時に、ディアナは肌寒さを覚えた。
 こういうときばかりは、胸元の大きく開いた服を恨めしく思うのだ。やめる気は一切ないが。

 小さなこの部屋に炉はない。粗末な敷布団(マットレス)が載った寝台が置かれているのを見る限り、使われなくなった使用人の寝室かと思われた。とはいえ、家なしだった幼少期を思い起こせば充分に上等な部屋だ。地位を得た今になっても、その感覚は心から完全に消え去ることはなかった。

 それが最近は囚われのお姫様役ばかりだものねと、ディアナはつい笑みを零した。これだから人生は何があるかわからない。

 しかし、人魚(シレーナ)号の牢に入れられていたときよりは気持ちに余裕があった。あのときと違って、多少の根回しはできていたからだ。

 自分が帰らなかった時点で、腹心のファビオに権限を移行するようにしていた。軽薄なようでいて仕事はこなす男だから、今頃は何らかの行動をとっているはずだ。

 それに、ルシアスもこの手のことを傍観する人間ではない。彼の傍には優秀な部下も揃っていて、しかも今は、あのライラ・マクニール・レイカードまでいる。

 シュライバーも損得勘定の得意な商人とはいえ根は善人だし、あの馬鹿真面目なロイ・コルスタッドも自分の拉致を把握している。

 これだけ手札が揃っていれば、とりあえずは安心していいだろう。
 そこまで考えて、ディアナは抱き続けている小さな懸念を思い出した。

 ロイはルシアスに直接知らせに行っただろうか。彼をライラに近づけたくなかったのもあって、エルセの護衛を依頼したのだ。しかしロイのあの性格からして、その賭けは負け色が強いとも理解していた。そこはルシアス達の機転に期待するしかない。

 翻って、今度は自分を捉えた相手にディアナは思いを馳せた。

 連れてこられた際、応対したのはそこそこ身なりの良い中年男だった。といっても、使用人としてはというだけだ。彼が首謀者でないのは明らかだった。

 その男は彼女を見るなり開口一番、「この女じゃない」と言った。
「これは船にいた女ではない。お前達は一体誰を連れてきたんだ!」

 ディアナを拐かしてきた実行役の男達は、戸惑ったように顔を見合わせた。
「で、でも、一緒にいた男がこいつを奴の女だと言ってたんだ。お前も聞いただろ、なあ?」
「ああ。確かに聞いた。お抱えの情婦が一人とは限らないさ、金持ちの大海賊なんだろ?」

 男達がそう弁解するのを中年男は渋い顔つきで聞いていたが、やがて「主人にお伺いを立ててくる」と言って立ち去った。
 残された三人の男達は、仕事が終わり次第報酬が貰える手はずだったのか不満たらたらで、かといって手ぶらで帰る気もないらしく、ディアナをここに閉じ込めるとやはりどこかに行ってしまった。

 それきりである。

 彼らが改めてライラを捕まえに行ったか、仕方なく自分を材料に交渉を始めたかはわからない。とりあえず、現状では生命の危険まではなさそうだった。

 扉の鍵を開ける音がして、ディアナはそちらに目を向けた。
 そこに現れたのは若い侍女だった。明かりを灯しに来たらしい。

 侍女は壁にかけられた燭台に火をつけ、続いて窓の鎧戸を閉める。すると、狭い室内はすぐに蝋の燃えるかすかな臭いで満たされた。

 ぱたぱたと動き回る様がなんだか小動物のようだな、と思いながら侍女を眺めていると、それに気づいた彼女が恐る恐る口を開いた。

「あの、ご婦人(メフラウ)。私に何か、御用でしょうか……?」
 辿々(たどたど)しい公用語もさることながら、今にも震えだしそうなその姿は、まるで立場が逆のようだ。豊かな金髪と派手な衣装、人を使い慣れた堂々たる態度は、小動物の彼女の目には捕食者のように映るのかもしれない。

 何せディアナは背もたれのない椅子に座っているだけで、縛られてすらいない──奴隷であっても女性は鎖で繋いではいけないという慣習が、今の彼女に自由を与えてくれたのだった。
 ディアナはこれ以上可哀想な侍女を怯えさせないよう、愛想よく微笑んだ。

「特に……あ、いえ。何か羽織るものを貸していただける? 寒くなってきたので」
「畏まりました、ご婦人(メフラウ)。何か見繕ってまいります」
 明るく声をかけたのが功を奏したのか、侍女の表情が幾分明るくなった気がした。

 侍女は軽く一礼して、部屋を出た。
 出たところで、小さく悲鳴をあげた。

 ディアナは椅子から立ちあがる。
 開いた入り口から、実行役の男達が入り込もうとしていたところだった。突き飛ばされた侍女が、そのうちの一人に縋りつく。

「何をなさいますか! ご無体(むたい)はおやめください!」
「きゃんきゃんと、うるせえな。お前は特別見逃してやるから黙ってろよ」
「いけません、私が旦那様に叱られてしまいます!」

 侍女は怯えながらも必死に言い募ったが、乱暴に払いのけられてあっさりと床に転がった。蹲ったところを足蹴にされてもなお、彼女はすすり泣きながら「おやめください」と訴え続けた。
 その姿を見ても、男達の心はびくともしないようだった。むしろせせら笑った。

「お前みたいな若い娘っ子もいいんだけどよ。そこを、旦那の顔を立ててやろうってんだ。俺達が寛容なうちに、どこへなりと行っちまえ!」

 漂ってくる酒臭さと呆れる気持ちとで、ディアナは顔をしかめる。
 下卑た言い分を聞かなくても、彼らの目的は伝わってきた。こういうときの男という生き物は、本当にどうしようもないものだ。

 酒場の女なんて一晩あたりがせいぜい数クロイツァーだろうに、それすらケチって戻ってきたらしい。
 ディアナは立ったまま彼らを睨みつけた。

「とうが立った女で悪かったね。山羊や羊に慣れ過ぎて、人間の若い女に金払うのが惜しくなっちまったのかい?」
「とんでもねえ、姐さん。あんたみたいないい女は、その辺の娼家じゃ見当たらねえよ。いたとしても、俺らにゃ手の届かない高嶺の花さ」
「何故だかまったく褒められてる気がしないね」

 ディアナは肩を竦めた。が、男達は気にもとめない。

「けどよ、日頃から苦労してる俺達に、神様が褒美を与えてくださったってわけさ。なに、大人しくしてりゃ、あんたも一緒に天国に連れてってやるからよ。お互い楽しもうじゃねえか」

 品のない笑い声にディアナはうんざりした。
 こういう事態を想定していなかったわけではない。むしろ生命か身体か、どちらかは犠牲になるだろうと覚悟していたくらいだ。

 とはいえ、交渉が暗礁に乗り上げたわけでもないのにこうなるとは、さすがに思わなかった。しかも人違いであることが判明している以上、ルシアスを怒らせるだけで交渉の妨げにしかならない。
 雇用主の足を引っ張っていることに、この馬鹿達は気がつかないのだろうか。

 そしてディアナも、覚悟はしていても無意味な犠牲となれば話は別だった。更に妊娠なんかしたら、目も当てられない。
 どうする──ディアナは懸命に考えた。
 いつの間にか、侍女のすすり泣く声が聞こえなくなっていた。

「あの小煩い執事が戻ってくるかもしれねえ。鍵は閉めておけよ」
 中心人物らしい男がディアナににじり寄りながら、入り口を振り返る。

 しかし彼が目にしたのは、手下の男が短く叫びながら床に倒れ込む姿だった。片耳があった辺りを抑える指の隙間からおびただしい量の血が溢れ出し、傍らには血まみれの耳が落ちている。

「待ても聞けない耳ならいらないだろう。野犬のほうがまだ利口だな」
 やけに綺麗な顔をした男が、代わりにそこに立っていた。

 駆け寄ろうとしたもう一人の手下を牽制するように、血に濡れた短剣を向けている。
 その顔には微笑みではなく、侮蔑からくる冷たさしかない。

「人質に手を出していいと、誰が言った? 僕はそんな話、聞いていないぞ」
「いいだろ別に! お目当てはこの女じゃなかったみてえだしよ!」
 すっかりその気になっていたところを邪魔されて、中心格の男が逆上した。

「こっちは報酬だって貰ってねえんだ!」
「だったら何をやってもいいと?」
「そうじゃねえのかよ、ジャック」

 すると、ジャックと呼ばれた美貌の男が微笑んだ。
「その理屈なら、ここで僕が他の耳を全部切り落としても問題はないな。僕の目当ても別にあるし、お前達は正直どうでもいい」

 数では勝っているはずの男達が、何故かその一言で怯んだのがわかった。
 まるで、耳だけでは済みそうもないと思っているかのように。

 未練がましくディアナをちらちら見ながら、男達は部屋を出ていこうとした。すると、床に放置された耳をジャックが靴の先で小突いた。

「持っていけ。急げばまだくっつくかもしれないぞ」
 無事なほうの手下が、慌ててその耳を拾う。彼らは、悔し紛れに悪態をつきながら去っていった。

 じっと見つめる視線に気がついたのか、ジャックがディアナを振り返る。
「何か?」
「何も」
「そう言ってる顔には見えないけれどね」

 ジャックは目を細めて笑った。先程の冷たい笑みとはまったく違って、相手を魅了するような微笑みだった。
 その手には乗らないよと、心の中で舌を出しながらディアナは応えた。

「囚われの身で余計な口を利いたら、寿命が縮まるだけでしょ」
「それはそうだな」
 彼は軽く頷きながら、剣についた血糊を持っていた布で拭うと、鞘に仕舞った。
 そして何故か、部屋の中に入ってきた。

「人違いだったそうじゃないか。うまく説明したら、君は逃げられたかもしれないのに」
 ディアナの警戒を見て取ったのか、彼は必要以上に近づいては来なかった。入り口の前くらいで足を止めている。
 そのことに安心して、ディアナは世間話に付き合ってやることにした。

「あたしだけ逃げおおせても、状況は大して変わらないもの」
「別の誰かを庇ってるのかい? 健気だな、自分だって今みたいな危険があるだろう」

 その言い分で、ディアナは気がついた。
 侍女がいなくなったのは、彼を呼びに行ったからだ。その方面では、多少信頼をされている男なのかもしれない。

「あたしらみたいな生まれだとね、貞操のひとつふたつで泣き言言ってらんないのよ。泣いてる間にも足もと掬ってやろう、っていう悪党がたくさん狙ってるんだから」
 褪めた口調でディアナは言った。
「でも、他の女までこんな思いをしなくてもいいでしょ」

 それらしく言ったが、もちろんそれだけではない。
 閨事の最中は男も無防備になる。情報を引き出すなり隙を見て殺すなり、とにかくただで済ませる気はディアナにもなかった。

「なるほど」
 ジャックは面白そうに彼女を見やり、それから室内に歩を進めた。
 動揺したディアナをよそに、彼は壁際の、入り口がよく見える位置に胡座をかいて座り込んだ。

「しばらくここにいることにした。今のうちに眠っておくといい」
 ディアナは驚いて目を丸くした。
「さすがに眠れないよ。あの連中が仲間連れて戻ってきたらどうするの?」
「問題ないね。それでも僕のほうが強い」

 にやりと笑う彼に、彼女は胡散臭げな目を向けた。
「そんな綺麗な顔して、言うわねえ」
「顔は関係ないだろう。これでもちゃんと男だ、なんならここで見せようか?」
「結構よ」
 げんなりして、ディアナは答えた。

 気が抜けた彼女は、椅子よりも彼からやや遠い寝台のほうに腰を下ろした。
「うーん。てことは、寝てる間にあんたが、手のひら返して伸し掛かってくるかもしれないわけか」
 ふとした彼女の呟きを、ジャックは鼻で笑い飛ばした。

「安心してくれ。自分より綺麗な女じゃないとそそられない」
 棘のある返しに、ディアナは申し訳なさそうに言った。

「その見た目、結構気にしてたんだね。ごめんよ、迂闊なこと言って」
「外見で損した経験のほうが多いものでね」
 彼は肩を竦め、そして彼女に向けてまた笑った。

「でも、そんなに素直に謝られると恐縮してしまうな。いいよ、水に流そう」
「ありがと」

 意外と人好きのする男なのかも、と今の微笑みを見てディアナは思った。
 実際のところ、相手も利発そうな彼女をそこそこ気に入りつつあるようだった。

 目に見えない極細の糸が両者の間で繋がった気がして、ディアナは少しだけ目を閉じることにした。
 言われるまでもなく、先行きが見えない中ではとにかく体力を温存すべきだからである。