Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

海港都市ヴェスキア

05

 その日何度目かで床板に転がったバートレットが、肩で息をしながら愕然と呟いた。
「なんで……、一勝も、できないんだ……?」

 起き上がる気力もないらしい。ライラは傍らからそんな彼を見下ろす。
「色々な要因があると思う」
 バートレットに向けて手を差し出しながらライラは言った。

「まずひとつ、あなたは心のどこかで私を女だと思って、本気を出すことに気が引けているんだ」
「女性なのは事実だろう」

 手を借りて何とか上半身だけ起こすと、額に垂れてきた汗を拳で拭いながらバートレットは短く答える。ライラは返答の仕方に困って小首をかしげた。

「それはそうだけど。……私は逆に、女性であることを最大限に利用するよう教えられてる」
「最大限に、利用?」

 バートレットは不可解だという視線を彼女に向けた。ライラは彼の隣に腰をおろしながら頷く。

「女性で当時子供でもあった私が、大人達を向こうに回して勝つにはどうしたらいいか。成人男性に、真正面から当たるのはどう考えても不利だろう? だから相手の心の隙をつくようにと」
「具体的には?」
「例えばだけど、基本的な格闘術の他に女性的な動作も教え込まれた。日常生活の中での歩き方、動作……。ちょっとした仕草だけでも、相手に意識させるには十分らしい。と言っても、一人で旅をするうちに、私が身につけたものはだいぶ損なわれてしまったけども」

 元がこの通りがさつだからな、と笑ってみせた彼女だが、バートレットは軽く首を振った。

「俺にはお前が女にしか見えない。ということは、まだまだ効果があるってことだ」
「あなたは私がこれまで出会った人間の中でも、かなり紳士的な部類に入ると思う。私がそんな小細工なんかしなくても、私が女性だっていう事実だけできっと本気は出せないよ」
「それはそれで悔しいな」

 鼻に皺をよせて、彼はそう呟いた。

「まさにそれが俺の敗因になるってことだろう」
「そういうことになるな。とはいえ、私もそんな優しい心の人間の隙をつくことに、正直躊躇いがある。どんな時も冷静に、非情にならなくてはいけないのに……」

 小さく溜め息をついて、ライラは自嘲した。
「だからこれは私の敗因にもなりうるんだ。いつかこの迷いが、命取りになるんじゃないかと思ってる」
「……」

 バートレットはそんな彼女の寂しげな笑みを黙って見つめていたが、気を取り直すように胡座(あぐら)を組み直した。

「お前にそんなことを叩き込んだ人間は、どんな修羅場をくぐってきたんだ? 女子供が戦うことを現実として想定している時点で、只者じゃないんだろうが」

 ライラは軽く頷き、岬の麓に広がる港街を眺めた。城塞に守られた街は発展し、石造りの立派な建物がいくつもある。港には船や人が集まっていて、商売に精を出しているようだ。それらの遥か上空を、海鳥たちが飛び交っていた。

「私の先生は傭兵だったんだ。従軍経験もあって、それこそ女子供相手だからと手を抜けない場面にも多く立ち会ったんだと思う。まあ、厳しかったよ」
「道理で強いはずだ。その先生は多分、お前に何とか生き延びてほしいから厳しくしたんだろうな」

 何気ないバートレットの言葉に、ライラは目を見開いた。
 それから彼女は目を伏せて「そうだな」とだけ呟くと、すぐに顔を上げた。

「もちろん隙をつくだけではなく、最終的には戦いに勝たなくてはならない。要因のもう一つは、動きの基礎だと思う」
 すると、疲労の色が伺えたバートレットの目つきが変わった。

「ようやくか。随分焦らされたぞ」
「焦らしたつもりなんかないんだけどな」
 ライラがぼやくと、バートレットは苦笑を浮かべた。

「お前が女性でなかったとしても、今の俺に勝ち目なんかないってことは十分わかったからな。早く次の手が知りたい」
「だから体術自体は勝つためのものじゃなく、あくまでも相手の動きを封じるものだってば」
「そうだった」
 はは、とバートレットはライラに向けて快活に笑う。

 その様子を遠くから時折窺っているのは、甲板に出ていた他の海賊達である。その視線はまるで奇異なものでも見るかのようだ。
 それもそのはずで、バートレットは水夫として乗船して以降、こんなに明るい表情を見せたことがなかったのだ。本人に言えば、自分だって笑うことくらいはあると反論するだろうが。

 しかも相手はライラだ。彼らがここ最近よく一緒にいるのも周知のことだった。

 今日も二人で肩を寄せ合って話をしていたかと思えば、突然向き合って組手をやり出す。もっぱらバートレットの方が床に沈むことになるのだが、彼は自尊心を傷つけられて気を悪くするどころか、むしろ清々しい表情を彼女に向けている。
 (はた)から見ている人間には理解不能な光景だった。

 おそらく二人は一般的な甘い関係ではないのだろうが、当のライラがまんざらでもなさそうだというのも問題なのだった。

「関節の可動域を理解するんだ。例えば、相手の背中に腕を回してひねり上げたりするだろう。すると相手は動けない。それと同じ理屈で、まず身体のすべての部位がどう動くかをきちんと認識して……」

 ライラが実際に腕を伸ばして左右に回してみせながら、バートレットに講義していると、「楽しそうですね」とレオンがやってきた。

「お邪魔でなければ、俺も混ぜてもらっていいですか?」
「私は、構わないけど」
 と、ライラが視線で意見を伺うと、バートレットも頷いた。
「なら、いいんじゃないか。レオン、お前も一回投げられてみればいい」

 そうして数分後、今度はレオンが床から空を仰ぐことになった。

「……え?」

 床に仰向けに寝転がった格好になっても、自分の身に何が起こったのかレオンはまだ理解できていないようで、ただ愕然としている。ライラがはじめに声がけをしたにも関わらず、気がついた時には身体が浮きあがっていたのだ。彼にとっては、あっという間の出来事だった。

 そんなレオンの姿に、バートレットは一人で納得したような声を上げた。
「そうか、全身を使って投げてたんだな。これだけ体格差があるのにどうやってるのか、自分が転がされるばかりだと気づかなかった」
「腕力だけで制圧できそうなら、力尽くで抑え込めばいいだけなんだ。私の場合そうはいかないから、身体の仕組みを利用したやり方になる」
 レオンの(そば)に片膝をつきながら、ライラがバートレットに向けて答える。

 そんな彼女を呆然と見上げるレオンに、ライラは心配そうに声をかけた。
「痛かったかな? 起きれそうか? 一応、途中まで支えた状態にしたつもりだったんだけど……」
「あ、いや……そこまで痛くは、ないんですけど」

 と、差し出された手を遠慮がちに握って起き上がると、レオンは深く息をついた。

「すみません。これ、どういう趣旨の話ですか?」
「体術で、敵を抑え込む方法?」
 とライラが答えるその隣で、バートレットが続けた。

「体格の不利を補うやり方でな。……しかし船内の狭い箇所では投げられないし、実際お前もそうはしてなかったじゃないか。あれはどうやってたんだ?」
「あれは応用。関節の動きの話はしただろう、まず一通りのことが頭に入っていないと無理だよ」
「そうか」

 まさにそういうものを知りたいんだが、と残念そうに呟くバートレットを見て、状況を飲み込んだレオンがライラに意味ありげな微笑みを向けた。
「その話、俺にも最初からしてくれます?」


 一層賑やかになったカリス=アグライア号の甲板の様子を、更に離れたところから見ている者がいた。
 同じように検疫を受ける人魚(シレーナ)号である。

 張った支索に干した洗濯物の乾き具合を確認していたマーティンが、口をとがらせた。

「いいなあ、あっちは楽しそうで」
「無理しないで残りゃよかったのに」
 同じように乾かしていた綿の手巾や包帯を取り込むジェイクが苦笑する。

「レオンと離れて心細いんだろ」
「こっちに来たことは後悔してません! ……頭領を危険な目に合わせちゃったの俺だし」

 うつむいたマーティンの肩を、ジェイクは元気づけるように軽くニ回叩いた。

「あまり気にするな、ルースもあの程度のこと何とも思ってないだろうさ」
「そうですかねえ。だといいんですけど」
「あんなのいちいち気にしてたら、海賊船の船長なんかつとまらんよ。さて俺は部屋に戻る、残りを頼むぞ」
「わかりました」

 そばかす顔の青年水夫に言い残して、船医(サージェン)は身を翻した。のんきなやり取りをしてはみせたが、そう暇でもないのである。

 この船には船尾楼の他に船首楼があった。大きな作りで敵を威圧する、エスプランドルならではの構造だ。ジェイクはその船首楼にある部屋の扉を開けた。