Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

海港都市ヴェスキア

10

 ロイ・コルスタッドは雑踏に揉まれながら、落胆の溜め息を吐いた。

 このヴェスキアという街は、優れた港を持つだけでなく、天然の要塞として地理にも恵まれ、昔から栄えていたと聞く。その財力でもっていわゆる都市権を確保していて、国の言いなりにならなくていい程の独立性を持っていた。

 自由と権利を求める商人達が国内外から移住し、彼らが商売に精を出すことでこの街はどんどん強くなっていった。今のヴェスキアは、市場の開設も課税も国の許可なく行うことが出来る。市壁も築くことができ、自警団も存在するので防衛面でも国に頼り切りになることがない。

 つまり、権力より金が物を言う場所だということだ。

 ロイはもたらされた情報に従ってここを訪れたはいいものの、そこから先は難航していた。
 何せヴェーナの名前がほぼ通用しない。一役人の立場では景気よくばらまくほどの金もない。

 まずは根回しをして敵の外堀を埋めようというロイの思惑は、見事に挫かれてしまったのだった。どうやら地道に行くしかないらしい。

(敵、か)
 相手をそう断じていいのかどうかはまだ迷いがある。しかし、アリオルでの出来事は彼の中に警戒を抱かせるのに十分だった。

 可哀想な舞姫リスティーを保護するための手続きに追われている中で、例の居酒屋の主人が廃人の状態で発見されたのだ。何を聞いてもぼんやりとした反応しかない。事情聴取が出来ずに困っている間に、クラウン=ルースの船は港から跡形もなく消え去っていた。

 彼らの仕業だという証拠があるわけでもない。
 こちらの要求も素直に飲んで、クラウン=ルースは舞姫をロイに引き渡した。海に彼女を連れていけないという理由も別に不思議なところはなく、出港自体も問題がないように見える。

 ただ、何かが引っかかるのだ。

 居酒屋では金目のものも盗まれておらず、店の女達にも被害はない。店の主本人も生命に別状があるわけでもない。浴びるように酒を飲んでは前後不覚になることも珍しくなかったそうで、店の関係者の半数は、本人の不摂生や日頃の行いが祟ったのだろうと口を揃えて言っていた。

 ロイが気になったのは、主人の腕に残されていた小さな切り傷だ。ちょっとした擦り傷ならいざしらず、明らかに刃物でつけられたであろう鋭い切り口が、彼の直感を刺激した。

 その傷は、他者によってもたらされた物だった。ロイも武芸を嗜んでいなければ見逃していただろう、小さな痕跡だ。
 その手口の鮮やかさが、あの青年海賊の印象と即座に繋がった。

(理由はわからない。口封じだとしても、何を隠そうとしていたのか……)

 気になる点はもうひとつ。
 リスティーは海賊船の面々とは良好な関係を築いていたようだ。それは本人からも聞いている。しかし波止場で働く男から、クラウン=ルースが女性と口論しているのを見た、という証言があったのだ。ロイが船を尋ねる直前の話で、リスティーではない。

 それがこの件とどう関係するのかはわからない。だが、なんとなく見逃せない気がした。

 ロイはあの後、ヴェーナの本部に連絡を取って無理やりクラウン=ルースの行先を聞き出した。何度も通用はしないであろう、強引な手だった。

 もう一度あの海賊に会う必要がある。それがきっと、求める相手に繋がる気がした。

 しかしやはり、もどかしさが胸の内にある。手を伸ばしても届きそうで届かず、今度こそと思えば指先をかすめて擦り抜けていく。抑えても抑えても湧き出る焦燥感から、何度叫び出したくなったことか。

(いいや。俺まで諦めてしまっては、彼女を真に守る者がいなくなる)
 そうなった時の彼女の絶望を思い、ロイは挫けそうになった心を叱咤した。何のために俺はここまで来たのか、と。

(リーシャ。きっと君を苦境から救い出す)
 決意を新たに、彼は深く息を吸った。


 バートレットは走った。
 進行方向はお互い一緒、向かう先は中央広場だ。

 五角形の広場は文字通り街の中心部であり、取り囲むように並ぶ建物の中には市庁舎の他に裁判所などもあった。広場に面していなくとも、公的な機関は大体この周辺に集まっている。

 横目で見た限りでは、あの男の側に女性の連れはいなかった。ライラとはまだ接触していないのだろう。
 絶対に、ロイより先にライラを見つけ出さねばならない。

(もし本当に頭領が動かなかったら、どうする?)
 ライラの面影を雑踏の中に探しながら、不意に、そんな疑問が頭をよぎった。

 もともとルシアスの意向で乗船していたに過ぎない彼女だ。ルシアスの気が変わった時点で、自分達とは何の関係もなくなる。
 実際ルシアスは、ここのところライラに対する興味が失せていたように見える。

 もしレオンの報告にも、放っておけという返答だったら?

(それでも、彼女を守る。これは俺の意志だ)
 バートレットは自分自身にそう誓った。

 短期間とはいえ、ライラとはそれなりの関係を築いてきたと自負している。二十を過ぎたばかりの娘だというのに、並の男よりも剣の腕が立ち、動物のような俊敏さで相手を抑え込む手練。それでいて人が好くて純朴な彼女を、バートレットはいつしか完全に受け入れてしまっていた。

 あの男とライラがどんな関係かはわからない。それどころか、バートレットはライラについてろくに知らないことに気がついた。

(でもライラはアリオルで、俺達に助けを求めてきた)

 動かない身体を引きずって、何とか逃げてきたのだ。どんな事情があったとしても、今更そんな彼女を突き放せるわけがない。

 もちろん、格闘や剣術で自分がどうこう出来るとはバートレットも思っていない。その分野ではライラの方が上だし、あのロイ・コルスタッドにも敵わないだろう。
 だが、船にやって来たロイが見せたのは恋慕による執着だった。ならば、男の自分に出来ることはある。

 やっと広場に着いて、バートレットは辺りを見回した。何となく人が多い気がするのは、夕飯時を前に人々が帰路を急いでいるからだろうか。

 広場の中央には、石の台座に乗った巨大な初代市長の青銅像があり、その足元では靴磨きや肖像画描きが日銭を稼いでいる。
 広場の角の部分がそれぞれ通りの入り口になっており、大小五本の通りが広場から放射状に伸びていた。海に通じる大通りは北西側の角にあたり、市庁舎は青銅像を挟んでその真正面にあった。

(どこだ、ライラ)
 広場内を隈なく探しながら、バートレットは市庁舎に近づいた。

 建物は鉄柵のついた塀で囲まれ、中心に両開きの門扉を持つ大きな門がある。門の前には流しの馬車が並んで停まっていて、御者が客になりそうな相手を物色していた。

 門の奥の向かって右、時計塔のある大きな棟が議会を行う講堂だ。左側の三階建てが役人達が詰める建物である。
 いずれも出入りしているのは商売人や役人の格好をした男性がほとんどで、ライラの姿がないことはすぐに分かった。

 人の流れの激しい門の近くよりは、少し離れた場所から人の出入りを確認したほうがいい。そう考えて、バートレットは門の外側に陣取ることにした。

 塀に背を向ける形で周辺を観察していると、大通りを通ってやってきたロイの姿を捉えた。

 あちらは人を探してというよりは、単純に役所に用があるのだろう。行き交う馬車を避けながら、まっすぐ広場を突っ切って市庁舎に向かってくる。

 先に中に入るべきかと、バートレットは悩んだ。

 駆け込めば先んじることは出来るだろうが、ロイも自分を覚えている可能性があった。目立つ行動は極力避けたい。ライラが中にいるという保証もなかった。

 せめてライラがまだ広場にいてくれれば──と今一度辺りを見回すと、ようやくそこで求めていた細身の影を見つけた。

 船に来た時同様、防砂の外套を纏っているが、頭部は隠れていないためすぐに彼女だとわかる。
 バートレットがいる場所とは反対の、門の向こう側から、ライラは塀に沿って歩いてきた。土地勘がないのか、建物を確認するように時折見上げていて、こちらには気づいていない様子だ。

(まずいな、このままだと鉢合わせする)
 バートレットは最悪の事態を想定して焦った。

 改めてロイを見ると、向こうもライラを視界に納めたらしい。驚愕の表情をしていた。
 歩調を速め、方向を変えて彼女の方へ突き進むのを見て、バートレットは舌打ちをした。

 すぐに彼も走り出す。門の前を通り過ぎる際、何人かに肩がぶつかって怒声を浴びたが、今はそれどころではない。

(間に合ってくれ、頼む……!)

 無我夢中だった。
 気配を察知したのだろう、ライラも振り向いて、正面から来る彼の姿を認めるなり目を丸くした。

「バートレット? どうして……」
 今朝まで一緒だったのに、バートレットはその顔と声に妙な懐かしさを覚えた。

 脇の方から「おい、君!」とロイの声がする。
 構わずに、バートレットは手を伸ばした。ライラが驚いたようにその翠金色の目を見開く。

「ちょっ、何……っ」

 その腕を掴んで引き寄せれば、彼女の体は細く軽く、組手の時と違ってあっさり彼の胸の中に収まってしまう。

(これで、女性を意識するななんて無理だろうよ)
 心のどこかでそんなことを思いながら。

 バートレットは、ライラを目一杯抱きしめた。