Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

海港都市ヴェスキア

25

 船腹を叩く波の音に、やがて控えめな嗚咽が混ざりはじめる。
 気まずさが増して、しゃくりあげながらライラは謝罪した。

「すまない……」
「そこで謝られてもな」

 ルシアスがつっけんどんに応える。彼は大きく嘆息した。
「泣くな。切り捨てたのはお前のほうだろうに」
「き、切り捨てたつもりはない。それに……、これも、意図的にやってるわけじゃない。勝手に出てくるんだ。気に障るなら、見ないでくれ……」

 ルシアスが苛立っているのがわかって、ライラは内心焦っていた。
 相手にしてみれば、拒絶された挙げ句に被害者のようにめそめそされたようなもので、それはもう不快極まりないはずだ。

 とはいえ、女の武器と異名をとるこの涙というのは、実際は全女性が自在に使いこなせる代物でもない。感情が高ぶれば勝手に流れるのだが、男性からすればそうは思えず、いざという時の小道具くらいに考えているかもしれない。

 実際、ルシアスは小さく舌打ちを漏らした。
「今夜はこの部屋を使うといい。俺は別の場所で時間を潰す」

 ライラは驚いて顔を上げた。
「それには及ばない。私が出る」
 泣き顔のまま慌てて立ち上がると、それを見た彼は尚険しい顔になった。
「馬鹿か。女がひとりでそんな顔して外を彷徨いてみろ、変な男に寄ってきてくださいと喧伝して回るようなものだ!」
「じゃあ……落ち着くまで、少しでいい。時間をくれ。すぐ収まる」

 再び寝台に腰を下ろしたライラは、力任せに拳で涙を拭った。
 その様子をどう受け止めたのか、ルシアスはまた苛々と溜め息をつく。

「俺に見られたくないんじゃないのか?」
「そうだけど。そう(おび)えられたんじゃ、そんなこと、気にしてられないだろ」

 怯えていると言われたルシアスは、反射的に何かを言い返そうとしたが、直前で止めた。
 再び舌打ちをすると、杯に残った酒をぐいっと煽った。間髪おかずに酒を継ぎ足す。
 少しは落ち着いたのか、幾分冷静な声に戻ってルシアスは呟いた。

「ふん。最後の最後に涙まで流させてしまうとはな。俺達はとことん相容れない、ということか」
「……。それは違う、ルース」

 こちらも多少は気が落ち着いてきたライラが、消え入りそうな声で否定した。

「全然違う」
「違う?」
「お前が悪いことなんて、欠片もない。全部……全部、私の問題なんだ」

 またしても感情がこみ上げてきそうになるのを必死に堪えながら、ライラは慎重に言葉を紡いだ。

「相手が、お前だろうとそうでなかろうと、共に行けない理由がある。私はそのために旅を始めた。今更投げ出せない旅だ」

 俯きながら、ライラはぽつりぽつりと語った。
 ルシアスの顔は、やはり怖くて見ることができない。彼はどんな表情で聞いているのか、黙ったままなのでわからなかった。

「かといって使命感なんて高尚なものでもない。私は逃げてきたんだ。そして過去と正面から向き合う度胸もまだない。こんな人間に、お前と一緒にいる資格なんて最初からないんだよ」

 そこまで言って、ライラは何だかおかしくなってきた。
 結局自分は何処まで行っても惨めな人間だと、改めて気づいたのだ。変わるなんて、やっぱり無理だった。

「騙していたようですまない、ルース。ライラ・マクニール・レイカードが、実はこんな卑怯な奴だなんて呆れたか? 軽蔑するだろう、笑ってくれて構わないよ」

 はは、と自嘲の笑みが言葉尻に滲んだ。
 しかし、ルシアスはそこで笑わなかった。

「まさか。呆れるというより──気が抜けた」

 ライラが思わず顔を上げる。
 そこには、毒気を抜かれたような顔のルシアスがいた。
 彼は、先程とは違う小難しい顔つきで鼻を鳴らした。

「俺達は、まったく違う問題について同時に話してたってことか。それじゃ、いつまで経っても噛み合うはずがない」
 ルシアスがしかめっ面で吐き捨てたその言葉の意味が、ライラにはピンとこなかった。

 彼女が唖然としていると、ルシアスは酒杯を机に置き、寝台に近寄って彼女の正面に立った。
 そのまましばらくライラを見下ろしたかと思うと、彼はおもむろに切り出した。

「ライラ。すべて俺が背負ってやる、と言ったらどうする?」
「え?」

「お前の事情とやらはわからんが、船に残れない理由がそれなら納得はできない。お前の重荷になっているものが原因なら、そんなものは俺が全部引き受ける」

 ライラは心底驚いて、すぐには二の句が継げなかった。
 さっきまで泣いていたのすら忘れ、言い返した。

「お前、簡単に言ってくれるけどな!?」
「簡単さ。その理由は全て、お前の本心とは関係ないものだろうが。だったら遠慮など誰がしてやるかよ」

 ルシアスもまた、真っ向から反論してきた。
 真剣なその眼差しに、ライラは圧倒された。

 ルシアスの言葉は予想もしていなかったもので、がんじがらめだったライラの心に不思議な影響を与えた。暗がりを歩いていて、突然目の前がひらけたような。
 その感覚が何なのか明確でないまま、ライラは縋るような気持ちで抵抗を試みた。どちらのほうに縋っているのかも、もはやわからなかったが。

「……知りもしないから、そんなこと言えるんだ」
「肩代わりが容易でないことだとしてもだ。お前がひとりで背負いきれる話ならそれでよし、潰されかかるほどの話なら尚更俺がいたほうがいい。そうじゃないのか?」

 ルシアスの言うことは力強く、心が引き寄せられてしまうような煌めきがあった。
 とうとうライラが黙ってしまうと、彼は静かに言った。

「だが、お前が心から俺を拒否するなら、ここできっぱりと諦めよう」
「……っ」

 ライラは息が止まるような思いでルシアスを凝視した。
 彼もまた、まっすぐ彼女の目を見つめ返してくる。
 視線が、絡み合った。

「今のうちだ、ライラ。嫌なら俺を退(しりぞけ)けろ」

 ライラは、心臓がひときわ高く鳴ったのを聞いた気がした。
 胸の奥から何かがこみ上げてきて、また涙が溢れ出しそうになる。
 息苦しさは変わらず、喘ぐように口を開いて彼女は何とか言葉を吐き出した。

「……で、出来るわけないだろうっ、そんなの! クラウン=ルースにそこまで言わせて……!」
「肩書も建前も、今はお互いなしだ。その上で本音を言え」

 ルシアスは容赦がなかった。獲物をとことん追い詰め、確実に仕留めるために。

「拒絶しないならこちらから言うぞ。先に断っておくが、後戻りはできないからな。いいか、お前に逃げる余地を与えるのはこれ一度きりだ」
「脅すようなこと、言わないでくれ。本心とは別にしても(ひる)みそうになる……っ」
「だったら、さっさと覚悟を決めろ」

 彼が非情に宣告する。
 しかし、その内容はライラにとってあまりにも魅力的だった。同時に恐ろしくもあった。

 この海賊の手をとってしまったら、自分はどうなってしまうのか。
 だが、もう観念するしかなさそうだった。

「わかった。私は……逃げないほうを選ぶ。……もう、どうなっても知らないからな!」
 後半はもう自棄になって、ライラは叫ぶように告げた。

 しかしそれを受けたルシアスの方は、これまで見たことがないほど晴れやかな表情を見せた。

「よし」

 言うや否や、彼女の腕を引いて立たせるとルシアスはそのまま強く抱きしめた。

 一瞬のことで、ライラはされるがままだった。
 数拍遅れて、彼の身体が放つ香り──自分とは違う男性らしい香りが鼻腔をくすぐり、急に現実を目の前に突きつけられる。項のあたりに一瞬痺れが走ったような気がした。

「お前に惚れてる、ライラ。本当はずっと前からどうしようもなく惹かれてた。やっと言えた」
「……っ」
 耳元で囁かれ、ライラは思わず震え上がった。
 堪らず彼の胸にしがみつく。そうしていないと、全身が熱で熔けてなくなってしまいそうだった。

「言葉にしてしまった以上、もう俺は止まってやれない。止めたかったら、殺す気で来ることだな」
「……。今のところそのつもりはないけど、もうちょっと穏やかな言い方はないのか?」

 弱々しくライラが抗議すると、ルシアスは喉元で低く笑い声を立てた。

「立場上、生半可な覚悟で惚れたの腫れたのできないんでね。その分、やるとなったら全力でいくのさ」
「なんだそれ……」

 彼女は文句を言ったが、さして効力のあるものではない。ライラ自身それは自覚していて、短い溜め息が漏れた。

 それからライラは、ルシアスの肩口に額を預けると、力を抜いて彼に身を委ねた。
 彼の腕の中は温かく、思った以上に居心地のいい場所だった。


 次の日、昼前になっても音沙汰が無いのを心配した航海長が船長室(キャプテンズ・デッキ)を訪れた。
 部屋の外から声をかけても返答はなく、まさかという思いを抱えて扉を開ける。

 籠もった空気に酒精(アルコール)の香りが混ざっていて、スタンレイは独特の臭気に顔をしかめながら奥の部屋へと入り込んだ。
 しかしそこにある光景を前にして、彼は目を丸くした。

「おやおや」

 壁際の狭い寝台の中で、頭領と女剣士が寄り添うようにして眠りこけていた。

 普段のこの二人ならありえないが、相当深い眠りに落ちているようだった。
 ライラの目元は少し腫れていたものの、着衣には特に乱れたところもなく、寝顔も穏やかだ。尊敬すべき彼らの頭領は、その夜も紳士的に振る舞ったらしい。

「ま、収まるところに収まったようで、何よりですよ」

 苦笑交じりに独りごち、彼はふたりの休息を邪魔しないためにそっと退室した。
 今日一日くらいは仕事を肩代わりしてやろうと、頭の中を忙しなく整理しながら。

 

 第四章 Fin.