Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

海港都市ヴェスキア

04

 停泊中の甲板というのは随分味気ないものだ、とライラは思った。

 いい風が吹いたと思ってもそれを受ける帆は畳まれており、垂れ下がった支索がゆらゆらと揺れる程度である。いつもなら威勢よく波を切って走っている船体は、今は船首と船尾両方から錨で固定された状態で、腹部を小波に洗われていた。

 船が眠っている。
 活き活きと帆走する姿を見慣れてしまったせいか、ライラには停泊中の船がそんなふうに見えた。

 男達は積荷が届けば索巻機(キャプスタン)にかじりついて精を出しているし、積荷がない時間帯でも、船の細かい部分を修繕したり道具を磨いたりと実に勤勉だ。それでも帆走中に比べれば暇なのか、多少緩んだ雰囲気が甲板に漂っていた。

 そんな中、ひとり黙々と床磨きをする青年の姿がある。バートレットだ。

 港につくまでという条件だった罰則を、人魚(シレーナ)号の一件でこなせなかった彼は、検疫期間中に自主的に行うことに決めたらしかった。当然、当直時間ではなく休憩時間をそこに当てている。
 何度かその様子を目にしてはいたものの、邪魔をしたくなかった思いもあってライラは話しかけることすらしてこなかった。しかし今日は思うところがあって、真っ直ぐ彼の方へ歩いていった。

 すると、彼女に気がついたバートレットが手を止めて顔を上げる。

「ライラか。どうした?」
 いつも通りの彼の応対に、ライラは呆れたように溜め息をついた。
「どうした、じゃない。なんでいつも一人なんだ」

 バートレットはライラの様子を不可解そうに見ていたが、すぐに意味を理解した。何でもないことのように答える。

「カールとジェフか。さあな、これは俺が自分で選んでやっていることだから」
「ここに停泊してもう十日以上だぞ。ルースだってこんな長期間罰を与える気はなかったはずだ」
「港につくまでという条件だったからな。でも雨の日はやってないし、厳密に四時間こなしているわけでもない。俺だって手を抜いてるよ」

 そう笑ってみせるバートレットに、ライラはかける言葉を見失った。
 彼の不器用さに呆れもしたが、こんな風に笑う青年だったのかと内心驚いてもいた。

 気を取り直すように、彼女は言った。

……手。見せてくれないか」
「え?」
「手だよ。いいから見せてくれ」

 仕方無しにバートレットが差し出した手には包帯が巻き付いていたが、掃除の汚れだけでなく、ところどころ血が滲んで赤黒くなっていた。

 砥石のことをプレイヤーブックと呼ぶのは、這いつくばって床を磨くさまが、まるで聖典(プレイヤー・ブック)を手に祈りを捧げる巡礼者のようだからだと言われている。重い砥石は両手でないときちんと磨けないのだそうだ。

 ライラは顔をしかめ、無言で包帯を解いていった。案の定、バートレットの手はあちこちに肉刺(まめ)ができ、擦り傷からは血が滲み出している。
 彼女は再び溜め息をついた。

「やっぱり……。罰則ごときで手を潰す気か? まったく」
「潰すほどじゃないと思うが」
「もう化膿しかけてるけどな。……ちょっとそのままにしていろ、手当てするから」

 ライラは彼の傍らに膝をつくと、持ってきた布袋を床において道具を取り出した。簡単な治療方法や衛生管理については、以前ジェイクに教わっていたのだ。

 ライラは水筒の水で自分と彼の手を洗うと、嗅ぎ煙草入れに似た小さな入れ物から火酒の染みた綿を鑷子(ピンセット)で取り出し、傷の消毒をしていった。

 自分の手をされるがままにしているバートレットは、まるで他人事のように呟いた。
「作業がまだ途中だ」
「もう船の端から端まで滑っていけるくらいピカピカだ。こんな手になってもまだ罰則を続けろと言うようなら、私がルースを叩っ斬ってやる」

 真顔でライラが言うと、バートレットは目を丸くした。

「頭領が負けるとは思わないが、お前に切っ先を向けられるのを事前に回避できるなら、そうすべきだろうな」
「その通りだ。あなたさえ大人しくしてたら、ルースが血も涙もない冷血船長の汚名を着るのも免れるんだ」

 ライラは不機嫌に言い返しながら、軟膏を塗り、真新しい包帯を巻いていく。
 その様子を眺めていたバートレットは、少し考えてから呟くように言った。

……。あの人なら確かに、怪我をしてまで罰をこなせとは言わないな。見つかれば逆に不興を買うかもしれない」
 小さく笑うと、バートレットは顔を上げてライラを見た。
「わかった。俺も意地になっていたらしい。無意味に身体を痛めつけるような真似はやめにしよう。……ありがとう、ライラ」
……

 今度はライラが目を丸くする番だった。
 何か言おうとして、適切な言葉が思い浮かばなかったライラは、結局全然関係のないことを口にした。

……これ、日に一度は取り替えるからな」
「随分甲斐甲斐しいな」
「ジェイクにそう指導されてる」
「なるほど」

 包帯を巻き終わった頃、船長室(キャプテンズ・デッキ)の扉が開く気配がして二人が揃って目をやると、ルシアスが出てきた。

 彼が姿を現すと、甲板は緊張に包まれる。皆、気が緩んでいるようには見えても、ルシアスから声をかけられるのを待っているのだ。
 そのルシアスが一瞬こちらを見たような気がして、ライラも身構えた。しかし気のせいだったのか、彼はすぐに別の方向へと視線を向け、近くにいた乗組員と何事か話しているようだった。

「何か、あったのかな」
「さあ」
 ライラの呟きに、バートレットは首をかしげた。

「検疫自体は三週間に縮まったと言うし、そのせいで手配に追われているだけじゃないか? あまり時間をかけ過ぎたら冬になって、来春までヴェスキアに留まることになりそうだ」
「そうなのか?」

 ライラが驚いて振り向く。バートレットは頷いて説明した。

「積荷が揃わないとかで数ヶ月足止めを食うことは稀にある。その間に冬になるようだったら、諦めてその町で冬越しの準備をするんだ。この辺りの冬は厳しくて、出港どころじゃないからな」

 ライラが聞いたのは航海時期ではなく検疫期間のことだったが、バートレットはそう受け取らなかったようだ。しかし、言われてみれば今は秋。悠長にしていれば冬になってしまう。

(検疫が終わるまであと一週間くらいか)

 その後どうするか、まったく決めていなかった。自分はここの乗組員ではないのだし、今後のことについてそろそろきちんと考える必要がある。ルシアスには行くな、とは言われたものの……

 と、考えに耽りかけたライラの意識を、バートレットの声が呼び戻した。

「ただ、ここで冬を越す予定ではなかったはずだ。頭領達もできる限り回避しようと、ああやって動き回ってるんだろう。こんな北方で冬を迎えるのは、さすがに俺も勘弁してもらいたいな」

 彼は苦笑いどころか、本気で嫌がっている様だ。
 ヴェスキアは海沿いだからまだましな方で、この国で陸路を行くとしたら山間を行かねばならず、そうなればもちろん雪中行軍だ。無謀極まりないし、結局どこかの町で越冬することになるだろう。ライラとしても望ましくはない。

「確かに冬を過ごしたい地域ではないな……。でも検疫終了までは、どうなるかわからないってことか」
 呟いたライラに、バートレットは視線を向けた。

「そういえば、港についたら本当に船を降りるのか? 南下するならこのまま乗っていけばいいのに」
「ルースにもそう言われた」
 ライラは肩を竦めてみせた。
「でも、ただ船に乗ってると身体が鈍りそうで嫌なんだ。検疫が始まってからは特にひどい」

 ルシアスが多忙でジェイクも不在となると、船乗りでもないライラはやることがなかった。細かい雑用を自主的に見つけたり、船舷から釣り糸を垂らす乗組員に混ぜてもらったりして、何とか一日を過ごしているという具合だ。

 専属従僕(キャビン・ボーイ)の立場ではあるが、部屋に籠もりきりのルシアスは細かい指示を出す手間すら惜しんでいるようで、ライラとの間にはほとんど会話らしい会話もなかった。
 しかしライラ自身、彼にどう応えていいか未だ決めかねていて、今の距離感は本音を言えばありがたい部分もあるのだった。

 すると、バートレットが思い切ったように切り出した。

「なあ、人魚(シレーナ)号での話を覚えてるか?」
「話?」
「お前に体術を習いたいと言ったろう」

 ライラは思わず口を半開きにしてぽかんとしてしまった。そういえば、そんな申し出を受けた気もするが、まさか本気だったとは。

「覚えてるけど……でも、その手で?」
「体格も腕力も俺の方が上だ。怪我があるくらいで丁度いい。罰則を終わりにするなら俺も時間ができる。お前も身体を動かせるし、どうだろう」

 見れば彼は大真面目だった。
 しかしライラは迷わずにいられなかった。人に教えるなど経験がないし、加減がきかないかもしれない。組み手の相手が出来るのは嬉しくもあるが……

 ライラは彼を真っ直ぐ見て、念の為に忠告した。

「私のはきちんとした武術ではないから型のようなものもないし、だいぶ我流なんだ。怪我をさせる可能性もある」
「完全に実戦向きなのが見て分かる程度には、俺も心得があるつもりだ。怪我をしたって俺の責任で構わない」

 やはりというか、バートレットは怯むどころか微笑みすら浮かべて了承した。

 ライラは溜め息をついた。
 成り行きとは、本当にわからないものだ。