Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

新たな始まり

11

「おい、ありゃあ……何だ?」
 たまたまそのとき船縁にいたカルロが、不吉そうな声を出した。

 周囲にいた仲間達がその声につられて視線を投げる。港の波止場がある方角だ。
 積荷や人を運んで行き交う艀船の中で、まっすぐこちらに向かってくる一艘がいる。漕手以外に乗っているのは二人。身体の大きな男と、俯いているが髪型からして若い女だ。

 男の方が、船舷に寄ってきた海賊達に気づいて大きく手を振ってくる。
 しかし、愛想よく手を振り返すような間柄でもない。男達は訝る思いを強くし、銘々が意見を言い合った。

「ヴェーナの兄さんじゃねえか。また何しに来たんだ?」
「今度こそライラの尻尾をがっちり掴んだとか?」
「いや、だったら呑気に手なんか振らないだろう」
「それもそうだ」

 そうしているうちにも、ロイを乗せた船はカリス=アグライア号の船腹近くまで来てしまっている。

「隣に乗ってる、あの娘は誰だ?」
 誰かの放ったその問いに答えたのは、遅れて甲板に出てきたギルバートだ。
 女の方は俯いたままだったが、髪の色も髪型も彼には見覚えがあった。
「あれは……シュライバーの旦那のとこのご令嬢だ。どうなってるんだ?」
「よくわからない組み合わせだな」
 カルロが首を傾げたところへ、当のロイが大声を張り上げた。

「クラウン=ルース! 一大事だ、船へ上げてくれ!」
「いよう、数日ぶりじゃねえか兄さん! 一大事ってな、今回はまたどうしたってんだい!?」
 手摺から身を乗り出してギルバートが訊くと、知った声に気づいてエルセが顔を上げた。しかし、船縁に並んだ顔がいずれも粗野な男のものばかりなのを見て、恐怖で顔面蒼白になる。
 すかさず、ギルバートは彼女に手を振って笑みを向けた。

お嬢さん(ユフラウ)! 俺を憶えてるかい? 先日は失礼したな!」
 彼女の方もギルバートを憶えていたらしく、真っ青な顔のまま小さく頷いた。ほっとするというよりは、恐怖の海に浮かぶ唯一の望みに縋るような目でじっと彼を見つめる。

「……お前にしちゃ、随分とお行儀の良い対応じゃねえの」
 カルロが横から小声で茶化すと、ギルバートは笑みを顔に貼り付けたまま答える。
「あのお嬢ちゃん、育ちが相当良いようでな。海賊嫌いらしくて、この前俺達もかなり丁重にもてなされた(、、、、、、、、、)のさ」
「そいつは大変だ。右も左も海賊だらけの甲板なんか上がったら、感激のあまり卒倒しちまうんじゃねえか?」
「あの様子だと、それも有り得そうなんだよなあ……」

 参ったね、とギルバートがぼやいていると、報せを受けたルシアスがやってきた。
 ようやく顔を見せた海賊の頭領に、ヴェーナの魔導騎士は勢い込んで言った。

「クラウン=ルース! 一刻の猶予もならない事態だ、あなたの恋人が賊に捕まってしまった!」
「……恋人?」

 思わず聞き返したルシアスを、海賊達が一斉に見る。
 それからすぐ彼らは振り返り、反対側の船舷にいた女剣士を見た。

 突然注目を集めることになったライラは、戸惑った様子で佇んでいた。騒ぎを聞きつけて甲板に来たはいいものの、ロイに気づいて彼から見えない位置で話を聞いていたのだった。
 海賊達はライラが当然ながら無事なのを確認し、では恋人とは誰なんだということと、ライラの様子がおかしいことへの疑問を抱いた。

「──ラ」
 名を呼んで駆け寄ろうとしたルシアスの腕を、航海長(マスター)が掴んで引き止める。同時に、バートレットが動いた。
「俺が行きます」
 返事も待たずに、彼はライラの許へ走っていく。
 その背中を見送るルシアスの耳に、スタンレイの進言がどこか他人事のような響きを伴って届いた。
「誤解を解くのは後で。状況の把握が先です。今はあいつに任せて、コルスタッドから話を聞きましょう」

 ルシアスの視線の先にあるのは、バートレットに肩を抱かれたライラが、弱々しい足取りで内甲板に入っていく様子だった。
「……っ」
 それは、今まで見たことのないライラの表情だった。
 彼女にあんな顔をさせてしまった上、その肩を他の男が抱いているという状況に、ルシアスはその場に立ち尽くすほかなかった。
 歯を食いしばり、拳を握りしめて、溶岩の如き感情の波を何とかやり過ごす。

 そんな彼を痛ましそうに見つめながらも、スタンレイは押し殺した声で呼びかけた。
「頭領!」
「わかっている!」
 吐き捨てるように答えて、次の瞬間にはすべての表情を消し、ルシアスは縄梯子を用意するよう命じた。

「──詳しい話を聞こう、コルスタッド殿。上がってくるがいい」
 そしていつもどおりのクラウン=ルースになると、彼は下にいる来訪者に向けてそう告げたのだった。


「大丈夫か?」
 内甲板の片隅の、人目につかないような場所まで来たところで、バートレットはライラを座らせた。
 やや青褪めて見えるライラは、先程からずっと小さく震えている。彼女の正面に膝をついたバートレットは、気付けのためにその手を握った。

「ゆっくり、深く呼吸をするんだ。できるか?」
 ライラは頷いたが、何度やっても浅い呼吸にしかならない。彼女自身がそのことに焦り出したのを見て、バートレットは握ったライラの手を自らの胸の上に軽く押しつけた。驚いたライラがびくりと肩を揺らす。

 バートレットは、彼女の瞳をじっと見つめながら静かに言った。
「俺の鼓動に合わせろ。鼓動みっつの間に息を吸って、同じように息を吐くんだ」

 ライラは最初戸惑っていたが、やがて辺りが遠く聞こえる波の音と人の声だけになると、手のひらから伝わる温かな振動に集中し始めた。
「……そう、そうだ。そのまま続けて」
 彼女の呼吸が落ち着いてからも、バートレットはその体勢を維持し続けた。
 彼の鼓動と、自分の手に重ねられた力強く大きな手に、気恥ずかしさを感じたライラが身じろぎした。

「あの……ありがとう。もう大丈夫」
「そうか。よかった」
 軽く微笑むと、バートレットはあっさり彼女の手を離した。

 手を包んでいた温かさが急に遠ざかっていくのを感じながら、ライラは俯いた。残った鼓動の記憶を体内に取り込むかのように、握った手を口元に持ってくる。

「……バートレット。私は、別に殺されかけたわけじゃない」
「……? うん」
「手足をもがれたわけでもない。鎖で繋がれても、いない……自由の身だ」
「ああ、そうだな」

 彼には彼女が何を言おうとしているのかわからなかったが、今はただその言葉に寄り添った。ライラは握った拳に力を込め、絞り出すように言った。

「なのに何故、こんなに怯えなくちゃならないんだ……?」
「……」
「自分で自分がわからない。それほど酷い目に合ったわけでもないのに、なんで、身体が固まるんだ。なんで震えてるんだ。なんで……っ」
「ライラ、落ち着け」

 バートレットが咄嗟にライラの両肩を掴む。はっとしてライラは彼を見たが、すぐに表情をくしゃりと歪めた。
「嫌なんだ、こんな弱い自分は」
 翠金石の瞳(スター・オリヴィン)が、溢れる涙で揺らめく。

「だから、すべて捨てる覚悟で家を出たのに。全然駄目だ。情けない、すごく惨めだ。悔しいよ……!」
「ライラ」
「泣いたりしてごめん。でも……っ」
「いいんだ、吐き出してしまえ。俺だって、全部聞く心積もりだからここにいるんだ」
 笑みを含んだ声で言うと、バートレットは彼女の隣に移動して腰を下ろした。

「別に弱いとも感じないけどな。お前はよくやってるし、変わらずすごいと思ってるよ」
「全然、そんなんじゃ……」
「本能が恐れることを、無理に否定する必要はないだろう。大の男でも、ガキの頃犬に吠えられたってだけで、子犬すら受け付けない奴だっている。心に受けた傷というのは、弱さとは別の話なんじゃないかと思う」
「……」
「お前の場合は、ひとつの出来事じゃないんだろう? 何年も耐えた上での話だ。恥じることじゃないさ。耐えたことを誇りにしていいくらいだ」

 ライラはバートレットの言葉をじっと聞いていたが、やがて目を伏せて溢れ出た涙を頬に落とした。
「私が嫌なんだ。この状況から何とかして抜け出したい。自由になりたい。でも怖い。どうしたらいいんだ? こんなことで立ち止まってる自分が大嫌いだ。それに」
「それに?」

 聞き返され、ライラは一度言葉を切る。潤んでいた目に力を込めてから、改めて口を開いた。

「これじゃ、いざというときに戦えない。今だって、ルースが危険に晒されそうなのに。このままじゃ役立たずだ。それだけは、絶対に嫌なんだ」

 バートレットは軽く驚いて彼女を見つめた。
 ライラは顔を上げ、涙で濡れた瞳で彼を見つめ返した。
「克服したい。今はまだ駄目だけど、勝ちたい。あいつの隣に立つに相応しい人間になりたいんだ。バートレット、あなたなら手を貸してくれるか?」

 バートレットはしばらく黙っていたが、やがてふわりと微笑んだ。
「お前、本当に頭領のことが好きなんだな」
「え……っ」
「ちょっと、頭領が羨ましくなった」
 頬を染めたライラに冗談めかして言ってから、バートレットはさっきより近い位置から彼女の瞳をまっすぐに見た。

「いいだろう。元からそのつもりだが、改めて言う。俺は、何があってもお前の味方でいよう。お前の選択に従うよ。お前が克服するために戦うと言うなら、俺はその決意を支持する」
「バートレット……」
 再び瞳を潤ませて、ようやくライラは、ぎこちなく微笑んだ。
「ありがとう。心強いよ」
「俺だけじゃないけどな。あのときと違って今は皆いる。頭領も、他の奴らも、すべてお前の味方なんだ。お前を守るために動くだろう。その上で、お前が望む行動をとればいい。焦る必要もない、ゆっくりやろう」

 うん、とライラが頷いたところで、心配したらしいレオンとティオがやってきた。
「ライラさん、大丈夫ですか……って、うわ!」
 泣いた跡の明らかな顔で振り向いた彼女に、ティオが顔を強張らせる。レオンも眉根を寄せたが、ライラは彼らに笑いかけた。

「大丈夫だよ、心配掛けたな」
「……全然、大丈夫そうじゃないじゃないですか」
 はあ、とレオンは苦い溜め息をつく。

「あんまりこういうこと言いたくないけど、この街に来てから俺の中で頭領の株が下がりっぱなしです。ほんと、最低」
「あいつのせいでもないんだ。詳しくは話せないけど……、バートレットに散々泣き言言って、すっきりしたからもう平気だ」
「何それ、ずるいなー!」
 と、文句を言っているようで実は、当のレオンも悪戯っぽい笑みを浮かべている。

「まあ、事の真相は上の話し合い待ちになりますし、それまで先生のとこで薬草酒でも飲みませんか? 蜂蜜入れると美味しいやつがあるの、俺知ってるんです」
「いいな、それ」
 くすくす笑うライラの横から、バートレットもまた笑いかけた。
「今度は飲み過ぎるなよ、ライラ」
「わかってるよ。これだけ保護者がいれば大丈夫だろう?」
 先に立ち上がった彼に手を差し出され、ライラはその手をしっかり握り返した。

「じゃ俺、先生に事情話してきますね。頭領がライラさん泣かしたって言ったら、きっと協力してくれますよ!」
 ティオも殊更明るく言うと、早速パタパタと走って行った。