Brionglóid
海賊と偽りの姫
人魚 号
19
驚きのあまり、ディアナはつい先程まで気が塞いでいたのも吹き飛んでしまった。
しかし、この声は確かに──。
「……先生!?」
「ディアナ!」
意外な相手だったが、間違いなくこの声はジェイクのものだ。部外者であり、さらには非戦闘員で、傷病者達と共に船倉にいるはずの彼が、どういうわけか自分を助けに来たらしい。
益々事態が読めなくなってディアナは混乱しかけたが、上層甲板から再び届いた砲撃音と強い振動に我に返る。
そうだ、呆けている場合ではない。
「あ、あたしはここだよ! ここ……!」
ディアナは格子の隙間から腕を出して、夢中で合図を送る。すると、男の手がそれを握った。
その手の力強さと温もりに、ディアナはさっきとは違う意味で泣きそうになった。
「よう、遅くなったな」
にやりと笑ってみせる片眼鏡の船医の後ろには、片足を引きずった男が立っていた。
ディアナは再び驚いた。ここにいるとは思いもしない相手だったからだ。
『マルセロ……? あんた、どうして?』
ディアナの口から思わずこぼれ出たエスプランドル語の呟きに、マルセロはぶっきらぼうに答えた。
『話せば長いんですが、今は時間がない。あなたは一刻も早く甲板に行くべきだ』
その言葉にはっとして、ディアナは角灯の明かりにぼんやりと浮かぶジェイクの顔を見上げた。
「戦闘が始まったんだね?」
「おそらくな。俺達もさっきまで閉じ込められてたんで、上のことはわからんが」
「そうか……。仕掛けたのは多分うちだろうね。全く情けない話だ」
やるせない溜め息をついたディアナの前で、マルセロが屈んで扉につけられた錠を外しにかかる。それに気づいて、ディアナは周囲に視線を彷徨わせた。
「けど、どうやってここへ? その鍵は……」
「ちょっとばかし無茶をさせてもらっただけだよ」
作り笑いを浮かべるジェイクの後方から、切羽詰まった若者の声が飛んできた。見張りを請け負っているバートレットだ。
「ジェイク! まだですか!?」
「おっと、時間がないんだった」
ジェイクが戯けたように呟いたのとほぼ同時に、牢の鍵がかちりと音を立てて解錠された。すぐさま、ディアナはその入口を潜り出る。
三人は狭く暗い通路を進み、早速その区画の昇降口に向かった。ジェイクが前を見たまま早口に言う。
「砲撃が始まる前にここに来たかったんだが、時すでに遅しってやつだ。状況は相当厳しいと見ていいだろう。ディアナ、手下を止められるか?」
「今となっては手下と言っていいかどうか。船長職をとりあげられちまってるからね」
ふん、とディアナが鼻を鳴らす。ジェイクは昇降口の下に来ると、先に階段を昇るよう場所を譲ってディアナに促しながら言った。
「しかしお前には、上に出る前に腹を決めてもらうぞ」
ディアナが階段を昇りきると、そこではバートレットの他に、小娘ことライラが待っていた。あたりは灯りの少ない中で薄っすらと白い煙が漂い、床にはディアナを監視していたはずの元部下が横たわっている。
「一応、ここまで誰一人殺さず来たんですよ。早くしないと寝かせてきた連中が皆起き出してしまう」
バートレットが煙から口元を庇いながらそう言った。横に立つライラが何故か手をさすっている。
ディアナは後から上がってきたジェイクを振り返った。
「海賊に似合わず、ずいぶん穏便に済ませてくれたようだね」
「後で角が立たないようにだよ」
それは、ディアナが甲板に出て部下達を止めるにしても、仲間を何人か殺した後では反発を食ってうまくいかないだろう、という理由からだ。それだけではなく、ロヘルやマルセロにも配慮してのことだった。
そのロヘルは、ディエゴと共に病人達の元に残っていた。
閉じ込められたと判明した際、ライラが提案したのは小火騒ぎを起こすことだった。カリス=アグライア号での生活の中で、ルシアス達が神経質なほど火の扱いに気を配っているのを見ていたので、船乗りにとって火災がどれだけ驚異なのかを知っていたからだ。
もちろん本当に火災を起こしてしまっては自らの首を締めることになるので、見せかけだけのものだ。上層へ繋がる昇降口を塞いでいるのは格子戸で、角灯も、新しい乾燥した敷藁もある。煙を出すだけなら十分だった。
ライラは、海水を運んできた樽や使っていた桶に藁を敷いて火をつけた。ロヘルには、病人達が極力煙を吸わないようジェイクが持っていた当て布を渡し、ライラ達が部屋を出たらすぐ桶に水を入れて火を消すよう依頼した。もし問い詰められたら、海賊に脅されたと言うよう指示してある。
燻蒸のような濃い煙が上がって間もなく、予想通り消火のために乗組員が何人か駆け込んできた。彼らが慌てて入口を開けた瞬間にライラとバートレットが飛び出し、その場に来た乗組員を全員張り倒して見事脱出を果たしたのである。
「気遣いは有り難いけど、だからってあいつらが、それに感謝してあたしの言うことを聞いてくれるとは限らないよ」
寂しそうに告げるディアナに、それまで黙っていたライラが口を開いた。
「ではその時はどうする? 大人しくさっきの牢に逆戻りするか?」
「……っ!」
反射的にきつい視線を投げつけたディアナを、ライラは真正面から見つめ返した。
「ルースは今、難しい戦いを強いられてるはずだ。それでも宣教師に退くつもりがないなら、どちらかが無力化するまで戦闘が続くことになる。傷が浅いうちに止められるかどうかは、全部あなたにかかってるんだ、ディアナ」
「……。ちっ、生意気言いやがって……」
ディアナは小さく悪態をついたが、気を取り直したように顔を上げた。
「いいさ、やってやる。あの宣教師が何をしようが、部下が一人もいなくなろうが、この船はあたしの船だ。ここで引き下がったら先代に殴り飛ばされちまうよ」
「よし。……今度は手加減をしなくても大丈夫か?」
ジェイクが慎重に確認する。問題は、ディアナが少し前までは仲間だった相手と刃を交える覚悟があるのかどうかだった。
ディアナは先程までとは打って変わって、力強く頷いた。
「構わない。権力を盾に半ば無理やり従わされた奴もいるとは思う。そいつらの命まで奪いたくないけど、自ら決別したいって連中にこっちからすがる理由はないよ。あたしも元は海賊、舐められたら終わりなのは承知さ」
そう言いながら、ディアナは床の隅に転がっていたビレイピンを手にとった。索具を止めるための道具だが、海賊ならこれひとつでも十分に戦える。
「それを聞いて安心しましたよ。誰一人殺さずってのは、思っていた以上に難しい」
はあ、と疲れたような溜め息をついてバートレットが言う。ついで、彼はライラに視線を投げた。
「見よう見まねで殴り倒したが、俺一人だったら到底無理だった。やはり本職は違うな、ライラ・マクニール・レイカード。頭領がお前に一目置く理由が少しわかった気がする。船に戻れたら、後学のためにも体術の教示を願いたい。効率のいい昏倒のさせ方を知っておきたいんだ」
「今言うことか、それは? 大体、私だって剣のほうが……」
大真面目なバートレットに呆れてライラが言い返そうとした時、ディアナの硬い声がそれを遮った。
「ちょっと! 今、なんて……」
「え?」
と聞き返してすぐライラは失態に気がついて、しまったと思った。
自分が賞金稼ぎなのは伏せておこうと、ルシアスとも話していたのに、バートレットやジェイクに箝口令までは敷いていなかったのだ。
見ればディアナだけでなく、マルセロまでライラのことを呆然と凝視している。
「ライラ……マクニール・レイカードって、賞金稼ぎの!? あんたみたいな小娘が!?」
前のめりに問い詰めてくるディアナは、適当にごまかしたところでそう簡単には離してくれなそうだった。ライラは諦めて溜め息をついた。
「……私が小娘で何か不都合でもあるのか?」
「不都合っていうか……だって嘘でしょう、赤髭のミゲルとかレベリアーノ商会の連中を牢獄送りにした女よ!? でもあたし、賞金稼ぎのライラってのは大の男が束になってもびくともしない、熊みたいな女だって聞いてたのに!」
「な……っ! 熊ってなんだ、熊って!」
思わずムキになってライラが反論しかけたが、すかさずジェイクが口を挟んだ。
「そういうくだらねえ話は後だ後! とにかく上に急ぐぞ!」
ライラは言いかけた言葉をぐっと飲み込んだ。
その時、一際大きな轟音と揺れが人魚号を襲った。全員、その場でよろめいてたたらを踏む。
体勢を持ち直したバートレットが険しい眼差しで上を見る。
「接舷した。急がなくては」
一同は頷き合い、上層を目指して行動を開始した。