Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

人魚(シレーナ)

26

「ら、ライラさん、一応毛布広げて隠しますから!」
 気を利かせたティオが、すかさず大きな毛布で壁を作ってくれた。
 ホッとしたのもつかの間、ルシアスが立っているのはその壁の内側だった。ライラは一瞬出かかった悲鳴を何とか飲み込んだ。

「な、何故!?」
「やってやる」
「い、いいいらない、いらないったら! 自分で……
「いいから早く脱げ。そのまま扉の方を向くんだ。ほら、始めるぞ」

 何を言っても無駄のようだった。ルシアスは引くつもりがないらしい。
 もちろんライラ自身、必要なことだというのはわかっている。やらないわけにはいかないのだ。でも。
 羞恥のあまり、破裂しそうなほど心臓が早鐘を打つ。泣きそうな気持ちになりながら、ライラは扉側に身体を向け、仕方なく上着に手をかけた。

(大丈夫、死ぬわけじゃないんだし)
 ぱさり、と上着が指から離れて床に落ちた途端、ちゃぷ、と水音が近距離で鳴った。次の瞬間、文字通り頭から冷たい水を注がれる。反射的に身体が身構えて強張った。
「う……っ」
 海水が目に染みる。ギュッと目をつぶった。

 さっきルシアス自身がやっていたような、豪快なやり方ではなかった。まるで神殿の女神像が水瓶から水盆に注いでいるような、ゆっくりとした動作でルシアスは海水をかけ続けた。
 正直意外でもあった。先程までのルシアスは態度がいつもと違って、何かに苛ついているような風にもとれたからだ。腹立ち紛れに、海水をぶちまけられるんじゃないかと思っていた。

(相変わらず、何考えてるかわからない奴……
 いつまで続くんだろう、と目を閉じたままのライラが思い始めた頃、ようやくそれが終わった。
 ふわりと空気の動きを肌で感じたかと思うと、おそらく壁を作っていたものだろう、大きな布で包まれた。ライラは顔の水滴を手で拭って目を開けた。

 毛布で包まれただけならまだよかったのだ。しかし、実際は何故か、ルシアスに後ろから毛布ごと抱き込まれていた。
「え……?」
 反射的に振りほどこうとしても、彼の腕はびくともせずうまく行かなかった。
 なんなんだこの馬鹿力は。

 ルシアスは空いた手で船長室(キャプテンズ・デッキ)の扉を開けると、振り向きざまに指示を飛ばした。
「測量を! ひとまずこの海域を脱出する。スタンレイの指示に従え。……船団との接触まで部屋に籠もる」

 そしてライラが何かを言う間もなく、ルシアスは彼女を抱えたまま、というより半ば引きずるようにして部屋に入ると、すぐに扉を閉めてしまった。
 だが、それでも拘束は解かれない。
 ライラは慌ててもがいた。

「お、おい、ルース。これはどういう……っ」
「何故、合図を寄越さなかった?」
「え?」
 低い呟きに、ライラは動きを止めた。

「船尾灯だ」
 端的に言われて、ようやくライラは何のことか思い至った。
 本来であればライラが送るべきだった、合図。ルシアスの機転で何とかなったものの、彼が動かなかったらどうなっていたことだろう。

「下で……病人の対応をしていたら、そのまま、鍵をかけられて閉じ込められたんだ。ディアナは別のところに捕まっていたし、抜け出すのに時間がかかってしまって……っ」

 そこまで言って、ライラは言葉を切った。
 切りたくて切ったわけではなかった。回された腕に、力がこもったのだ。

「ルース?」
 囁くように訊くが、待っても答える声はない。

 ライラは自分が置かれた状況を理解できなかった。これが、好ましい状況なのかそうでないのかさえわからない。
 しかし、後ろから抱きしめられるという、今のこの状況はまるで――

 沸騰しかかった頭でそこまで考えて、ライラは半ば無理やり思い直した。

 ディアナほどの美女に言い寄られても、顔色一つ変えなかったルシアスだ。彼の今現在の想い人がまだリスティーなのかどうかはわからないが、誰彼構わず浮ついた態度を取る男ではないはず。もしかしたら、女の方が一方的にのぼせ上がって勘違いしてしまうのかもしれない。
 ルシアスは恐らく、自分やジェイク達のことを本当に心配していたのだろう。落水の時と同じだ。冷静なようでいて、意外と心配性なのだ。自分までその厚意を誤解しては可哀想だろう。

 そう結論づけて納得してみたものの、会話と身じろぎを止めたことで、ライラの意識は勝手に別な方向へ向き始めた。
 お互い全身が濡れているのにも関わらず、毛布越しにじんわりと伝わってくる体温。密着した背中に響く彼の鼓動。

 ライラは息苦しさを覚えた。いつの間にか、呼吸が浅くなっている。彼がどういうつもりであれ、自分は薄手の肌着(シュミーズ)一枚、向こうは半裸だ。こんなの意識するなという方が無理だった。心配してくれた相手を、無下に振り払うべきでないのはわかっているけれど……
 ルシアスの髪を伝った雫が毛布の隙間からライラの肩口に落ちて、その冷たさに彼女はびくりと身体を強張らせた。

 すると、それが契機になったのか、ルシアスの腕から少し力が抜けた。
 右のこめかみ近くで深い溜め息をつく気配がして、彼が少し俯いたのだと知る。

「肝が、冷えた」
 ようやく低い呟きがもたらされた。

 その短い一言にどれだけの思いが詰まっていたのだろう。またしばらくの空白があり、ルシアスは改めて腕を――今度は両腕を、ライラの身体に回し直した。
「お前といると退屈しないとは思っていたが……少し刺激が強すぎる」

 ライラもそれは同感だった。彼とは元々腐れ縁で、関われば厄介事に巻き込まれるのは今に始まったことではない。だが自分が乗船してからのあれこれは、今までより規模が大きい気もする。
 ルシアスの心労に改めて思いを馳せて、ライラは彼の腕を労るようにそっと触れた。この手からいくらかでも気持ちが伝わればいいのだが。

「す、すまない。意図したものでないことだけは、わかってほしい」
「違う、責めたつもりはない」
 ルシアスはすぐに否定した。それはやや硬い声だったが、彼はばつが悪そうに言い直した。
「俺の言い方が悪かった。うまい言い回しがわからないだけだ。つまり……

 再び、回された腕に力がこもったのがわかった。彼は少し間を置いてから、喉の奥から絞り出すようにして囁いた。
「無事で、よかった」

 ライラは耳から頬にかけて、かーっと熱くなるのを感じた。この体勢はどうかと思うが、ルシアスと向き合っていなかったのには正直救われたと思った。言葉を交わすなら相手の目を見るべきだろうが、今のこの会話を、ルシアスの深海色の瞳を見つめながらこなす自信はない。
 ライラは視線を床に彷徨わせた。

……ええと、助けに来てくれてありがとう。お前が気づいてくれて、その」
「ライラ」

 なんで今そんな風に名前を呼ぶんだ!
 ライラは奥歯を噛み締めて背後の男を罵りたい衝動を堪えた。それに気づかないルシアスは言葉を続ける。

「元々話すつもりだったが、今回の件で確信した。このまま船に残ってほしい。お前を行かせたくない」
 ライラは息を呑んだ。上ずりそうになる声をなんとか制御して言葉を紡ぐ。
「な、何言ってるんだ。お互いの立場を忘れたわけじゃないだろうな、クラウン=ルース?」
「もちろん忘れてはいない」
「じゃあ、どうして……

 消え入りそうな問いに、ルシアスは自嘲気味の溜め息をついた。
「さあな、俺にもよくわからん。お前は強く賢い。剣で戦い、剣で死ぬ覚悟があるのも知っている。……なのに、お前が危険に晒されていると思うと、気が気じゃなくなる」
 思わず振り向いた。
 そこには、憂鬱そうな光を灯す深い色合いの眼差しがあった。ライラが我に返った時にはもう、至近距離で視線がぶつかり合っていた。あまりの衝撃に、頭の中が真っ白になる。

 ライラの顔を見たルシアスが、そこに何かを見出して目を見開く。
「ライラ、お前……
 言いかけて、唇を真一文字に引き結んだ彼は、試すようにそっと右腕を動かした。

 びくりと過剰に反応したライラを見て、苦々しく目を眇める。そして次は、腕の中で首だけ傾けていた彼女の身体も自分の方に向けさせた。左腕を優しく腰に回すと、空いた右手の親指で、ライラの目尻にかすかにきらめくものを軽く拭って囁いた。
「そんなに怯えなくていい。何もしないから」
「べ、別に、怯えてるわけでは……っ」
「まあ、何でもいい。とにかく……ああ、参ったな。よく今まで無事でいられたものだ。信じられない」

 ルシアスが呆れたような、困惑したような独り言を呟いた。つられるように戸惑ったライラが訊ねる。
「何の話だ」
「余計にお前を一人で行かせられないってことだ」
「だからそれは、どういう……っ」

 思わせぶりな言い方に苛立って問い詰めようとしたその時、自らのくしゃみによってライラは言葉を切らざるを得なかった。
 情けない表情で鼻をすすったライラに、ルシアスは苦笑を向ける。

「まずはお互い着替えたほうがいいな。二人共風邪を引いてしまう」
「はぐらかすな」
 ライラが()めつけても、ルシアスは平然としていた。
「はぐらかす気はない。後で話してやるさ、じっくりな。その前に少し休ませてくれないか? こっちは昨日からずっと寝ずに動き回ってたんだ」

 さらりとした言葉に、ライラはハッとした。そうだ、ライラは人魚(シレーナ)号が来るまでの間少し休むことが出来たが、頭領であるルシアスはそうも行かず、落水事件から今まで対応に追われっぱなしだったのだろう。
「す、すまない」
「いいさ、慣れてる」

 本当に慣れてるのか、ルシアスは当てこすることもせずにライラから身体を離した。
「お前も疲れたろう。今のうちに休んでおけ、いいな」

 あっさりと告げて衝立の向こうへと立ち去る海賊の背中を、ライラは恨めしげに見送っていたが、やがて自分も着替えるために行動に移った。
 もちろん、密着していた身体が離れたことで急に肌寒さを感じたなんて、断じて認めるわけにはいかなかった。

第三章 Fin.