Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

新たな始まり

04

 煎じ薬のおかげか、しばらくすると二日酔い特有の重苦しさも多少は晴れてきた。
 それでもまだ自分の吐く息が酒精(アルコール)を伴っている気がして、ライラは閉め切られた船長室(キャプテンズ・デッキ)から逃げ出した。

 日暮れまでは間があったが、一日の活動時間が終わりに差し掛かっていることを日の高さと風の冷たさで知る。丸一日無駄に過ごしてしまったわけだ。
 うんざりした様子で空を見上げている彼女に気づいて、バートレットが歩いてきた。

「おはよう、ライラ」
「おはよう……? さすがに、もうそんな時間じゃないのはわかってるよ」
 恐らく、いつも通り朝から仕事をしていたであろうバートレットに、ライラはばつが悪くて眉尻を下げた。

 しかし相手の方は、そんなライラを気にしている風でもない。
「別に皮肉じゃない。寝起きだろう?」
「我ながらみっともなくて恥ずかしいんだよ。言い訳じみてるけど、こんな酒の飲み方なんて滅多にしないんだからな」

 ライラは唇を尖らせ、そのまま船舷の方に向かう。肌寒いほどの海風は、まとわりつく目眩を多少なりとも取り払ってくれるようだった。
 そんな彼女の後について来ながら、バートレットは苦笑で応える。
「たまにはいいだろう、昨日はいろいろあったんだ。酒で流すのは悪いことじゃない」
「ふうん」
 振り向いて船舷の手摺に腰掛けながら、ライラは正面に立つバートレットの顔をじっと見つめた。
 彼は目を瞬かせた。

「どうした?」
 ライラは海風に煽られて顔にかかった前髪を払いながら、視線をさり気なくそらして言った。
「小言を言われるんじゃないかと思ってた。若い娘が酔いつぶれるほど飲むとは何事だーって」
「俺も横にいたし、ちゃんとここまで帰ってこれたじゃないか。危険がないなら別だ」
「保護者がいればいいのか? 子供じゃあるまいし」
 呆れたライラが再び彼を軽く睨み上げる。

 バートレットはそれこそ、へそを曲げた子供をあやすような眼差しで彼女を見下ろしていた。
「だってお前、実際に飲み過ぎて二日酔いなんだろう? ああいう飲み方をするなら保護者は必要だ」
「気づいてたなら止めてくれたらいいのに。大体、あれだけ飲んで全く平気なバートレットがおかしいんだよ……」
 溜め息交じりにライラは項垂れた。

 酒量で言ったらライラよりもはるかに上だったのに、この青年水夫は本当に普段どおりだった。昨夜の時点では頬も色づき、この冷たい印象の瞳すらじんわりと潤んでいたくらいなのだが、今はもうそんな様子は塵ほども窺えない。

 こういうものは飲み方の他に体質によるものが大きいが、バートレットの場合は後者の恩恵が特に強そうだった。まだ若干残る頭痛に眉根を寄せながら、ライラは彼を妬ましく思った。

 そのまま二人で無駄話に興じている内に日も傾きかけて、上陸していた乗組員達も徐々に帰船し始めた。

 その中には、シュライバーの許に赴いていたルシアス達の姿もある。
 彼が甲板に上がってくるなり、スタンレイら高級船員をはじめ数人が出迎えて小さな人だかりが出来あがる。帰ってきたばかりだというのに、ルシアスは疲れた顔ひとつせず報告を受けたり指示を飛ばしたりしていた。

「行かなくていいのか?」
 ライラがなんとなく声をかけると、バートレットは軽く首を振った。
「いいよ、特に報告があるわけでもないからな」

 その返答に内心驚いたが、ライラは何も言わなかった。

 いつもなら、彼は真っ先に頭領の出迎えにあがっているはずだった。航海長(マスター)を差し置いてルシアスの右腕候補と呼ばれるバートレットは、それほど熱心にルシアスを信奉していたのだ。

 それが今、バートレットは彼女の傍から離れようとしない。ご機嫌斜めな飲んだくれに呆れもせず。
 自分達はまるで兄妹のようだというライラの言葉を、彼は納得して受け入れたようである。それどころか、妹分を庇護するという使命について、バートレット自身はかなりお気に召したらしい。

 早速ライラの二日酔いという課題が降って湧いたことで、彼が妙に楽しそうだと思うのは、さすがに穿った見方をし過ぎだろうか。
 ライラがつい可愛げのない態度をとってしまうのは、悪酔いのせいもあるが、彼に対する気恥ずかしさもあるのだった。

 今彼ら二人がいるのは、船長室(キャプテンズ・デッキ)にほど近い位置である。ひと通り指示の終わったルシアスは、やがてティオを伴ったままふたりのほうに向かってきた。

 体調不良に気を取られて、心の準備がまだだったライラはつい身構えて顔を強張らせる。
 しかしルシアスと視線も合ってしまった以上、ライラも立ち上がって出迎えざるを得なかった。

「……おかえり」
 昨夜のやり取りを踏まえ、どんな対応を取るか決めていなかったため、彼女の口をついて出たのは当たり障りのないそんな一言だった。次いで、バートレットがルシアスに黙礼する。

 ルシアスはふたりの前で足を止め、やや考えた後でこう応えた。
「ただいま」

 すると、途端に甲板の海賊達がざわめく。
「聞いたか!? ただいまって言ったぞ!」
「ご苦労以外は初めてだな!?」
「うわ、なんかこっちまで照れますね!」
 盛り上がる甲板に、まだその場にいたカルロやギルバートは「そんなに騒ぐ話かよ」と呆れ返っている。

 ライラとしてはもう、その場から逃げ出したい一心だった。
 背後の騒ぎをルシアス本人は嘆息ひとつで黙殺して、改めて口を開いた。

「体調はどうだ」
「別に病気じゃないんだから……。おかげで多少だるいだけで済んでるよ」
 最初の一言という関門を突破したことで気が楽になったライラは、平常心を強く意識しながらそう答えた。

 いつも通りの対応でいいなら、それはとても助かる。そして、できればずっとそうあって欲しかった。

 すると、ルシアスの後ろに控えていたティオが、にこにこしながら籠に入れた林檎をライラに見せてきた。
「ライラさん、これなら食べられるんじゃないかって、頭領が林檎を買ってくれたんですよ。後で切ってあげますね!」

 年齢に不相応な気苦労の多いこの少年が、こんなに上機嫌なことは実に珍しい。
 弾けるような笑顔にライラが呆気に取られていると、彼はその理由を自分で打ち明けてくれた。

「俺、ライラさんが船に残ってくれるって聞いて、もう嬉しくて!」
「ああ、やっぱそうなんだ?」
 と、ルシアス達の後方から聞いてきたのはギルバートである。ライラは嘆息した。
「ずっとじゃない、春までだ」
「そんなこと言わず、ずっといりゃいいのに。まんざらでもないんだろ?」

 なあ、と彼が振り返った先にいたカルロも、頷いて同調する。
「いてくれたら頼もしいよな。似合うぜ、海賊?」
 そのままではなし崩しになりそうな雰囲気に、ついライラは声を大きくした。
「私は海賊になる気はないったら。海のこと何も知らないんだぞ!」
「最初は誰だってそうだって! 大丈夫大丈夫!」

 甲板を陽気な笑い声が覆う。ライラが重ねて反論しようとするのを手振りで制したのは、傍らに立っていたルシアスだった。
 彼は甲板に向き直って告げた。

「お前達、からかうのもその辺にしておけ。こっちはひと晩拝み倒して何とか了承させたんだ、今更変心されちゃ敵わん」

 海賊達は途端に軽口を閉じる。
 せっかく盛り上がっていた場が一気に褪めたことに対し、ギルバートがルシアスを睨めつけた。

「……そういうのさ、お前が言うと冗談に聞こえないんだよ」
「冗談じゃないからな」
 ルシアスはあくまでも涼しい顔で返す。
「そうなの!?」
 ぎょっとしたギルバートに前のめり気味に凝視され、ライラは反射的に身を縮こめる。

 が、すぐにルシアスの腕が伸びてきて、彼女からギルバートを引き離した。
 ギルバートはそのことに気を悪くするどころか、気の毒そうにライラを見やっている。
「あー、そいつはご苦労だったな、ライラ。大変だったろ?」
「ええと……」
 何と答えたものかわからず、ライラは言葉を濁す。

 昨夜大変だったのは確かだ。要は根負けしたのである。
 普段はろくに感情すら表に出さないこの男が、一体どこにそんな熱意を秘めていたのかというほど、ルシアスはしつこく説得してきた。

 まあ、ライラもどこかで越冬はしなくてはならないわけで、少しでも温暖な地域に連れて行ってもらえるならと、最終的には半ば投げやりになって了承したというのが実際のところだった。
 海賊達は頭領が勝負時に見せる粘り強さは重々承知していたので、ひと晩中その押しにさらされたであろうライラに、彼らは同情の目を向けすらした。

「経緯はともかく、冬の間はまた皆の世話になるよ。よろしく頼む」
 ライラが頭を下げると、バートレットがその肩に軽く手を置いてきた。
 振り向けば、蒼灰色の眼差しが柔らかく自分を見下ろしていた。
「まだお前としばらく一緒にいられるのは、俺も嬉しいよ。わからないことは遠慮なく訊いてくれ」
「ありがとう」

 心がほんのり温かくなるのを感じたが、その一方でライラは小さな焦りがあるのも自覚していた。
 この船は居心地が良いから困る。ぬるま湯に浸り続ける内、折角ここまで育ててきた闘争の牙が抜け落ちて、自分が元の腑抜けになってしまわねばいいのだが。