Brionglóid
海賊と偽りの姫
海港都市ヴェスキア
06
この船の船首楼には、小さな控えの間が存在していた。まるで貴族の邸宅だ。
露天甲板より上に、重くなるものはできる限り置きたくないのが船乗りの本音だそうだ。転覆を避けるためである。実際カリス=アグライア号では、船首楼どころか船尾楼の隔壁すら嫌って衝立で済ませていた。
しかしこのエスプランドル製の船は、それより優先せねばならない事項がたくさんあった。慣習や儀礼、威厳といったものたちだ。
おかげで、この大きな船は外海の激しい横波にすこぶる弱い。エスプランドル周辺が穏やかな内海で、大半の貴族達が外の海を知らないというのも大きいだろう。
しかし今この状況にあっては、船乗り達に苦い顔をさせるであろう控えの間は、ジェイクにとっては有難い存在でもあった。船員達の生活する空間と、この先の部屋を隣接させたくなかったからである。
彼はまず、柔らかい山羊の革で出来た長靴を履いた。その上から、足首まで届く長さの黒衣を羽織る。油布でできた被り物をした上に更に帽子を被り、履物と同じ革製の手袋を嵌めれば、まともな医者の出来上がりだ。
地位ある者を診るならば最低でも黒衣と帽子を着用せよとは、先方の要望である。医師としての正装をしろということだ。
そんな注文つけてる場合かね、と呆れつつもとりあえずジェイクは従った。
『調子はどうです?』
奥の扉を開けて室内に一歩踏み入ると同時に、軽い調子で声をかける。
そこも一般の船室に比べれば窓が多く、明るかった。船尾楼の船長室ほどではないが広さもそれなりにある。先程の小部屋と雲泥の差だ。
彼が入室したのを機に、寝台の傍の椅子に腰掛けていた人物が立ち上がった。同じように顔の半分以上を覆っているが、ロヘルだ。
『今は落ち着いておられます。先生のくださった薬が効いたのか、咳もあまりしなくなりました』
『そりゃよかった。だが油断はしないでくれよ』
言いながら、ジェイクはロヘルの隣に立って寝台を見下ろした。
寝台の住人、クレメンテ神父は黙って船医の顔を見つめ返した。その顔を見て、ジェイクは一人で頷いた。
『顔色もそんなに悪くない。やっぱり滋養が大事って事です。神父殿は運がいい、今が航海中でないのも、ここがヴェスキアなのも。金さえ払えば大抵の物が揃う』
検疫中とはいえ、注文すれば物資を届けてもらうことは可能だ。そのため、ジェイクは薬だけでなく食料もあれこれと仕入れて、思うままに病人の看病に当たることができた。
本当は下船して入院したほうがいいんだがねえ、と彼が独りごちると、神父は不機嫌そうに答えた。
『揃うのは物だけだろう。どこの馬の骨ともわからぬ町医者に、肺病など手に負えぬのはお主も知っているだろうが』
『そりゃまあ、そうですが』
ジェイクは肩を竦めた。何度下船を勧めても神父が応じない理由がこれだった。
聖職者は、神学校で医療を学ぶ。一方、医者になるにはこれといった決まり事もない。極端な例をあげれば、先週まで仕立て屋だった人間が医者になることもできてしまう。
国によっては有志が医師組合のようなものを作っていることもあるが、内科医組合と外科医組合はどちらが優れているとかいう問題で反目し合っている場合も多く、うまく機能しているとは言い難かった。
そんな中で、異国の地でまともな医者を探すとなると大変なのだ。
『しかし、教会から返事は来てるんでしょう? 医療の得意な人間を紹介してもらったり派遣してもらうってのは、できないんですか』
『……』
何故か神父は、難しい顔つきで黙ってしまった。
ジェイクを通して、エスプランドルとの交渉が難航していることは既に伝えてあった。その際、代わりにエステーべ教会と交渉することについても神父に相談している。人魚号の乗組員全員を母国に返したいというルシアスの意図も、当然伝えた上でのことだ。
エスプランドルでは、異国の捕虜や奴隷となった自国民を買い戻す運動をエステーべ教会が中心になって行っている。ルシアスの提案はそれよりも遥かに安価で労力も少なく済むので、クレメンテ神父も教会と接触することを了承したのだった。
答えない神父にこっそり嘆息してから、気を取り直すようにジェイクは言った。
『検疫ももうすぐ終わる。なんだったら、俺が医者を探してきましょうか? どうせ薬の買い出しはしなくちゃいけないので』
『お主ほどの腕を持つ医師は、王侯貴族のお抱えでもない限りはそうおらぬ。なぜ海賊船などに乗っておるのか、そちらの方が不思議だ』
『随分と高い評価を頂いて光栄ですが』
ジェイクは被り物の内側で苦笑した。
『そうですねえ、海賊だからいいのかもしれません。薬も好きなように使わせてくれるし、患者を診るのにいちいちお伺いを立てる必要もない。ふんぞり返って頭から押さえつけることもしない。あいつが王侯貴族だったら、今だって捕虜の治療なんかさせちゃくれませんよ』
『そのことなのですが』
と、遠慮がちに口を挟んできたのはロヘルだ。
『この度の費用は、本当にお支払いしなくてよろしいのでしょうか』
『その分も含めての身代金交渉なんだよ。だからあんた方からも、教会や国に口添えしてくれるとこっちも助かるんだわ』
冗談めかして言いながら、ジェイクは持参してきた薬を取り出してロヘルに渡した。
『そういうわけで、これが新しい薬だ。粉薬はいつも通り食後。こっちが咳止めの塗り薬な』
『いつもありがとうございます。親切なあなた方の上に、神の御加護がありますように』
ロヘルは薬を受け取る前に、エステーべ教の簡易的な祈りを捧げた。
それを見てどう思ったのか、神父はまたもむっつりとしている。ジェイクがエステーべ教信者でないと知っているからかもしれなかった。
異端者に対する程の憎しみはないだろうが、自分のような無神論者も面白くはないだろうと思い、ジェイクは神父を宥めるように言った。
『大丈夫ですよ、神父殿。この街で医者が見つからなくても、薬はロヘルに持たせます。彼には医療の知識もあるし何より信頼できる。それなら安心でしょう』
『……』
神父はしばらく黙ったままだった。
さすがのジェイクもこれ以上何か言うことはしなかったが、やがて神父が重苦しい息をついた。
『私の命は、あと半年ももたないと言ったな?』
『……。ええ』
ジェイクははっきりと頷いた。
余命は早い段階で告げていた。それは彼の誠意でもあったし、宣教師を任されるだけの人物に対する敬意でもあった。残された時間になさねばならないことも少なくないだろう。ぬるい同情で誤魔化しても、医学の心得のある相手に不信感を植え付けるだけだ。それは看病の妨げになる。
『ですから、お早めに下船をと申し上げているのです。この辺りの冬はひときわ厳しい。一刻も早く、気候の穏やかなエスプランドルに戻って療養なさるべきです』
すると、神父は考え込むように目を閉じた。
そうすることで、眼窩の落ちくぼみ具合がかえって目立つ。肌はかさついて皺が目立ち、唇は血色がいいとはいえない。温かい食事を摂れるようになってからはやや回復傾向にあったが、それでも安全圏には程遠かった。
『神は、最期まで私に難しい問いを与えてくださる。神を信じぬという者が今我が身を助け、一方で神の教えを人に説くべき者達は……』
『神父殿?』
『セニョール・マッキンタイア』
突如神父が目を開けたかと思えば、名前を呼ばれてジェイクは驚きつつも返事をした。
『はい』
『エステーベの教えに、万物は神の作り給うた物であるというものがある。信徒であろうがなかろうが、本当は変わらず神の愛し子。皮肉なことに、別け隔てなく患者を診るお主の方が、神の教えに忠実なように私には見える』
『……』
胸の奥のほうがざわめいた気がして、ジェイクは思わず息を呑んだ。
クレメンテ神父は、何を言おうとしている?
『私は、自己中心的な思いに突き動かされて、同胞を危機に晒すという罪を犯した。しかし、私にはもう時間がない。償う手段も限られていよう。しかしこのまま無為に死ぬわけにはいかないのだ。どうか手を貸してほしい、セニョール』
視界の端でロヘルが動くのがわかった。
机のある方に周り、紙と羽筆を手にしている。ジェイクが視線を向けると、強張った表情のまま頷いた。
それを受けて、ジェイクは視線を神父に戻した。
『わかりました。俺にできることであれば、何なりと』
医師の返答に、神父は安心したようだった。そして、深く息を吸ってからゆっくりと話しだした。
教会から届いた、手紙のことを。