Brionglóid
海賊と偽りの姫
新たな始まり
01
その日の覚醒は、お世辞にも爽快と呼べるものではなかった。
妙に気だるいというか身体が重苦しく、ついでにいうなら頭も重い。起き上がるのにも抵抗があるほどに。
しかしひどく喉が渇いていて、どちらの欲求を優先するか、ライラは毛布にくるまったままぼんやりと思案した。
そう、毛布。
「……ッ!」
寝起きの頭に現実が飛び込んできて、思わず勢いつけて上体を起こしたライラは、次の瞬間盛大な頭痛に見舞われて再び寝台に突っ伏した。
そこにあるのは、どれも馴染みの薄い残り香のある寝具である。
いや、ある意味記憶にある香りではあった。その相手と抱擁し、肩を寄せ合ってだらだら語り合う内にいつの間にやら寝入ってしまったのは、しっかり覚えているわけだから。
「……。最悪だ」
思わず口をついて出た一言は、飲み過ぎによる頭痛のことなのか、この状況のことなのか、自分でも判別がつかなかった。
唯一救いなのは、寝台の持ち主が既に室内から姿を消していたことである。
しかしそれも、本当に救いなのだろうか。窓から差し込む陽の角度からしてもう昼は迎えているはずで、船を梯子して飲んだくれたお陰で、自分ひとりが今の今まで惰眠を貪っていたというのは。
ライラが寝台の中で激しく落ち込んでいると、扉の外で声がした。
「ライラ、起きてるか?」
ジェイクだった。それほど大声ではなかったのは、ライラがまだ寝ている可能性も考えたのだろう。
「ああ、起きてる……」
答えたものの、喉がからからで、部屋の外まで届くような声はとても出せなかった。
しかしどういうわけか、すぐに扉が開いて床の板材を踏む足音が近づいてきた。
ライラは何とか顔だけ上げてその相手を迎えた。
「何とか生きてるようだな、上等上等。水を持ってきたが、起き上がれるかい?」
衝立の向こうから姿を現した船医が、笑みを含む声で言う。水と聞いたライラは「頑張る」と呟いて、ゆっくりと上体を起こした。
その動きとは裏腹に、渡された杯をすぐに口元に運び、一気に飲み干す。
ようやくひと息ついてから、ライラはあることに気がついておずおずと彼を見た。
「ジェイク。これ……」
「ルースからだよ。お前に飲ませてやれってな。どうだ、今は特に美味いだろ?」
「そりゃあ、美味しいけど」
ライラは、空になった杯を両手で包んだまま困惑した。
甘さすら感じる冷たい水を勢いで飲んでしまったが、これだけの清水は船内に備蓄することが難しいのはもちろん、街に行けば簡単に手に入るというものでもないとライラも知っていた。
街に隣接する川も海も大抵は生活排水によって汚れているし、沼や湖は泥臭さが避けられない。井戸も相当深く掘ったものでなければ、とても清水を得ることなどできなかった。
山の湧き水を売り歩いている業者を掴まえて買い求めないことには、これだけの水を確保できるはずがないのだった。
その辺の事情はジェイクも承知の上だろうが、彼の態度はどこまでも涼しい。
「金がかかってるのは確かだが、この国なら多少安いしな。気にしなくていいんじゃないか?」
「……。そういう問題でもないだろう」
と痛む頭を持て余しながら、ライラは溜め息交じりに答えた。いつもどおりのルシアスの心遣いだが、今はどう受け止めていいのかわからなかった。
森の国ヤースツストランドは、農村部に治水用として多くの風車を保有していた。
そのために運河が整備されたが、同時にそれは木材という豊富な資源を運ぶのに都合がよく、水運の発展にも繋がった。その技術は、同じく風車によって清水を街に運んでくることも容易にしたのだろう。
とはいえ、それでもこの水より、大衆向けの麦酒のほうが遥かに安いのだろうが。
「ところでジェイク、いつこっちに?」
「人魚号もだいぶ落ち着いたからな、今朝方戻ってきた。昨夜のお前の酒量も気になってたし」
そう言いながら、医者はライラが横たわっていた寝台の端に腰掛ける。それから持参してきた大きな鞄を開け、中を物色し出した。
「普通の酒ならまだしも、あのエスプランドル酒はちょいと危なくてな。この船でも一昨年、うっかり飲み過ぎたのが二人死んでる」
「……っ。それ、もっと早く言ってもらえないか?」
何だか頭痛が増したような気がして、ライラは顔を歪めた。
ジェイクは軽く微笑った。
「いいじゃねえか、とりあえず生きてるんだから」
彼は会話しながら、取り出した瓶から乾燥した薬草をいくつかつまみ上げ、手のひら大のすり鉢で擦り始める。
辺りに、甘みをわずかに含む爽やかな香りが漂った。
普段ジェイクが纏うものと同系統で、二日酔いの人間にはどこかホッとする香りだ。鼻腔から入った香気が、体内の澱を浄化していくような気さえした。
「吐き気はなさそうだな。酔い醒ましと胃に効く煎じ薬を出してやる。頭痛薬は?」
「是非」
「了解」
注文を受けて、即座にジェイクは鞄を漁り出す。
一連の作業を眺めながら、ライラはなんとはなしに訊いた。
「ルースは外だろうか」
「シュライバーの旦那に会うために、陸に行ってるよ。珍しく、鼻歌交じりに上機嫌でな」
「……!!」
たちまちライラが真っ赤になると、ジェイクは意地悪な笑みをその薄い唇に乗せた。
「嘘だよ。腹立つくらいいつもどおりだった」
からかわれたとわかり、ライラは船医を恨めしげに睨めつけた。
「あなたという人は……。勘弁してくれ、今は私も余裕がないんだ」
片手で顔を覆うようにしてそう文句を漏らしてから、ライラはあることに気がつく。
顔を上げて呆然とジェイクを見ると、彼はにやりと笑い返してきた。
「めでたく、ルースとくっついたから?」
「……飲み過ぎたからだ! 邪推されても困る、昨夜は話をしてただけで疚しいことはなかったんだからな」
「お前見りゃわかるよ、そいつは」
ジェイクの闊達な笑い声に、頭痛を誘発されたライラは呻いて頭を抱える。
「おっと失礼。……しかし、ルースの忍耐強さは知ってたつもりだが、ここまでとはね。惚れた女をようやく手に入れたってのに、恐れ入るよ」
ジェイクは皮肉でも何でもなく、本当に感心したようにそう言った。
そしてその言い分からすると、どうやらルシアスの想いは周知のことだったらしい。それを今更知ったライラは、複雑な気持ちを隠すために無表情を装って応えた。
「いざ酒臭い女を前にしたら、気が削がれたんじゃないのか?」
「いやいや。普通は逆だよ、お嬢ちゃん。気が削がれるどころか、据え膳だと思うところさ。俺なら遠慮なく戴くね」
にやりとする船医を、ライラはきつく睨みつけた。
「抵抗できない相手を好きにしようなんて、不届き者のすることじゃないか!」
「そりゃあ海賊なんだから、品行方正なわけないだろ。不埒で結構」
ライラが文句を言っても、ジェイクは気にも留めない。
もちろんライラ自身も、この程度で彼に何らかの打撃を与えられるとは思っていなかったから、それ以上は言わなかった。
ジェイクは、しみじみとした口調で言った。
「しかし、お前だったらそう言うだろうとは最初からわかりきってる。あいつ、本気でお前に嫌われたくないんだなあ」
ライラは驚いて、彼の顔をまじまじと見つめてしまった。
擦り終わった薬草を油紙の上に丁寧に移しているジェイクは、そんな彼女を知ってか知らでか、苦笑交じりに続けた。
「別の見方をすれば、だ。素面の時なら、お前も酒のせいだって言い逃れができないわけだ」
ルースもその辺りは抜かりねえな、と船医が笑う。
それを聞いている内に、だんだんとライラの表情が情けないものになっていく。
そんな私的な話をされる羞恥もあったが、同時に、昨夜の出来事も徐々に蘇ってきた。
その記憶の熱量は凄まじく、やがて耐えきれなくなったライラは、真っ赤になった顔を両手で覆い隠した。
「駄目だ、どうしよう。頭がついていかない」
「何を今更。まさか、もう後悔してるなんて言ってくれるなよ?」
「そうじゃないけど……」
眉をひそめたジェイクに対し、隠された両手の奥からライラは弱々しく白状する。
「昨日と今日で、世界がまるきり変わってしまったような気がするんだ。これから、どんな顔してルースに会えばいいのかもわからない。こんなに心許ない気分なんて、初めてだ」
船医はそんな彼女を呆れた顔で眺めた。
「初心もそこまで来るとすげえな」
「だって! これまで鍛錬とか賞金首とか、そんなことばかり考えて生きてきたんだぞ!」
顔から手を外したライラは彼を睨む。
「この手のことは一生関わらないと思ってた。当事者になるなんて思ってもみなかったし、それに……!」
勢い込んで反論したものの、一度言葉を切った。
再び俯いて、深く息を吐く。
(ずっと自分に課してきたものを、酒が入ってたとはいえ、一瞬でもかなぐり捨ててしまった)
そのことは、ライラを少なからず落ち込ませていた。
今までずっと心の糧としてきたもの、どんなにつらいことがあっても拠り所にしてきたものを、いとも簡単に脇へ押しやったのだ。ルシアスの手をとるために。
どうしてそんなことが可能になったのか、自分でもわからなかった。
奇妙なのが、それでも彼を受け入れたこと自体には後悔がないということだった。
ルシアスのことを考えるとそわそわするし、その彼が自分なんかを想ってくれていたという事実も、思い返すだけで鼓動が早くなる。
不快ではないのに息苦しい。自身のやるべきことを思えば罪悪感がこみ上げる。
こんな状態で今後生活を送るなんて、
(絶対無理だ)
ライラは打ちひしがれた。
「私は、どうなってしまうんだろう」
「恋が実った女の言うことかよ、それが」
呆れ返った船医が目を眇める。
それから彼は、煎じ薬用の白湯を貰ってくると言い、彼女を残して部屋を出て行った。