Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

海港都市ヴェスキア

20

 夕餉の後、ライラは人魚(シレーナ)号の露天甲板に立っていた。
 この船に立ち寄ったのなら、やっておかなくてはならないことがあったのだ。

 大きな船尾灯とあちこちに掛けられた角灯によって、一帯は淡い明かりに包まれている。だから、その人物がやってきたのはすぐにわかった。

 昇降口を上がってきたマルセロは、ライラの姿を認めると小走りに近寄ってきた。
 もう、以前のように足を引き摺ってはいない。約束してから随分日が経ってしまったのだと、ライラは痛感せざるを得なかった。

「ライラ!」
「来るのが遅くなってすまない」

 ライラが頭を下げると、マルセロは恐縮したように両手を軽く振った。
「ああ、いや。……実をいうと、半分諦めていたくらいだ」
 苦笑いを浮かべる彼の様子に、ライラはマルセロとの別れ際のことを思い返した。

 あの時、話があると言ってきたマルセロを遮ったのはルシアスだった。その対応もお世辞にも柔らかいとはいい難く、尻込みしてしまっても仕方ないと言えた。
 一介の水夫にとって船長とは逆らえない相手だ。それがたとえ他所の船であっても、対等になるということはないのだろう。

(それが、突然あんな態度をとられたんだものな)
 もちろんマルセロに非などあるはずもない。その上、自分もこれだけ彼を待たせてしまい、ライラは心底申し訳なく思った。

「クラウン=ルースのことは、あまり気にしないでくれ。約束したのはちゃんと覚えてるよ」
「あれの数倍横暴な態度を取る船長なんて、山のようにいるから大丈夫だ」

 苦笑を浮かべたマルセロの顔を、ライラは見つめた。
 暗い内甲板で出会った時はよく見えていなかったその容貌を、はじめてきちんと見ることが出来たのはあの日外に出た時だ。

 浅黒い肌に、黒い髪、濃いまつげ。目元の造りがくっきりしていて鼻が高いのが、彼の生まれ育った場所の印象と繋がる。痩せ型なのにがっしりした身体つきもだ。
 マルセロの場合は、加齢の他に厳しい航海生活もあって少し細すぎる程だが、元々あの地域で肥満体になれるのは、外国からやってきた一部の金持ちくらいだった。

「ところで、足、だいぶ良くなったんだな。あの時の病人達も元気だろうか」
 ライラが何気なくそう言うと、マルセロは笑顔で頷いた。
「お宅の医者の先生は腕が良い。以前うちにいた先生と大違いだ。俺の足も手当し直してくれて、今はこの通りだよ。病人達も入院の手配をしてくれた。俺達にとっては命の恩人だ」
「それはよかった。あなたも船を降りずに済みそうだな」

 マルセロは、脱走奴隷だと以前告白していた。身分を隠した上で、負傷したままでは下船して生きていく術がないと困窮していたのだ。
 何か力になれることはないだろうかとライラも思ったのだが、ジェイクによって窮地を脱したらしい。

 確かに、今の彼にあの時のような思いつめた様子はない。

「次の船についても、あんた達が都合をつけてくれたと航海長に聞いたよ。つくづく頭が上がらないな」
「礼は彼らに直接すると良い。私自身は『天空の蒼(セレスト・ブルー)』の一員でもないし、特に何もしてないからね」

 ライラは微苦笑を浮かべてそう返す。
 そんな彼女に、マルセロは改まって口を開いた。

「ライラ。俺があんたに会いたかったのはその件じゃない。あんただってもう気づいているはずだ。だから、ここに来たんだろう?」

 ライラは答えられなかった。
 構わず、マルセロは続ける。

「俺は、その目で気づいた。あんたも俺と同じ、『知恵の民(アル=ヘクマ)』だって」
「目……?」

 戸惑うライラをよそに、マルセロは尚も言う。

「船内の薄暗い中じゃわからなかったが、甲板に出た時に見て驚いた。『橄欖石の星(ナジム・アル=ザイトゥニ)』だ。それも、そんな見事な色合いの! なあ、その目、もっとよく見せてくれないか?」
 ずい、と顔を覗き込むように急に距離を詰めてきたマルセロに、ライラは思わず後ずさる。

「ちょっ、ちょっと待っ……」
「貴様、何をしている!」

 鋭い怒声が飛んだかと思えば、どこで見ていたのかバートレットが駆け込んできた。マルセロの肩を掴むやいなや、ライラから離すように力任せに払い除けた。
 意表を突かれた形のマルセロは、その勢いで転倒こそしなかったもののよろめいてしまう。
 驚いたライラは、マルセロを庇うように二人の間に入った。

「バートレット! 乱暴は……っ」
「乱暴をされかけたのはお前だ、馬鹿! もっと危機感を持て!」

 ライラの非難を遮って、彼は怒鳴り返した。

「こんな場所で、一人で男に会うなんて! 若い女がそんなことをしたら、何をされても文句は言えないんだぞ!」

 ライラは呆然として立ち尽くした。何を言われているのか、わからなかった。

 一瞬遅れて、この状況を誤解されたらしいことに気がついた。そして、こちらを見つめる蒼灰色の眼差しにあるのが、怒りというよりは心配の色だということにも。

 そう理解した裏で、ライラはなんだか不思議な気持ちになる。
 これではまるで、普通の女性に対する扱いではないか。彼は自分の肩書も知っているはずなのに。

 大抵自分は何があっても大丈夫だと周囲に思われるし、何なら自分自身そう思い込んでいた節がある。実際に何かあったとしても、自分一人で対処してしまうだろう。

 しかし、この振る舞いがバートレットらしいと言えばそうだった。
 ライラは一度短く息を吐くと、彼を見つめ返した。

「ごめん。確かに迂闊だったかもしれない。けど、今回は誤解だよ」
「誤解?」

 ライラの落ち着いた口調に、バートレットも我に返ったような反応を返す。
 ライラは苦笑交じりに頷いた。

「マルセロは、私の同胞なんだそうだ。この瞳についても何か知っているらしい」
「……!」

 バートレットが目を見開いた時、船長室からファビオとジェイクが出てきた。
「セニョリータ! どうかしたのか? 言い争っているような声がしたが」
「なんでもないんだ。騒いだりしてごめん!」
 近づいてこようとする彼らを制するように、ライラは声を張り上げた。

 二人は納得しきれていない様子だったが、ライラ達のいずれもが何も言わなかったのを見て、仕方無しに室内に戻っていった。

 それを見送った後、バートレットは大きな溜め息をつきながら右手で頭を荒くかいた。そして、マルセロに対して頭を下げた。

「すまない、俺の勘違いだったらしい」
「……驚きはしたが、気にしてない。あんたも気にするな」
 マルセロはぶっきらぼうにそう応えた。
「ただ喧嘩を売られたのなら買うが、今のはライラを守ろうとしてのことだろう。俺がその立場でも、似たようなことをしたはずだからな」

 バートレットにはその発言の意図がわからなかったようだ。ライラは、その場が一旦は収まったことに安堵を覚えつつ、横から彼に告げた。

「『知恵(ヘクマ)の民』の男は生まれながらの戦士で、女子供を守る気持ちが特に強いとは、私も聞いたことがある」
「『知恵(ヘクマ)の民』って、あれは遊牧民だろう。お前は屋敷で育ったと言っていたじゃないか」

 バートレットが聞くと、ライラは軽く頷いた。
「母がその氏族出身だとは聞いた記憶がある。でも父は違う」
 そして彼女は、マルセロを振り返って言った。

「私は『知恵の民(アル=ヘクマ)』の血筋ではあるようだけど、メフルダードの生まれでもないし、遊牧の経験もない。同胞と言われてもよく知らないんだ。この、瞳についても」
「よく知らない、だって?」

 マルセロはマルセロで驚いたようだった。彼は戸惑ったようにライラを見つめ、嘆息した。

「だがまあ、そこで嘘をついてもはじまらないしな……。そうか」
「大げさだな。『知恵(ヘクマ)の民』自体はあちこちにいてそれほど希少でもないし、同胞に会うのだってそこまで難しくもないだろう」

 バートレットがそう指摘すると、マルセロは軽く首を振った。

「確かに俺達は何千年もの間に分散し、混血も進んで今となっては見た目すら一定じゃない。だけど、その『橄欖石の星(ナジム・アル=ザイトゥニ)』は違う」
「『橄欖石の星(ナジム・アル=ザイトゥニ)』って……『翠金石の瞳(スター・オリヴィン)』のことか?」
「そうだ」

 頷いたマルセロは、ライラに視線を転じてじっと見つめた。

「その目は、元々純血の女に現れるものなんだ。今の時代に純血なんてほぼ残っていないだろうが、血が濃いとたまに出現するらしい。俺が育った集団の長老が、『橄欖石の星(ナジム・アル=ザイトゥニ)』の主だったよ」
「血が、濃い……?」

 ぼんやりとライラが復唱する。
 マルセロは憧憬に似た眼差しで彼女を見た。

「婆様には何度も同じ話をされたもんさ。幾千年前から旅を続けてきた遠い祖先の話だ。婆様自身がその瞳を持っていなかったらおとぎ話で済んだが、そうじゃなかったからな。そしてここで、ライラ、あんたに会えた」

 ライラとしては何故彼がそんな目で自分を見つめるのかわからず、居心地の悪さを感じて少し目を伏せた。