Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

海港都市ヴェスキア

01

 壁一枚隔てた部屋の外から、ひっきりなしに威勢のいい男達の声が聞こえていた。

 測量の値を告げる声。操船の音頭を取る声、それに応じる水夫達の掛け声。
 戦闘の直後にもかかわらず、彼らの士気はまだ下がってはいないらしい。時折、陽気な笑い声すら混ざる。

 索のしなる音からすると、風は十分あるようだった。適度な風が、船乗り達を陽気にさせているのかもしれない。

 ライラは下履きの腰紐を締めながら、まるでいつも通りの平穏な朝を迎えているような錯覚すら覚えた。
 置かれていた着替えは元々自分が身につけていたもので、きちんと洗われた状態で戻されていた。旅を続けていると、洗いたての服に身を包む機会はぐっと減る。馴染んだ服だが、気が引き締まるのはおそらくそのせいだろう。宵越しの身で余計に「朝」を意識してしまうのだ。

 着替えを終え、無意識に腰のあたりに手をやった時、ライラは物足りなさに気がついた。

(ああ、剣が……)

 先程水を浴びた際に外し、そのまま置いてきてしまったのだ。そのことに思い至るなり、急に落ち着かない気分になる。
 衝立の方に意識を向けると、聞こえていたはずの物音がいつしか聞こえなくなっていた。ライラと同じように向こうで着替えていたルシアスだが、きちんと着込むよりもまず休息を優先したらしい。疲労が溜まっていたのだろう。

 ──お前をいかせたくない。

 不意に鼓膜にあの時の彼の声が蘇り、ライラは息を呑んだ。再び顔が熱を持ちはじめ、勝手に背中が泡立つ。

(だめだ、思い出すな)
 心臓が早鐘を打ち、息苦しささえ感じたライラは慌てて部屋の入口へ向かった。

 お前も休めとは言われたが、とてもそんな状態ではない。横になったところで睡魔が訪れるとも思えなかった。気を落ち着けるのが先決だ。

 音を立てないよう、ライラは震えそうになる手で慎重に扉を開ける。
 ヴェスキアの船団が迫っている今、多忙なルシアスの僅かな休息の時間を邪魔したくはなかった。

「あ、あれ? ライラ、さん……?」
 朝のひんやりとした空気とともに彼女が受けたのは、甲板にいた乗組員達のなんともいえない視線だった。
 まるで、彼女が甲板に出て来るなど想定外だとでもいうような。

「うん……?」

 不可解さにライラが立ち止まっていると、どこからか「はい、終了ー」と気の抜けた声が飛んだ。すると、次々愚痴のようなものが聞こえてきた。

「えー、マジかよあり得ねえ」
「なんだよ、あっけねえな」
「ははは、だから言ったろ! 俺の勝ち!」

 状況が読めずに立ち尽くすライラのもとへ、操帆作業中の乗組員達の中からバートレットが抜け出て小走りでやってきた。

「ライラ、どうした? てっきり休んでいるものと思っていたのに」
「あなたこそ、休んでなかったのか」
「俺は慣れているから平気だ」

 バートレットの様子もなんだかおかしい。しかし、ライラには理由がいまいちわからない。なので恐る恐る聞いてみることにした。

「もしかして、まだ私がルースの寝首をかくなんて心配してたのか?」
「あ、いや」

 バートレットは明らかに動揺し、蒼灰色の視線を泳がせた。
「さすがにもう、それはないと理解している」
 ばつが悪そうではあったが、彼は正直にそう言った。ライラを頭から疑ってかかってしまったことは素直に反省しているようだ。

 しかし、様子がおかしいのはどうやらそのことが原因ではないらしい。
 ではなんだろう? ライラはすっきりしない思いを持て余しながら、甲板に出てきた理由を告げた。

「さっき、剣を置きっぱなしにしたままだったのを思い出したんだ。ないと落ち着かなくて」
 するとバートレットは、得心のいった様子で「それなら」と腰から一振りの剣を外した。
「俺が預かっていた。この船にも手癖の悪いやつがいないわけじゃないからな」

 盗まれないよう、彼が身につけていてくれたようだ。
 バートレットにお礼を言って愛剣を受け取りつつ、やはり釈然としない気持ちが残ってライラが考え込んでいると、彼は更に気まずそうに告げた。

「すまん。馬鹿な連中のくだらん戯れと、受け流してくれたら有り難い」
「……?」

 何のことか、はじめはわからなかった。
 しかし、バートレットの背後の離れたところから、こちらまで漏れ聞こえてくる会話の内容で、ようやくライラも理解した。

 彼らは単調な操船作業に勤しむ傍ら、賭けをしていたのだ。船長室(キャプテンズ・デッキ)に半ば引きずられていったライラが、ルシアスとの間で何事かが起こるかどうかを。
 もちろん、こんな短時間で彼女が部屋から出てきてしまったのでは、結果は明白だが。

「その……誓って言うが、俺は参加していないからな」
 バートレットが言いにくそうにしながらも念を押す。根が真面目な彼が、この手の下世話な賭け事に興味を示すはずもなく、むしろ苦々しく思っていただろうことは想像に難くない。

 だからライラも複雑な気持ちではあったが、怒る気になれずにただ嘆息した。
「意外とみんな余裕があるんだな」
「いつもこんなもんさ」

 彼女が不快がっている様子ではないのを見て、バートレットも幾分安心したようだ。ライラも一応女性だからか、気を遣ってくれていたらしい。

 先程までの不自然な硬さが少し和らいだバートレットは、船長室(キャプテンズ・デッキ)の方に視線を投げた。

「ところで頭領は?」
「中で仮眠をとってる。徹夜だったそうだから、少しでも休ませてあげたい」
「そうか。お前も、このまま部屋に戻って休むのか?」
「いや……」

 バートレットの問いに、ライラは躊躇いがちに答えた。
釣床(ハンモック)は戻してあったけど、仕切りまではされてなかったんだ」

 この状況で、着替えだけでなく寝床まで用意されていたのはむしろ感謝したいほどなのだし、今更ルシアスが何かしてくると思っているわけではない。だが、今まであったものがないというだけで気分は落ち着かないのだった。事情が変わった今は特に。

 するとバートレットは一瞬思案して、彼女にこう提案した。

「だったら、またハルの部屋を借りたらどうだ? 今は向こうの船に行っていて、港につくまでは彼も帰ってこない。事情を話せばきっとわかってくれる」
「え、でも」
「頭領とハルには、後で俺から説明しておくから」

 願ってもいないことだった。贅沢を咎める気持ちもなくはないが、今はホッとする気持ちのほうが大きかった。
「ありがとう、正直助かるよ」
 ライラは心の底から礼を言った。するとバートレットは、そんな彼女に同情の目を向けた。

「俺も頭領の決定がある以上強く言えないが、いくら客人でも男女で二人きりなんてと思っていたんだ」

 バートレットらしい言い分だ。ライラがルシアスに危害を加える可能性がないとわかっても、倫理的な部分で許容し難いに違いない。目上であるハルの部屋を、事後承諾で使わせるというくらいには。

 二人がそんな話をしている間に、船は無事に岩礁地帯を抜けたようだった。ひと仕事終えて、甲板の雰囲気も更に和やかになる。人魚号の方はまだだったが、特に問題が出ている風でもない。じきにあの船も抜け出してくることだろう。

 ヴェスキアの船団は徐々に近づいてきていたが、まだ十分距離があると思っていた時、船団のうちのひとつから大砲が放たれた。

 点火の光がきらめくのにやや遅れて、雷のような重低音が響く。
 攻撃性のあるものではない、とライラですらわかるような角度と方角だった。それも、一発のみ。
 もちろんこちらに当たることはなく、砲弾はそのまま海の中に飲み込まれていった。

「あれは?」
 ライラが尋ねると、バートレットは船団に目をやって答えた。
「礼砲だ」
 バートレットはさして驚いてもいないようだった。

「挨拶みたいなものだ。一発だけだし、敵意がないと言いたいのかもな」
 彼がそういったのは、何度か利用している港だからだろう。彼らの顔見知りがいるのかもしれない。

 個人船舶間では、まず旗や船首像などで敵味方を判別したり逆に騙し合いをしたりするらしいが、最初から知人の船であるのがわかっているならその必要はない。なので大砲での合図という手段をとったのだ、と彼は言った。

 しかし、バートレットはこうも続けた。
「商売に関してはがめつい連中だからな。俺達が岩礁に足を取られているようであれば、積荷を奪いに一気に群がってきていたろうよ。見込みが外れて、慌てて手を引っ込めたってところだろう」

 つまりルシアスはそれも読んでいて、彼らと接触するより早く離脱することを指示していたのだ。将来有望とされるバートレットも、そのくらいは見通す力を持っていた。