Brionglóid
海賊と偽りの姫
新たな始まり
08
ルシアス達が船に戻ってきたのは、夕方になってからだった。
その頃には昼間の出来事も仲間達に伝わっていた。だから、ふたりが甲板に姿を見せると大勢が取り囲んで無事を確認したがった。
それはスタンレイら幹部も同じだったが、ルシアスが元気なのを実際に目にした後は、いつもの調子で「もう気が済んだろう、とっとと持ち場に戻れ!」と怒鳴って水夫達を散らしてしまった。
人が疎らになったのを見届けて、スタンレイはルシアスを振り返る。
「すぐに出航したいところですが、残念ながら準備が整っていません」
「わかってる。出頭要請はあったか?」
「いえ」
事務的なやりとりをしながら彼らは船長室へと足を向ける。
扉の前には、ミアを抱きかかえたライラが佇んでいた。
ルシアスが彼女の手前で足を止め、他の連中も合わせて立ち止まる。
だが、今日のライラは「おかえり」とは言わなかった。
「──狙われたそうだな?」
ライラはじっとルシアスを見つめた。
青褪めるでもなく、怒るでもない。彼女の心の内を図りかねて、ルシアスは何も答えなかった。
ライラは、続けて言った。
「手練だったと聞いた」
破落戸ではない方の話だと気づき、ルシアスはようやくそこで軽く頷いた。
「なかなかの腕に見えた。直接斬り結んだわけではないが」
するとライラは黙り込み、腕の中のミアに視線を落とした。
しかしすぐに、意を決した様子で顔を上げた。
「ルース、しばらく私を護衛として連れていけ」
彼はそんな彼女をまっすぐ見つめ返した。
「駄目だ」
「何故だ!?」
思わず言い返したライラの声に驚いて、ミアが腕の中から抜け出して走り去る。ライラはそれを目で追っていたが、続くルシアスの声に意識を引き戻された。
「お前を危険な目にあわせる気はない」
その返答をライラはすぐには飲み込めず、呆気に取られた。それから彼女は、怒りで顔を紅潮させた。ずい、と前に出てルシアスを睨み上げる。
「お前……っ! 私を誰だと思ってるんだ!? 危険って! 今更何だ!?」
「そういう問題じゃないんだ、ライラ」
苦い溜め息をつく頭領の後ろで、スタンレイやギルバートが気まずそうな表情で突っ立っている。彼らはルシアスの言いたいことが何となくわかるのだろう。
しかし、激高したライラはそれに気がつかない。
「じゃあどういう問題だ。私が賞金稼ぎだから? それとも部外者だからか!?」
「どっちでもない。今更部外者だなんて言うつもりなんかない」
「ならどうして!? 他に誰がいるっていうんだ。私以上に戦える者が、他にいるのか!?」
「残念ながらいないな。それは認めよう」
ライラに睨まれて苦々しく返すルシアスの後ろから、わざとらしい咳払いが届いた。ギルバートだ。
「あー、ふたりとも。こう見えて、俺達も意外と繊細な心の持ち主でな。続きを中でやってくれねえと、今にも声あげて泣き出しちまいそうだ」
「あっ、ごめん!」
そこでやっと失言に気づいて謝るライラに、ギルバートはにやりと笑い返した。
「いや、大丈夫よ。お前のほうが俺らより遥かに強いのは承知してる。そんな腕前の奴が俺らの大将を守ってくれるってんだ、むしろ大歓迎さ」
ただ……、とギルバートはそこで一度言葉を切った。
「お前がそこまで心配してくれるのも男冥利に尽きるだろうが、ルースにもいろいろあるんでね。そこは、わかってやってくれねえかな?」
「……。そうか……」
ギルバートに諭されて、少し頭が冷えたライラは小さく呟いて黙り込んだ。
男達は、彼女が再び口を開くのをじっと待った。
しばらくして、彼女は恥じ入るように緩い笑みを浮かべた。
「そうだな。つい感情的になって言葉が過ぎてしまった。ごめん」
「謝るほどのことじゃねえよ。そうだ、今度気が向いたら、俺とも手合わせしてくれな?」
気さくに言うと、ギルバートはひらひらと軽く手を振って去っていった。
スタンレイも彼に倣うつもりのようで、ルシアスに向き直った。
「念の為、街に数名配置してあります。何か動きがあればお伝えしますが、今はゆっくりなさってください。あとで夕食を運ばせます」
「シュライバーから連絡があるかもしれない、来たらすぐに知らせてくれ」
「アイ、サー」
と、航海長もまた踵を返してしまう。
残された二人はしばしその後姿を眺めていたが、やがてルシアスが気を取り直すように部屋の扉を開けた。
ライラはどうするか一瞬迷ったが、結局彼の後を追うようにして入室する。
「ルース、私は」
まっすぐ私室に入っていくルシアスの背中に向けて、ライラは言った。
脱いだ外套を寝台に放ったルシアスが振り返る。
ライラは先程とは違って、落ち着いた口調で続けた。
「これしか取り柄がないんだ。戦うことしか……。それを拒絶されてしまうと、何もできることがなくなってしまう」
「……」
「そりゃあ、今までの関係を考えたら、勝手だと思うだろうけど。お前にも、いろいろと思うところもあるのだろうけど。でも、お前が誰かに斬られるかもしれないときに、何もしないなんて、私には……っ」
切々と訴える彼女に、堪えきれなくなったルシアスが動いた。
大股でライラとの距離を詰めるなり、腕の中に彼女を抱きよせる。
「だからそういう問題じゃない、ライラ。俺も一人の男だ、自分の女を盾にできるわけがないだろう!」
ライラは突然のことに言葉を失った。答えない彼女に、ルシアスは嘆息したあと声の調子を落として告げた。
「俺だって、お前が傷つくのは耐えられない。だからお前の言い分もわかる。どっちを選んだところでお前が何らかの形で傷つくんだ、こんな厄介な話もない」
「……驕っているのかもしれないけど、私はそう簡単にやられはしないよ」
ようやくそう返したライラの後頭部を、ルシアスの大きな手が撫でた。
「重々承知してる。俺も大概勝手なんだ。切っ先を向けてきたお前に惚れたくせに、お前が血溜まりに倒れる姿を想像するだけで、心臓が止まりかけるんだから」
自分で言っておきながら、ルシアスはおかしそうに含み笑いを漏らす。ライラは不満げに彼の胸を小突いた。
「もう少し信用してもらいたいものだ。それとも、そんなに手強そうな相手だったとか?」
ルシアスはすぐには答えなかった。しばらく考え、静かに言った。
「ああ。一切隙がなかった上、俺とギルバートの二人が相手でも怯みもしない」
「そんなに……? 誰だろう、知らない相手だったのか?」
ライラは心の底から驚いた。さっきギルバートは殊勝な言い方をしたが、ルシアスほどではないにしても彼とて相当な使い手なのだ。
ルシアスは緩く首を振った。
「まったく知らない。俺も長いことこの世界にいるが、あれほどの相手なら噂のひとつも聞こえてきそうなのに」
そこまで言って、ルシアスは黙ってしまった。
ライラもまた考え込んだが、やがて彼の胸元を押して少し身を引いた。そこからじっと、彼の顔を見上げる。
「ルース、やっぱり私も一緒に行く」
「だから駄目だ」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろう!? お前、もう少し賞金首の自覚を持ったほうがいいんじゃないのか!?」
「お前こそもう忘れたのか? コルスタッドだってまだ街にいるんだ。危険なのは同じだろうが」
ルシアスに呆れたようにそう指摘され、ライラは口を噤む。それから彼女は、駄目で元々と提案してみた。
「バートレットも一緒だったら、そっちはなんとか誤魔化せるかも……」
「冗談じゃない、芝居だとしてもそんなの許せるか!」
不愉快も顕に却下され、ライラは「そうだよなあ」と退いた。
苛々とした感情を吐息ひとつで殺して、ルシアスは言った。
「そいつの他にも絡んできたのがいて、ギルバートが返り討ちにした。陸での話だから、すぐ海事法廷に引っ張り出されることはないだろうが」
「相手は一般市民? なわけないか」
「破落戸だな、よそ者に見えた。五人の内、向かってきた二人を始末したが、残りを急に出てきたその自称賞金稼ぎが片付けた」
「ちょっと待て、それってつまり」
ライラは勢いにまかせて腕を突っ張り、そこでようやく、今の今までずっと彼の腕の中にいたことを自覚してぎょっとした。
顔を赤くしながらぎこちなく抜け出し、さり気なく彼から離れ、腕組みして考え込むふりをする。
「……報奨金が出るのは、相手が元々お尋ね者として布告されてたか、裁判で有罪になった場合だけだ。うっかり殺した場合、相手の有罪の証拠を出すか、こっちの正当性が証明できなきゃただの殺人になる」
「正統派じゃないってことだろ」
ルシアスはライラの至極真っ当な言い分に対し、何でもないことのように言った。
実際、海上でも似たような事例はあった。海賊行為はもうしないと宣誓して私掠許可を得ながら、同時に別名で海賊行為を続行する連中もいる。
肩書などというものは、彼らにとってその程度のものでしかない。要は起訴されなければいいのだ。
そして世の中も、そのくらいのことは承知した上でこれらの制度を敷いている。
戦時でもないのに恩赦付きの私掠船なり、賞金稼ぎなりの認可を出すのは、社会の逸脱者同士、潰し合ってくれればいいとの思惑があってこそだ。
斬られたのが小物の破落戸なら、単なる悪党連中の諍いと扱われて、ろくに捜査もされない可能性が高かった。
「それで無名ね。野盗の鞍替えか、軍人崩れか……気になるな」
顔をしかめて呟くライラの顎に手を伸ばし、ルシアスは自分の方を向けさせた。
「だから、結構面倒な状況なんだ。そんなものにお前を巻き込みたくない」
「そんなの今更だろうに」
唇を尖らせたライラが、顎を掴む彼の手を軽く叩いて払った。なのに口元を綻ばせている彼を、ライラは気味悪そうに見た。
「何なんだ、にやにやして」
「いや……。改めて、自分の身勝手さに呆れるばかりでね」
意味がわからなかったライラが視線で先を促すと、ルシアスは小さく笑みを零した。
「巻き込みたくないのも本心だが、お前に心配されればされるほど、浮かれる自分もいる」
「……。何を馬鹿みたいなこと言ってるんだ」
「まったくだ。想いが通じれば苦悩も消えるかと思えば、通じたら通じたで全然落ち着く気がしない。本当に、手に負えない」
そう言って、ルシアスは軽く身を屈めた。
ライラは目を瞠った。緊急停止した思考が再稼働するまでに、少し時間がかかった。
そして気がついた時には、彼は部屋の扉に手をかけているところだった。
「食事は会議室で。いろいろ話し合ってまとめておきたい。お前も参加するといい」
そう言いおいて、ルシアスは平然と部屋を出ていった。
「……な、何……っ」
再び動き出した思考がライラに現実を伝えようとするが、彼女は必死にそれを拒絶していた。
震える手が無意識に口元に向かう。ほんの一瞬の感触が、いまだに残っている気がした。
「嘘……」
愕然としてライラは呟いた。
不届き者の海賊は、あろうことか彼女の唇を奪っていったのだった。