Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

人魚(シレーナ)

18

 人魚(シレーナ)号の背後から迫るカリス=アグライア号は、既に獲物を射程範囲に収めていた。
 相手は未だ帆すら揚げることができておらず、火矢での作戦も、拍子抜けするほどうまく行っている。
 その動きの悪さが、逆にディアナの不在を確信させることにもなった。

「あーあ。人魚が目の前で可愛いケツ揺らして誘ってるのによ、突っ込めねえなんてな!」
 操桁索(ブレイス)を懸命に引きながら、ギルバートが品のない愚痴を〝怒鳴った〟。愚痴を〝こぼした〟、という程度では、風をはらむ帆や波の音でかき消されてしまうからだ。
 なのでそれに返すカルロも、自然と怒鳴る羽目になる。

「しょうがねえだろ! あの人魚はなあ、うちの大将の大事なお姫様を小脇にかかえてやがるんだ!」
「んなこたぁ、わかってるよ!」

 ただでさえ操帆作業中なのに、無駄に会話などするから二人とも息切れを起こしている。他の連中は呆れつつも、指摘する労力すら惜しんで黙々と作業に当たっていた。

 本来であれば、無防備な相手に対して先制攻撃を仕掛ける絶好の機会なのだが、ルシアスはこの段階ではまだ砲撃を指示していなかった。
 脆い船尾に砲弾が当たれば、船体を縦に真っすぐ突き抜けることもあるくらいで、乗員の命の保証がないためだ。

 この辺のウーゴの予想は当たっていて、船体に砲弾を当ててはいけないという命令は、実は『天空の蒼(セレスト・ブルー)』の行動をかなり制限していた。小型艇(ディンギー)の展開や、派手な行動でうまくごまかしていただけだ。

「頭領、人魚(シレーナ)号の船内から煙があがってます!」
 舳先の付近で目を凝らしていたリックが、振り向いてルシアスに報告する。
 人魚(シレーナ)号の甲板はすでに硝煙に包まれており、少し見た程度では詳しく判別できない。
 火矢での攻撃は、あくまでも消火作業で人手を割かせるためのものだ。火災を起こせるだけの規模ではないし、そのつもりもルシアスには最初からなかった。

「煙? 火災が発生しているのか?」
「火はまだ見えないっすけど! でもほら、砲窓から変な煙が噴き出してません!? あれって大砲のせいだけじゃねえ気がします!」

 ルシアスはすぐさま遠眼鏡を取り出して人魚(シレーナ)号を凝視した。
 言われてみれば、煙が噴き出ているように見えなくもない。しかし砲弾を放てば白煙が上がるのが普通で、硝煙ということも考えられた。

 硝煙ならば砲撃した後は煙が風に流されて、次の攻撃までには少し薄くなっているものだが、今の煙はどんどんあふれ出てきているようにも見える。

小火(ぼや)……?」

 もしそうなら、火薬庫に引火でもしたら大ごとだ。
 船まるごと容易に吹き飛ぶし、下手に近づけばこちらもとばっちりを食らう。移乗攻撃をするつもりだったルシアスだが、すぐに計画の変更を検討しはじめた。

 だが、あちらの船内にはライラ達がいて、小型艇(ディンギー)から既に乗り込んでいる仲間もいる。

(救出を諦めて、撤退させるか?)

 しかし、状況がわからない状態で撤退という選択をすることに、ルシアスは抵抗があった。
 もちろん、仲間の命も大事だ。でもライラ達も放ってはおけない。

 迷いながら、ルシアスは人魚(シレーナ)号の様子を観察する。
 甲板にはディアナもいなければ、ライラ達の姿もないのが不可解だった。ディアナはもちろん、ライラとバートレットが戦いの気配に呼応しないはずがないのに。

……まさか)
 考えたくもない最悪の状況が、ルシアスの脳裏を掠めた。


 一方、人魚(シレーナ)号の内部もまた、全体の状況を誰ひとりとして掴めていなかった。

 砲列甲板はもちろん、それより下の階でも白い煙がたち込めていた。大部分の水夫が一箇所に集まっていた索巻機周辺では、火事と聞いて皆が恐慌状態に陥った――以前ファビオが言っていた通り、船乗りで泳げない者も珍しくない。脱走防止であえて泳ぎを教えないという船もあるためだ。

 ここで的確な指示を出せる船長や航海長が不在だったのが、混乱を更にひどいものにした。水夫達は仕事を投げ出し、上層甲板に続く階段へ一斉に詰めかけた。外に出たら出たで火矢が飛び交い、あちこち燃えているのを目の当たりにして、更に大騒ぎになる。

 木と布で出来た帆船は火災に弱く、船内は密室に近い上、周りは海で逃げ道がない。火災になれば、生きたまま焼かれて死ぬか、煙に巻かれて死ぬか、溺れて死ぬか、だ。
 それでもなんとか理性を保って消火や応戦に当たる者もいたが、中には絶望に座り込んでしまったり、泣き出したりする者までいた。

 混乱を極める上層甲板の喧騒は、もちろん下層にも届いていた。

『誰か! 誰かいないの!?』
 船首方面の下層にある部屋ではしばらく前から女の声がしていたのだが、どんなに叫んでも上層までは届かない。

 しかし逆に、何かが燃える匂いと砲撃の轟音や揺れはこちらに届いている。僅かな煙もだ。この暗い部屋からは外の様子がわからない分、それは不安を呼び起こすものだった。

『何が起きてるの!? なんで勝手に戦いなんか始めてるのさ!? ねえ、誰か!』
 捕虜のための小さな牢に閉じ込められたディアナは、答えてくれる声がないにも関わらず、ずっと叫んでいた。

 諦めるわけには行かなかった。努力を重ね、頑固な養父からようやく譲り受けた船だ。仲間達と協力して実績を積み上げて、国王陛下からも信頼の言葉を貰うまでになった自慢の船だ。
 あんな、胡散臭い宣教師如きに簡単にくれてやれる代物ではないのだ。

『ちきしょう……っ』
 何も出来ない無念さから、ディアナは格子戸の前にへたり込んだ。

 ジェイク達と別れた後、その場で宣教師から権限の剥奪を言い渡された。クレメンテ神父はぐだぐだと口上を述べていたが、相変わらず言いがかりばかりだったから内容は覚えていない。

 しかしどういうわけか、その言いがかりが通ってしまった。そして、通常は罪が確定するまでは謹慎のはずが、話し合いも何もなく強引に牢に放り込まれた。もうむちゃくちゃだった。

 更に衝撃だったのはそこにいた部下達――部下だった者達が誰一人として、異議を唱えなかったことだ。気の毒そうな目をこちらに向けてくるだけで、男達は神父の言いなりになってディアナの拘束に手を貸した。

 クレメンテ神父がもともと自分に対して好意的ではなかったのは気づいていたが、こんな事態まではディアナも想定しきれなかった。
 まさか、同胞から船を奪って海賊に喧嘩を売る聖職者がいるなどと、誰に予想できただろう? その無謀な計画に、水夫達までもが追随するだなんて。

 砲撃の音と船の揺れ方で、ディアナにはどちらの攻撃かわかっていた。それに対し、『天空の蒼(セレスト・ブルー)』は今のところ撃ち返していない。おそらく、こちらにジェイク達がいるためだ。

 部下達に裏切られただけでなく、惚れた男が自分のせいで苦境に晒されているらしいことも、ディアナを苦しめていた。
 ああ見えて仲間に対しては情の深いルシアスだ。簡単に見捨てたりは出来ないだろうし、だからこそ不利な状況を受け入れざるを得ない。

 クレメンテ神父は、まさかそこに勝機を見出してこの行動を起こしたのだろうか。だとしたら大した度胸だ。
 しかし、『天空の蒼(セレスト・ブルー)』も不利だからといって、そのまま相手の好き勝手を許しはしないだろう。

 ファビオだって、このままではどうなるか……。水夫達とは違い、教会を恐れず宣教師に歯向かってでも常に自分の味方でいてくれた腹心の航海長を思って、ディアナは唇を噛んだ。

『全部……あたしのせいなのか……? あたしが間違っていたから……?』

 部下全員が神父の側についたとは信じたくなかったが、いつまで経っても外からの応答はない。とうとう諦めの涙が溢れてきた、その時だった。

 遠くの方で人の声と何かが倒れるような派手な物音がして、更に慌ただしい足音が響いた。
 明かりが近づいてくる気配がする。足音は、ひとつではなかった。

 ディアナは無意識に身構えた。あの神父なら、このままなし崩しに自分を処刑することだって有り得ると思ったからだ。
 僅かな恐れ、そして緊張と闘争心が複雑に絡み合って身体の内側を満たしていく。

 ディアナは拳で涙を拭い、息を潜めて待った。
 これでも海の女の端くれだ、素直にやられてやる気はない。せめて、一矢報いることができれば――

「ディアナ、どこだ!?」

 しかし聞こえてきたのは、母国語ではなく。
 聞き覚えのある声の公用語だった。