Brionglóid
海賊と偽りの姫
人魚 号
23
気配に気づいてふと目を上げると、仲間達と同様に後ろ手に縛られたディアナが、バートレットに連れられてこちらに向かってきた。
「ルース……」
沈痛な面持ちで彼女が言う。
「こんな事になって本当にすまなかった」
先程の態度とはうって代わり、すっかり意気消沈したディアナが頭を下げる。多くの仲間を失ったにも関わらず、謝罪を優先する辺りはさすが船長を任されるだけはあると言えた。
「責任はすべてあたしにある。こんなこと言えた立場じゃないけど、部下達はどうか寛大な処分にしてやってほしい」
そのまま顔を上げないディアナを、ルシアスはじっと見つめた。
普段の気っ風の良い彼女を知っている者からすれば、今のこの姿には尚更傷ましさを感じるだろう。しかし、ルシアスの眼差しには温かみと呼べるものがなかった。
緊張した沈黙が流れた。カルロもハルも、傍らで頭領の言葉を待っている。
彼らのすぐそばで跪いていたファビオが、強い眼差しでルシアスを見上げた。
「クラウン=ルース、賭けは俺の勝ちだ。約束は守ってもらうぞ」
ディアナが顔を上げた。訝しげにファビオを見、次いでルシアスを見る。
「賭け……?」
しかしルシアスは表情を緩めなかった。
「まだだ。あと二人足りない」
「ディアナ、先生とセニョリータはどうした?」
ファビオに切羽詰ったように問われ、事情のわからないディアナはしどろもどろになりながら口を開いた。
「あ、ああ。それなら……」
ディアナが言い終わない内に、ルシアスの視線は彼女の肩越しにある一点を捉えた。まるで何かに導かれたように。
ちょうど下層から、布の口当てで顔半分を覆い隠した者が三名、朝焼けの甲板に出てきたところだった。背の高い片眼鏡の男と片足を引きずった男、そしてもう一人は他の二人に比べて小柄で剣を穿いている。
甲板には他にも大勢の人間がいるのに、何故か彼の目はまっすぐその人物に吸い寄せられた。
見覚えのあるすらりとした体型、一つに束ねられた長い髪。一緒に出てきた男達と言葉をかわすその内容すら聞こえてくるのではというほど、彼の意識はそこに集中していた。
しかし、その魔法のような力は突如他者によって強引に解かれてしまった。
別の方角から「あっ」と短く声が飛ぶ。そして、誰かが突き飛ばされた気配と明確な──殺気。
『神よ、あなたの下僕にご加護を……!』
修道士フェルミンだ。
きっかけは、彼を拘束しようとしたマーティンが、彼の懐の奇妙な膨らみに気がついたことだった。反射的にそこに手を伸ばしたマーティンを払い飛ばし、フェルミンは血走った眼差しとともに銃口を船尾楼に向けた。
ルシアスは他に気を取られていたために反応するのが遅れ、ディアナも振り返るのが精一杯だった。他の者達も動けない。
狙われたのはディアナかルシアスか──。
ともかく、フェルミンはためらいもなく引き金を引いた。
ルシアスは目の前にいたディアナを抱き込み、近くにいたハルとバートレットが彼らの盾になろうと飛び出す。
高く銃声が響いた。絶望と怒りの声が方々からあがった。
「頭領……っ!」
『船長!』
銃弾は彼らにではなく、その手前の床に当たって板材を弾けさせた。
運良く外れたのではない、と顔を上げたルシアスはすぐに理解した。
発砲より一瞬早く、先程の小柄な水夫──ライラが動物的な瞬発力でフェルミンに飛びかかっていたのだ。
突き飛ばされた勢い余って、フェルミンはうつ伏せに転倒した。そのまま拳銃を握った手を手際よく捻り上げられる。抵抗する間もない。
『うぐっ! 何を……!』
即座に後頭部を髪ごと掴まれ、床に押し付けられたフェルミンは苦痛に顔を歪ませる。
『この……っ、私にこんなことをしていいと……ぐぅっ!』
ライラは喚く修道士が言い終わらないうちに、彼の頭をさらに強く押し付けた。
「何を言ってるかわからないんだ。すまないな」
荒っぽい行動とは裏腹にライラが冷たく言い放つ間、ハルが周囲に怒鳴った。
「ライラに加勢しろ! 押さえるんだ!」
海賊達が一斉に集まってきて、ライラに代わって今度こそ修道士を縛り上げる。
おもむろに立ち上がったライラは、ふう、と一息ついて振り返った。ルシアス達と、一足遅れて反対側からマルセロとジェイクがやってきたところだった。
「怪我はないか、ライラ」
「こっちの台詞だ、頭領。見たところ大丈夫のようだけど」
声をかけてきたルシアスに軽口で返すライラの横で、マルセロは苦い表情でフェルミンを見下ろしていた。
『なんてことを……。あんた、自分がしたことをわかってるのか?』
『……言われるまでもない。俺如きがどうなろうとも、果たさねばならない大義があるのだ』
未だ憎悪の消えない目つきで睨み返すフェルミンに、マルセロは溜め息をついた。
『それは、クレメンテ神父の病気のことか?』
『……なぜ貴様が知っている。神父様はどうされた?』
神父の名を出されて、フェルミンは初めて焦りを見せた。マルセロは告げた。
『その件なら、この医師が看病を請け負ってくれたよ。エスプランドルの医学も学んだちゃんとした先生だ。ロヘルも責任を持って世話をすると言っていた。……船を奪ってまで、陸を目指す必要なんて最初からなかったんだ』
『……っ』
マルセロの言葉にフェルミンは瞠目し、その場に凍りついたかのように動かなかった。
ルシアスが目配せをすると、ギルバートが頷いてフェルミンを立たせた。項垂れた修道士を引きずるようにして連れて行く。他の捕虜とは別にして監視下に置くのだろう。
ルシアスの後ろに控えめに立っていたディアナは、フェルミンの後姿を眺めて自嘲気味に呟いた。
「あんた達には借りばかり出来るわね」
「ひとつふたつ増えようが、今更変わらん」
顔色も変えないルシアスに苦笑して、それからディアナはライラに向き直った。
「ライラ、おかげで助かったよ。下でも世話になったしね。小娘扱いなんかして悪かったわ」
「私は必要だと思う行動をとったまでだ」
こちらも平然と答える女剣士にディアナは弱く微笑むと、不意に眼差しに力を込めてルシアスを見た。
「こうなった以上、もう何の申し開きもできない。すべてあなたに任せるわ、クラウン=ルース。どうにでも、好きなようにしてちょうだい」
その声は落ち着いていて、虚勢などではないことが周囲にも伺い知れた。ディアナは悲しいくらい毅然としていた。
身内の統制が取れずに内紛を許した上、直接ルシアスを命の危機に晒してしまった。船長として、そして元海賊として、彼女は覚悟を決めたのだろう。
ライラは思わずルシアスを見た。
反射的な行動だったので、自分がどんな表情をしていたのかはわからない。しかし彼は、ライラを見て短く息をついた。
「そんな顔で見るな。心配せずとも、これ以上手は出さない約束になってる」
「約束……?」
ライラが聞き返すと、ディアナも思い出したように口を開いた。
「そういえば賭けがどうとか言ってたね。あれのこと?」
ルシアスは頷いて、人だかりのやや後ろの方の、控えめな位置に佇むファビオに視線をやった。
「賭けというか取引だな。裏切りではなく内紛だという言い分を信用して、沈静化に手を貸す代わりに、パラシオスに情報提供して貰った。俺達の望みはあくまでも派遣した三人の生還だからな。その確証が得られ、本当に内紛だった場合、不必要な攻撃はしないという条件だ」
その言葉を受けて、ディアナもまたファビオを凝視する。
海洋大国のエスプランドルでは、船に関する情報は国家機密だ。このことが母国に知られたら彼は──。
ファビオもそれを承知なのだろう、どこか吹っ切れたような表情をしていた。
『ファビオ、あんた……』
『悪いな、ディアナ。他にいい案が思いつかなくてさ』
笑ってみせる腹心とは逆に、ディアナは涙こそ見せなかったものの、唇を噛んで黙り込んだ。彼が仲間を助けるために犠牲にしたものは、それほどまでに大きかった。
ファビオが牢に隔離される寸前に、彼を連行したハルが人魚号からあがっている奇妙な煙について『口を滑らせた』のだ。誤解を解く機会を逃すまいと、取引を持ちかけたファビオの言葉をルシアスにわざわざ取り次いだのも、ハルの『気まぐれ』だった。
このまま突っ込んで本当に誤解だった場合、ライラがどう思うかね、の呟きとともに。
ルシアスとしても、あの煙が火災なのか硝煙なのかの判断材料は欲しいところだったが、特に最後の一言は効いた。
そんなこんなで、硝煙ではないことと、位置的に材木置場であり火薬庫の近くではないことを確認した『天空の蒼』は、船尾灯の合図を待たずに行動を起こすに至った。
母国語でやり取りする人魚号の二人の様子に、更に何かを感じ取ったライラは傍らのルシアスに聞いた。
「彼らはどうなるんだ」
「基本的には、捕虜として身代金交渉の材料になる」
ルシアスは冷静に答える。ライラは彼を睨んだ。
「それだけか? 本当に?」
「エスプランドルがどういう判断をするかまでは知らん。それに詳しいことは後だ。──そろそろ頃合いだからな」
思わせぶりなルシアスの言葉にライラが首を傾げるのと、カリス=アグライア号から声がかかったのはほとんど同時のことだった。
「ルース! 来やがった!」