Brionglóid
海賊と偽りの姫
新たな始まり
10
相変わらずあるじが不在のシュライバー商会事務所を出て、ディアナは気を取り直すように豊かな髪を掻きあげた。
新しい雇い主は羽振りがいいだけでなく人格にも問題はなかったが、多忙過ぎてなかなか捕まらないのが玉に瑕だった。それを踏まえて留守番を置いてくれてはいるが、どうも頼りなくて、言伝てしても安心できない。おかげでディアナは、数日前からこの建物に足繁く通っているのだった。
人魚号の処分が決まったため、最近の彼女と仲間達は船を降りて陸に拠点を移している。
ヴェスキアの港の形状を考えれば、船から通うのと宿から通うのでは手間がまったく違う。いちいち小舟に乗り換えなくていいし、滞在費用はシュライバー持ちだ。
これは状況としては良い傾向なのよと、彼女は自分に言い聞かせて、船にいられなくなった寂しさを埋めていた。
実際は、寂寥感に浸ってばかりもいられない。
出港までに新造船に関する問題の解決や、積荷の準備もしなくてはならないし、船長として数多くの確認や手続きもある。最も重要な、船員の補充もしなくてはならなかった。
そういうときにおあつらえ向きなのが、この国の『魂売り』という斡旋業者だ。彼らは、人員募集の手間と時間の浪費を嫌う船主や船長から重宝されていた。
しかし彼らは時折、利益追求が過剰な場合もあった。とにかく頭数を揃えようと、水夫希望でもない出稼ぎ労働者を騙して監禁し、麻薬漬けにした状態で船に送り込んでくることもある。聞いた話では、小舟に折り重なった状態で届けられた乗船希望者の下のほうは、街の死体置き場から拝借してきた連中だった、なんてこともあるらしい。
こちらが気をつければいいだけなのかもしれないが、今回ディアナは業者を使わないことにした。ある程度権限の貰えたこの航海では、自分の目で見て、ちゃんとした水夫を雇いたかったのである。
それを許可したのも金を出してくれるのもシュライバーなのだが、報告をしたいのに顔を見るのもひと苦労というのは、ちょっと困りものだった。
「仕方ない、時間を置いてまた来るかねえ」
わざとらしく声に出して言い、彼女は石畳の通りを歩き出した。
すると、遠くからこちらを窺っていた数名も同様に動き出すのがわかった。わかっていながら、ディアナは悠然と歩いていく。
(懲りもせず、何日もご苦労さま)
先日ルシアスが襲われた件については聞いていた。陽が高い時間の、街の中での出来事だという話も。
そして事務所に通い始めてから、彼女は自分も見張られていることに気づいた。ディアナ自身は賞金首ではないのだが、国を捨てた今、母国の人間に監視されることは充分有り得ると思っている。
とにかく相手の出方を見ないとどうしようもないので、隙を見せるため、腹心のファビオともあえて別行動を取っているのだった。
(人魚号は陛下の息のかかった人間が買い取ったのだろうけど。それだけじゃ飽き足らず、裏切り者の口封じ、なんてあの国なら考えそうだものね)
心の中で苦笑する。
しばらく歩いていると、行く手に見たことのある顔の男が立っているのが見えた。向こうも同時に彼女を軽く驚いたように見、それから表情を固くして足早に近づいてくる。
「失礼、先日船でお会いした方で間違いないだろうか?」
「そうだけど」
ロイ・コルスタッドは、彼女の答えを聞くと更に顔をしかめる。
戸惑うディアナの様子に気づいているのかいないのか、彼はずいっと距離を縮めた。この大男に詰め寄られると、大柄なディアナですら圧を感じる。
「クラウン=ルースが事件に巻き込まれたようだが、恋人のあなたが、供もつれずに出歩いていて大丈夫なのか」
よその土地の人間とはいえさすがはヴェーナの役人、そのくらいの情報は得ているようだった。
そして彼の懸念も何らおかしなものではないのだが、前提条件がそもそも虚構だ。
これは面倒な状況になったねと、ディアナは舌打ちをしたい気分になる。
見張りもまだ散ってはいない。さてどうしたものか。
「えーとまあ、そうね……。暗くなる前に戻るなら、危険もないんじゃないかしら、なんて」
「お一人では危ない。港にお戻りなら、僭越ながら俺がお送りしよう」
ロイの紳士的な申し出に、ディアナはぎょっとした。
「へ? あ、いえ、そんなことしていただかなくても」
「遠慮は無用だ。先日の無礼の詫びだとでも思っていただければいい」
この街でヴェーナの威光は大して役に立たない。が、こんな目立つ男を引き連れていたら、隠れてうろちょろしている輩はもちろん、一般人だって声をかけてこないに違いない。
ディアナは周囲に聞かれないように、ロイに寄り添うふりをして彼に早口で告げる。
「詫びられる覚えなんかないし、そういうことされても困るんだよ。だって」
「クラウン=ルースに貸しを作ろうというわけでもない。あなたはお気づきではないのかもしれないが、もう既に――」
「だから、気づいてて言ってるのよ」
ロイは目を丸くした。
それから改めてディアナを眺め、心得たようににやりと笑った。
「なるほど。服装からしてもしやとは思っていたが、あなたも一人前の海賊だったか。だが確かに、クラウン=ルースは一般のご婦人に航海は厳しいと言っていた。今になっていろいろ合点がいったぞ」
なんだか妙な方向へ納得された気もするが、面倒を嫌ってディアナは解説しなかった。今はそんなことをしている暇もない。
ロイもまた、表面的には世間話のような表情を取りながら、彼女にだけ聞こえる声音で言った。
「では、かえって邪魔をしてしまったのかもしれないな。改めてそのお詫びとして手伝わせてくれ。特に荒事では、役に立てる男だと自負している」
「あら頼もしいね。でもまだ、相手の手の内も何もわかってないんだ」
言いながら、ディアナは再び歩き始める。今日はもう諦めて、春まで借り上げてもらった常宿への路を辿ることにした。
それを追いつつ、ロイは言った。
「クラウン=ルースの首ではないのか?」
「彼は別にこそこそしてないわ。普通に街だって歩くし、勝負したいならいつでもどうぞって感じよ。船にいる時だってそう、あなたも来たときに妨害なんかなかったでしょ」
「そうか、ならば監視する理由がないな」
彼女の横に並んで歩くロイは、胸の前で腕を組んで考え込む。
ディアナは肩を竦めた。
「なのにあたし、ここ数日つけまわされてるのよ。いい加減気持ち悪いしうんざりしちまってね」
「それはお気の毒だ。市に通報するわけにはいかないのだろうか」
「立場上それは避けたいねえ」
「だからあえて、一人で出歩いているのか。その勇気は感心するが……でも危険だ」
ディアナは小さく笑いながら、隣の大男を横目で見やった。
「お兄さん。前会った時も思ったけど、ちょっと優しすぎだね。その辺の変な女に騙されないようにね」
「よくからかわれる。だが俺は隊長として、部下に示しがつくような清廉な騎士であれと常に己に課している。結果騙されたとしても、恥じることはない」
魔導騎士は大真面目に言い切る。
初対面であんな娼婦めいたことをしてみせたのに、それでもディアナの護衛を買って出るくらいなのだから、ロイは本心を語っているのだろう。
いろんな男がいるもんだねえ、とディアナは感心してしまった。
そうしているうちに、二人は宿の建ち並ぶ界隈に入ってきた。
この辺りで宿を営むのは大体が酒場だったが、中途半端な時間なので、人通りは皆無ではないが少ない。
表通りと違うのは、大通り側からは見えない囲いや庭が見えるところだ。森の国だけあってどの家も多種多様な庭木が植えられており、またきちんと手入れをされているのがわかる。ちょっとした屋外席を設けているところもあった。
海の生活を愛するディアナだが、こういう緑を眺めながらの散歩も嫌いではない。まあ、変な監視がいなければの話であるが。
宿までは遠くもなく、今日は本当に何事もなく終わるかと、そう思われたときのことである。
背後で「きゃっ」と小さく悲鳴が聞こえた。
二人が振り返ると、三人の男が現れていた。うち一人は、若い娘を羽交い締めにし、別の一人が銃口を彼女に向けている。
(エスプランドル人じゃない)
それを瞬時に確認し、ディアナは改めて娘を見た。知らない顔である。
「女。この娘を傷つけられたくなかったら、俺達と一緒に来い」
ディアナは面食らった。ロイが目線でこちらを窺ってくるが、彼女自身、状況が飲み込めなかった。
「ちょっと待ってよ。あたし、あんた達のこともだけど、その子のことも知らないわよ?」
「しかし、見捨てるわけにも……」
ロイが戸惑うように言う。
「まあ、そうなんだけどさ」
人として、という意味でなら従うべきなのだろうが、やはり相手の目的がわからない。ディアナが考えあぐねていると、娘が必死の形相で叫んだ。
「モレーノ船長、私、シュライバーの娘です!」
「は? シュライバーの旦那の娘さんがなんでここに? それに、どうしてあたしのこと知ってるんだい」
「私、あなたにお会いしたくて……事務所で入れ違いになったと聞いて、追ってきたんです」
益々わけがわからなくなったが、とりあえず無関係の相手ではないようだ。むしろ、人質となっているのは雇用主の家族なのだから、関係は大有りだった。
「うーん、そっか……」
ともかく今は彼女を助けるかと、ディアナは気持ちを切り替えた。
周囲をさっと見渡す。残念ながら部下などの見知った姿はない。窓や扉の影から様子を見ている人影もあったが、巻き込まれるのを怖れて介入してくる者はなさそうだった。
彼女は軽く嘆息して腰に手を当てると、男達を一人ひとり眺めた。
「で、あんた達は? 名乗れなくても目的くらい言えるでしょ」
「お前はクラウン=ルースの情婦だろう。奴をおびき寄せる餌になってもらう」
「あー、そういうことね」
同国人でないばかりか、狙いが自分でなくルシアスだと聞いて、正直ディアナは拍子抜けした。
しかし、あの時ロイを誤魔化すためにとっさについた嘘がここまで効力を持つとは、誰が思ったろうか。
男達はそれとは知らず、ルシアスと自分の関係について、証拠になるものを探して監視していたのかもしれない。ということは、先程のロイの言葉によって確信させてしまったのか。
複雑な気持ちになりながら、ディアナは表向きだけ不遜な態度で言った。
「言うこと聞いたら、その子は離してくれるかい。いくら相手がルースでも、女二人も人質にとらないとまともに対峙もできないなんて、そんなことないわよね?」
「ふん、いいだろう。武器は捨てろよ」
男の一人に言われ、ディアナは腰の剣を外してロイに渡した。
「お兄さん、お願いがあるんだけど」
「何だ」
「あたしはいいから、彼女の護衛に集中してくれる? ひとりにさせないで。街の自警団程度じゃ心許ないわ。あなたなら何とかできそうだし」
「引き受けよう。だが、あなたは」
大きな身体で心配そうな眼差しを向けてくるロイがなんだかおかしくて、ディアナはつい笑みを零した。作ったものではない、自然な笑みだった。
「これでも海で生きてきたのよ、ルースが来るまでの時間稼ぎくらいはできるわ」
「わかった。決して無茶はしないと約束してくれ」
尚も真剣な表情で言い募るロイに、ディアナは片目を瞑ってみせた。
「しない、しない。じゃ頼りにしてるよ、お兄さん」
そうしてディアナは、しっかりとした足取りで男達のほうに歩いていった。