Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

新たな始まり

15

「セニョリータと一時的にでも夫婦になれるだって? そいつは面白い。俺に任せてくれれば、本物と見紛うほどの素晴らしい夫になってやれるぞ」

 前のめり気味に言うファビオに、こいつ懲りないなという目を向けながらジェイクが言った。

「このふたりは以前コルスタッドに遭遇した折に、既に夫婦だと名乗ってる。そのままアラベラだと思わせといたほうが無理はない」
「それでも、瞳の色を見られたらバレちまうんじゃないか?」
 そう疑問を呈したのはハルだ。
 ジェイクは軽い調子で答える。

「そのための“旦那”だよ。事情に通じていて、機敏に対応できる点ではバートレットは適任だ。敵に対しては別に、マリーでもキャロラインでもいいのさ。でもコルスタッドにも同時に対応するなら、アラベラが一番楽だというだけ」

 確かにライラとしても、これ以上偽りの身の上が増えては混乱しそうだった。それに、バートレットの補佐が約束されている『アラベラ』を騙ったほうが、失敗は少ないに違いない。

 ルシアスは両肘をついて組んだ手の上に額を乗せ、俯いた状態で暫く黙り込んでいる。私情を頭から追い払い、最善の道筋を模索しているのだろう。
 間をもたせるように、スタンレイが口を開いた。

「例の賞金稼ぎ──ジャック・スミスとかいうらしいが、そいつの相手をライラに任せられるなら、もちろんこちらでも支援体制は整える。ギルバートだけじゃなく、二重三重の網も張るから安心してほしい」

 目的はあくまでもディアナの救出だ。コルスタッドについては、彼らにとって副次的なものでしかない。
 だからギルバートに監視させるのに留めていただけで、ライラの事情を加味するなら話は別ということだ。それなら、バートレットひとりに負担がいくこともない。

 柔軟な申し出をしてくれる航海長(マスター)に、ライラは頼り甲斐を覚えた。
 その賞金稼ぎの目を引きつける仕事に集中させてくれるなら、ライラも願ったり叶ったりである。

「ジャック・スミス? 特徴のなさすぎる名前だな」
 ジェイクが不意にそんな感想を漏らした。
 意見を乞うように彼に視線を向けられたライラは、小さく頷いた。

「私もその名前は聞いたことがない。ルースの話では相当な腕前らしい。それで無名なんて、普通はあり得ないことだ。おそらく偽名だろうな」
「脛に傷持つ身、ってことか」

 裏の世界に属しておいて今更脛に傷も何もないのだが、船医(サージェン)は大して感慨も持たなかったようだ。ものすごく気になった点というわけでもないらしい。
 バートレットがそれに対して言う。

「海賊を始めるときにも、名を偽る奴は割といますね。郷里の家族に迷惑がかかることを考えて。ただ、特徴のない名前を騙るなら、そもそも名をあげる気もないってことなのかな……」
 最後のほうは、ほとんど己に向けた呟きのようだった。

 彼らは世間話のような軽い雰囲気で話していたが、ライラは益々違和感を強くした。
 手段を選ばない非正統派で、腕はあるのに名をあげるつもりのない賞金稼ぎ。自分と真逆をいくようなその男のことが、妙に気になった。

 バートレットが言うように、親族に迷惑をかけないことと人生の一発逆転を狙うことを両立させるなら、もっと覚えやすい名を使うはずだ。人々の口に名が挙がることで、その自己顕示欲を満たすのだから。

 もともと名のある剣士が、誰かの恨みを買うか何かして、一時的に偽名を用いている可能性もある。そういうときは逆に、ジョン・ニーモ(誰でもない)とかそれこそジャック・スミスのような、適当だったり目立ちにくかったりする名前を名乗るのかもしれない。
 その場合、立ち振る舞いも大人しくしなくては意味がないのではないか。

(私と正反対……注意を引かない、……引きたくない? 誰の?)
 思考の大海の中でライラが何かを掴みかけたとき、部屋の外から声がした。

「失礼します! シュライバー氏がお見えです!」
 同じく意識を引き戻されたらしいルシアスが、顔を上げた。
「……通してくれ」
「アイ、サー!」

 扉の向こうから威勢のいい応答があり、少し経った頃、中年のヴェスキア商人は会議室(サロン)にやって来た。いつも血色の良かったその顔は、船室内ということを差し引いても暗く見える。
 シュライバーはそこに大勢が集まっていたことには驚いたようだったが、その反応もどこか鈍い。

「こんな時間にすまないな、諸君」
 弱い笑みを浮かべて彼は言った。
「娘から話を聞いた。大変なことになったものだが、すべて俺の責任だ。この状況を解決するために全力を尽くさせてもらうよ」
「すべて、とは?」

 手振りで着席を促しながら、ルシアスが訊いた。入り口手前の空いた席についたシュライバーは、最初に深く息を吐いた。意気消沈した様子で語り出す。

「順を追って話そう。今回の誘拐騒ぎについて、いや、その前の段階だな。新造船の木材の供給が滞った時点で、誰の仕業なのか当たりはついていたんだ」

 彼は、ブレフト・ファン・ブラウワーという青年貴族について話し始めた。元はヘーリヒカイツラント貴族の末端に名を連ねる家系で、シュライバーとは父親のヨーゼフ・ファン・ブラウワーがヴェスキアに移住してきてからの付き合いだという。

 もちろん移住自体が貧困を解消するためのもので、なけなしの資金で購入した山が、その後この国の主要産業の恩恵を受けて木材の生産地となり、彼ら家族はそれによって持ち直した。ファン・ブラウワーの家名もその時買ったものだ。

 ところが数年前ヨーゼフが病で急死し、長男のブレフトが跡を継いだ。
 若いブレフトは、破産寸前だった家を立て直した父親の姿を見て育っており、それに負けまいという気持ちが強過ぎるきらいがあった。
 シュライバーの目にはそれが健気にも映り、何とか力になってやろうとここまで面倒を見て来たのだという。

「まさかあいつが東方貿易に目をつけていたとは、気がつかなかったんだ。林業だって、ひとりではまだうまく切り盛り出来ていないってのに。ブレフトの野心を甘く見ていた」

 おそらく誰かから東方貿易の儲け話を聞いてきたのだろう、とシュライバーは言った。しかし、ただでさえ複雑な海事について、門外漢の若者が噂を聞いた程度で理解できるはずもない。「貴族側の取り分は多くて儲かる」という部分のみが印象に残ったのかもしれない、というのがシュライバーの見立てだった。

「名ばかりとはいえ貴族だ。あいつは他人に無下にされた経験も、相手の視点に立って考える経験も少ない。勝手に格下だと思っていたルースに儲け話を断られて、頭に血が上ったんだろう。木材の件は、ルースに対する嫌がらせだったんだ」

 しかしルシアスは、資材の供給が遅れても取り乱すこともなく、冷静に代替案を模索した。このくらいの障害や事故など、彼にとっては珍しくもないのである。
 けれど皮肉にも、そのことがブレフトを更に刺激してしまったわけだ。

 長卓についた海賊達の口から、それぞれ苦い溜め息が漏れた。
 貴族殺しで極刑を恐れるような小心者はこの場にいなかったが、自らの首をかけるには、あまりにも馬鹿馬鹿しい話だった。

 しかし、いくら切っ掛けが子供じみたものであっても、賽は投げられてしまった。
 シュライバーは俯きがちになりながら、呟くように言う。

「ここに来る前に、あいつを説得に行った」
「成果は?」
「俺が今ここに来ている時点で察してくれ。ディアナには会えなかった。無事だとは聞いているよ」
「生命だけが無事でも、笑顔で手打ちにしてやろうという気にはなれんな」
 ルシアスがそう吐き捨てると、シュライバーは深く項垂れた。

 ブレフトの目的がルシアスに苦汁を舐めさせることにあるなら、情婦だと思われたディアナに手出しをされない保証はほとんどない。
 シュライバーが終始暗い顔をしているのも、彼自身がはつらつとして美しいディアナをよく知っているからだろう。それを傷つけられるのは、彼としても本意ではないのだ。

「くそったれ!」
 ファビオが立ち上がった。
「ルース、聞いたろう!? こうしている間にも、あいつが!」
「わかってる」

 感情の見えない声で応えたルシアスに不安を覚えたのか、シュライバーは悲痛な表情で彼を見つめた。

「恥を忍んで頼む、ルース。こんな状況になっても、あいつが、ブレフトが犯罪者になるのは可哀想だと思ってしまうんだ。そんなことになっては、ヨーゼフに申し訳が立たない。頼む……!」

 身分が貴族であっても、相手が国を捨てた元海賊であったとしても、犯罪は犯罪だ。貴族ということで忖度されるのは、最高刑をくだされた場合、庶民ならまだるっこしい絞首刑のところを、一瞬で終わる斬首にしてもらえるくらいか。

「……。おいおい、冗談はよしてくれよ、シュライバーの旦那」
 普段の飄々とした姿からは想像もできないほど、ファビオは暗い、歪な笑みを浮かべた。
「可哀想だ? 勝手に馬鹿やらかして、手前のケツも満足に拭けないばかりか、非のない女に糞なすりつけて! それで可哀想、だァ!?」
「よせ、ファビオ!」

 シュライバーに飛びかからんとしたファビオを、ハルが間一髪で後ろから抑える。あまりの剣幕にシュライバーは椅子から腰を浮かし、ライラとバートレットが壁になるように彼の前に立った。

『離せ、畜生! やってられるか、こんなの!』
 羽交い締めにされたファビオは母国語で叫びながら尚も暴れ、ライラが宥めるように声をかける。バートレットも、何かあれば加勢するつもりで彼女の傍に立っていたが、彼らの誰もがファビオと同じ気持ちだった。

 スタンレイはその光景に苦い顔をし、がりがりと乱暴に頭を掻きむしる。それから彼は、何も言わない頭領に目を向けた。
 ルシアスは、皺の刻まれた眉間を親指と人差指で揉みほぐしていた。
 が、やがて低い声で言った。

「つまり……俺も奴も表に名前が出ないよう、事を収めろと。そういう話か」

 室内が静まり返った。
 青褪めながらも、シュライバーは頷いた。

「その代わり、お前が捕まるような事態は何があっても、どんな手を使っても阻止する」
「……」
 ルシアスは再び黙り込んだ。
 永遠とも取れる静寂が流れた後、彼は呟いた。

「確かに、ディアナのために、仲間全員巻き込んでまで俺が死ぬわけにはいかないな」
 ファビオの顔が強張る。
 それでも淡々と、ルシアスは続けた。
「いいだろう、シュライバー。望み通り、隠密理に片付けてやる。ブレフト・ファン・ブラウワーが犯罪者の汚名を着ることはない。……が」

 シュライバーは緊張した面持ちで次の言葉を待った。
 その彼を射抜くようにまっすぐ見据えて、ルシアスは言った。

「彼女の身に何かあった場合、あの男の生命は諦めろ。それが最大限こちらの出来る譲歩だ」
「……」

 シュライバーは目を見開いて立ち尽くした。しかし、反論の許される状況でないことくらいは、彼も承知していた。

 それからルシアスはファビオに目を向けた。
「すまんが、それでいいか? パラシオス」
「……。しょーがねえな。飲んでやるよ」

 彼の声から激情がおさまったことを知って、ハルが拘束を解く。自由になったファビオは、肩を回しながら「馬鹿力で抑えやがって」とぎこちない笑みを浮かべた。

「ライラ」
 名を呼ばれてライラが振り向くと、ルシアスはまっすぐ彼女を見つめていた。
 先程までの無機質な表情と同じように見えるが、そうではない。その目の奥には、彼の苦悩が見え隠れしているようにライラには感じられた。

「こうなった以上、お前の手を借りなくては侭ならなくなってしまった。……やってくれるか?」
 ライラは敢えて笑ってみせた。
「水臭いな。今更何だ? 最初からやるって言ってるだろう」
「すまんな」

 ルシアスも薄く微笑んだ。それから彼は、蒼灰色の瞳の青年水夫に視線を移した。
「バートレット」
「アイ、サー」

 姿勢を正して応答する部下に、ルシアスは様々な感情を封じ込めた声で言った。
「彼女を頼む」
「──アイ。命に代えても」
 バートレットもそこに込められた思いを知って、真っ向からその眼差しを受け止めたのだった。