Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

海港都市ヴェスキア

08

「あれ、ライラさん?」
 次の日の朝。
 けが人に巻き直す包帯を取りに、医務室(シック・ベイ)へ向かおうとしていたライラを呼び止めたのはリックだった。
 手には二人分の食事を載せた盆がある。ふわりと、焼けたパンのいい匂いがした。

「おはようございます。てっきり、まだ船長室(キャプテンズ・デッキ)にいるのかと」
「え?」

 目を瞬くライラの反応にリックも違和感を受けたようだが、戸惑いながらも告げた。
「頭領に食事を運ぶように言われてまして。これ、部屋に戻るついでにお願いしていいですか?」
「……」

 ライラは、ハルの部屋で寝泊まりするようになってからはほとんど船長室(キャプテンズ・デッキ)に立ち寄っていない。この食事もライラの分ではないだろうが、リックはライラのものだと思ったようだ。
 しかし自分が小間使いであることは確かだしと、ライラがとりあえず受け取ろうとすると、いつの間にか現れていたバートレットが横から静かに言った。

「リック。……それは多分客人用だ」
「え、お客さんが来てたんですか?」
「ああ、どうも非公式らしい。だから頭領も部屋で朝食を摂ることにしたんだろう」

 バートレットの説明に、リックもばつの悪そうな顔になった。
「あー。そうなんですね、じゃあついでも何もないかあ……。わかりました、やっぱり俺が持っていきます。すみませんでした、ライラさん」

 軽く頭を下げると、リックは上層甲板に向かってそそくさと去っていった。
 その背中を見ながら、ライラは呟いた。

「二人分?」
「航海長の方は夜の間に戻ったそうだ」
「じゃあディアナか。泊まっていったんだな」

 そう納得したライラに、バートレットが苦い表情になった。
「お前、気にならないのか?」
「何が」
「……気にしてないならいい」

 はあ、と溜め息をついてから、バートレットは彼女に本来の要件を告げた。
「包帯を変えてくれないか」
「わかった」

 二人は医務室(シック・ベイ)に向い、他のけが人も含めて薬の塗り直しやら包帯の巻き直しをしたりして朝を過ごした。

 昼頃にもなると、船長室(キャプテンズ・デッキ)にディアナがいることは周知の事となっていた。口外無用の命令があったわけでもないが、海賊達は何となく空気を読んで黙っているといった具合だ。

 彼らの中では、年頃の男女が一緒に部屋に籠もってすることといったらひとつと決まっている。ましてやディアナは美女で、長い間ルシアスに想いを寄せていたのもよく知られていた。

 だから普段通りなら、噂話に翼や尾ひれをつけて甲板で盛り上がるところだが、何故かそうはなっていない。
 ライラにしてみれば、周囲の自分を見る目が同情混じりになっていくのは何とも居心地の悪いものだった。

「まったく、何なんだ……」
 耐えかねてライラがぼやく。レオンは困ったような表情で彼女を見つめ、傍らのバートレットは何だか不機嫌そうにしている。

 その日は物資も特に届いていなかったし、帆や支索の修繕などもほとんどが終わっていて、結局はまた甲板で稽古をすることになったのだ。ただでさえ港を前にしての隔離生活で気が滅入りがちなので、特に若手の連中は身体を動かしたがったが、この日は参加を遠慮する者も多かった。

「気にしないようにしましょう。バートレット、お前もなんでそんなに苛々してるんだ?」
 レオンがとりなすように言うと、バートレットは軽くかぶりを振って二人に向き直った。
「何でもない。ライラ、一度組んでもらえるか」

 バートレットもレオンも、軽い組み手くらいなら出来るようになっていた。ライラは軽く頷いて彼と向き合う。すると、周囲から野次が飛んだ。

「ライラ! いくら頭領に飽きられたからって、乗り換えるのが早すぎるんじゃないのか?」
「……は?」

 ライラはきょとんとしたが、すぐに我に返った。目の前のバートレットがカッとなるのがわかったからだ。

「あの野郎……ッ」

 野次を飛ばした男の方へ殴りかかろうとしたバートレットを、ライラとレオンが咄嗟に抑える。
「ちょっと、バートレット!」
「おい、バーティ待てって!」

 二人に羽交い締めにされる形になったバートレットは、しばらくは振り払おうともがいていたものの、やがて悔しそうに舌打ちして俯いた。

「急にどうしちゃったんだ?」
 動揺したライラは彼の顔を覗き込む。バートレットは目を合わせてくれなかった。

 その時、騒ぎを聞きつけたルシアスが船長室(キャプテンズ・デッキ)の扉を開けて出てきた。
「何の騒ぎだ」
「頭領!」

 やはり彼が甲板に現れると、周辺の空気が一気に引き締まる。顔を上げたライラはそんな事を思いながら彼の方を見た。

 久しぶりに正視したルシアスの姿は、無精髭が生え、どことなく衣服も乱れていて、気だるげな印象だった。
 逆にルシアスは、バートレットに寄り添う彼女に視線を向けるや、鋭い声を飛ばした。

「……検疫期間は遊び時間じゃない、子供みたいにはしゃぐな。状況を考えろ!」
「アイ、サー!」
 ほとんど反射的に海賊達は背筋を伸ばして返事をする。

 しかしルシアスは最後まで見届けることもなく、言うだけ言ってまた部屋に戻ってしまった。
 扉が閉まると同時に、甲板の緊張も空気が抜けたかのように緩む。

「……頭領、滅多に無いくらい機嫌が悪いな」
 無理やり作ったような笑みを浮かべて、レオンがそう独りごちる。

「まあ、自分が忙しい時に外で俺達が騒いでたら腹も立つか。それにしてもなあ……」
「あのくらいの騒ぎは日常茶飯事だろう」
 バートレットが言う。
「頭領、こっちを睨んでた。ライラを見ていたような気がする」

 どきりとして、ライラは視線を彷徨(さまよ)わせた。ライラ自身もそんな気がしていたからだ。
 ライラが黙っていると、バートレットが続けた。

「疑うわけじゃないが、最近の頭領はよくわからない。俺は、頭領はライラのことを特別気にかけているんだと、そう思っていた。でも」

 と、彼はそこで一度言葉を切る。それから決心したように、顔を上げてライラをまっすぐ見た。

「ライラ。頭領と何かあったのか? 潮目が変わったのは恐らく人魚(シレーナ)号から帰ってきてからだ。お前は頭領と船長室(キャプテンズ・デッキ)に入って、すぐ出てきた。それからほとんど会話すらしてないんじゃないか? あの時、何か──」

 ライラは戸惑った。
 あの時ルシアスとの間に(いさか)いなんてなかった。むしろ、船に残ってほしいと、そう言われて。

(だけど)
 自分は今まで、返事をしていなかった。あれから何日経った?

 ルシアスは、いつまで待つつもりだったのだろう。永遠に待つということはないはずだ。
 その期限は、来年かもしれないし、明日かもしれない。

 昨日だったとしても、おかしくはない。

「何も、なかった……けど」
 俯いて、ライラは答えた。

 そうだ。何もなかったのだ。

 しかし今の自分に、何もかも投げ出して海で生きるというのは無理な話だった。ちゃんと考えれば否という答えしかないのに、何故自分はあの時、曖昧(あいまい)にしてしまったのだろう。

 そして、あれがもし自分でなくディアナだったなら。
 昔からルシアスに恋い焦がれていた彼女なら、即座に色よい返事をするのかもしれない。今もきっと、待つのにうんざりしていたところに彼女と二人きりになったから、ルシアスも気が変わって──。

(何考えてるんだ、馬鹿。全部邪推じゃないか)
 ライラは唇を噛んだ。
 急に肌寒さを感じて、腕を自分の身体に巻きつけるようにして抱きしめる。

「ルースも、忙しいんじゃないかな……。私のことが気に障るのだとしても、港についたらどのみち私は行かなくてはならないし。きっと大した問題にはならないよ」
「……もしそうなんだとしたら」

 バートレットは睨むような目線を船長室(キャプテンズ・デッキ)へ投げた。

「初めて頭領に賛同しかねる事態だな。こんな移り気の人じゃないと思っていたのに」
「俺も何か事情があるんだと思いたいよ。これはいつもの頭領のやり方じゃない」
 困惑の表情でレオンも同意した。顔を上げたライラは、二人の様子に苦笑いを浮かべるしかなかった。

「ありがとう。でもそんなに気を遣ってくれなくても」
「気を遣ってるわけじゃなくて、この船の仲間はみんな気がついてるだけですよ。ライラさんが頭領の特別だって」

 ライラはレオンの顔を思わずまじまじと見返した。彼は小さく笑みを浮かべていた。
 そしてバートレットに目を向けると、彼は何も言わなかったが、一度だけ軽く頷いてみせた。

「……そうか……」
 色んな思いが沸き起こって、ライラはそれだけ呟いた。

 くすぐったいような、照れくさいような気分と、胸を締め付けられるような、泣きたいような気分と。
 そして息を深く吐いたあとには、少し苦い思いだけが胸の底に残っていた。

「でもその特別だった時期を、私は逃してしまったということなのかもしれないな」
 ライラの自嘲を、若い海賊二人は黙って見守るしかなかった。