Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

人魚(シレーナ)

17

 使者を返してそれほど経たないうちに、『天空の蒼(セレスト・ブルー)』の船が抜錨を止めるどころか総帆を揚げたのが確認された。
 人魚(シレーナ)号の甲板に緊張が走る。
『帆が張られた……! カリス=アグライア号、動きます!』

 しかし、報告を受けて目視しようと船舷に寄ったのはウーゴだけだ。動ける人間の大半は、高級船員だろうが何だろうが階下の索巻機に取りついて抜錨を行っている。

『くそ、気づかれたか! 思ってたより早えな』
 苦く独り言ちたウーゴは、暗闇の中でゆっくりと動き出した海賊船の姿に不気味さと焦りを感じた。

 どこで勘付かれたのかは知らないが、結局ごまかしが効かなかったらしい。せめて時間稼ぎくらいという願いも叶わなかったようだ。

 やはり、そう簡単にいく相手ではなかった。
 後悔の念は尽きることがない。しかし、今は生きて陸地を再び踏むためにどうするかを考えるのが先決だった。

『どうしたのだ』
 船尾楼の船長室から出てきたのは、クレメンテ神父に付き従っていた修道士フェルミンだ。

 神職にあるとはいえ、他の二人と比べてがっしりした体つきの男は、性格もやや好戦的といってよかった。貴族とはいえ、三男坊というだけで寄付金とともに修道院に放り込まれたという彼は、本当は陸軍の士官になりたかったらしい。修道士としてこの船に来てからも、クレメンテ神父の権力を笠に着てあれやこれやと仕切りたがるので、ファビオとはよく衝突していたものだ。
 もちろん、ウーゴは普段から逆らわないようにしていた。

『こちらの動きに気づかれたようでさ。あっちの船が動きやした』
『何!?』

 フェルミンは船舷から海の向こうを睨んだが、月はもう隠れてしまった。ついさっきまで明るい船長室にいたせいで、暗がりに目が慣れていないために彼に船影はほとんど見えていないはずだった。
 実際にフェルミンは、さっさと視認を切り上げて振り返る。

『我らに盾つこうとは、不遜な賊どもめ。己が無礼を働いた相手が誰であるか、身をもって知らせてやる必要があろう』
『え……。ってぇと?』
 ウーゴはぎくりとして聞き返した。しかし、フェルミンは不敵な笑みすら浮かべて言い放った。
『そうさな、手始めに小型艇(バルコ)のひとつふたつ沈めてしまえ。我が国の恐ろしさを味わわせてやるのだ』

 ウーゴは返す言葉が見当たらず、黙り込んでしまった。

 エスプランドル人は恐れ知らずとよく言われ、自分達もそれを誇りにしているところがあるが、その勇敢さが時折こういった根拠のない自信という形で表れることがあった。

 確かに祖国の陸軍は周辺国から畏怖をもって無敵(インヴェンティーブレ)と呼ばれるが、実際その呼び名に相応しい実力を持っているのは潤沢な予算によって常設された国王軍のみだ。一般の兵士にそんな練度はないが、敵からは区別もつきにくいので、とにかくエスプランドル軍は強いのだという思い込みが国の内外にあった。

 ウーゴ自身もその意識は同じだが、船の中となれば多少現実が見えてくる。この船にそんな精鋭は乗っていないし、それでなくとも態勢が万全とはいえない。夜間の戦闘だって経験がなかった。
 思えばディアナもファビオもその点の危機感はきちんと持っていたので、やはり彼らには指導者としての一定の能力があったのだろう。
 今更になって、ウーゴは現状の危うさに圧倒されつつあった。

『あの……小船を沈める、となるとちぃとばかし難しいかと。何人かは、仕留められるかもわかりませんが』
『何を弱気なことを……貴様、それでもエスプランドルの男か!?』
『そ、そういうわけじゃ……』

 ただでさえ口がうまい方ではないというのに、この状況でどうやって頑なな修道士を説得したものか、ウーゴは混乱する頭の中で必死に考えた。

 抜錨と操船と攻撃は一度にできない。それをするには人数が足りない。もっと言うなら、指揮官の能力も。
 そんな自虐的なことを考えながら、ウーゴは口を開いた。

『先に手を出すなら、殲滅が絶対でさ。けど小船は散らばっていて、一気に片づけるのは無理でしょう。やつらは海賊で、接舷してお宝を奪うのが本職だ。攻撃に人手を集中させりゃ、その間こっちの船は足が止まります』

 これで伝わらないのだとしたら、もうお手上げだ。祈るような気持ちで相手を見ると、フェルミンは少しの間考えてからやや調子を落とした声で言った。
『接舷を許してはならん。お前はどのように考える?』

 思いもよらず意見を聞かれたウーゴは、目を見開いて硬直した。
 その返答によって、この船の、乗員全員の命運が決まるのは明白だった。同時に、地位にばかり目がくらんでこれまで見えてなかったもの──責任というものを、叩きつけられた気がした。

 こうしている間にも、カリス=アグライア号は回頭を始めている。波間に散らばる数隻の小型艇(バルコ)も、不気味な沈黙とともにこちらを監視しているようだ。

 ちょっとばかり欲を出しただけなのに、どうしてこんなことになったんだと、ウーゴは苦い思いを噛み締めた。
 眩暈と吐き気を覚えながら、やがてウーゴが絞り出した答えが次の言葉だった。

『そういうこってしたら、砲撃で威嚇を。幸いうちには人質がいる、やつらも撃沈は狙ってこねぇはずだ。だったらとにかく近づけないようにして、時間を稼ぎやしょう』

 カリス=アグライア号は右舷側から旋回して人魚(シレーナ)号の後方に回り込もうとしている。こちらの足が止まったままなので、そのまま移乗攻撃を仕掛けてくるものと思われた。

 暗い波間に浮かぶ小型艇(バルコ)は両手の指に足りない程度だった。月明かりがない中では、目を凝らして何とか船影を捕らえることができるというところだが、接舷するにはまだ遠すぎる位置にいた。
 先走って孤立するのを恐れ、母船を待っているのだろう。やるなら今だ。

 船長室から出てこないクレメンテ神父に代わって、フェルミンが砲撃開始を指示した時、風を切る音がして何かが甲板に放り込まれた。
 ウーゴが音のした方に振り向くと、放り込まれたのではなく、何本かの矢が帆柱や畳まれたままの帆に刺さっていた。小型艇(バルコ)から放たれたものだ。
 しかもその矢先には、炎がまとわりついていた。

『火矢だ!』

 古代から続くその伝統的な戦法は、人魚(シレーナ)号の甲板を騒然とさせた。
 小型艇(バルコ)はどれも闇にうまく溶け込んでおり、火種に全く気がつかなかった。こちらの砲撃が点火の直前に気づかれたのとは裏腹に、あちらは最初からこの事態になることを計算に入れて、明かりが漏れないように慎重に隠し持っていたのだ。

『うろたえるな! 燃え移る前に消せば何てことねえ!』
 ウーゴが叫ぶのと同時に、頭上で畳まれている帆に火がついた。ぱっと、甲板が明るく照らされる。

 こうなってしまえば、他の無事な帆に燃え広がるより先に切り落とすしかない。勇敢な何人かが、慌てて支索に飛びついて上に登り始めた。

『砲撃だ! これ以上の攻撃を許すな!』
 砲撃手が何とか数発放ち、轟音と共に闇の中に水柱が立つ。
 波に煽られて一瞬矢の攻撃はやんだものの、残念ながら小舟を沈めるまでには至らなかった。波がおさまった途端、すぐに攻撃が再開される。

 大砲と矢では威力に大きな差があるとはいえ、攻撃速度も数も向こうが上。船体の大きいこちらには当てるのも容易だが、向こうは闇の中にまばらに浮かぶ小さな小型艇(バルコ)だ。それに大砲の砲身は重く、方向や角度の調整が機敏には出来ない。漕ぎ手によって動き回れる小型艇(バルコ)に命中させるのは至難の業で、状況は圧倒的にこちらに不利だった。

 これがディアナとファビオだったら、小さい的に当てるという難解な目標を早々に捨てて、出来るだけ威力の高い砲撃で波を作って転覆させるという方法に切り替えただろうに、混乱したウーゴはそれが出来なかった。

 ちらりと視線を投げた先では海賊船が迫ってきており、ウーゴはますます焦った。
 人質がいるから船自体への砲撃はないと言ってはみたものの、確証があったわけではない。海賊が人質を切り捨てるという判断をしてしまえばそれまでだ。

 今、人魚(シレーナ)号は背後を取られる形になっており、舷側に比べて強度の弱い船尾に一発食らえばそれで決着がついてしまう可能性もある。
 緊急手段として錨を捨てるという手もなくはなかったが、帆がいくつか燃えている現状ではむしろ危険だろう。錨も帆もなくなった場合、最悪操船不能に陥るからだ。

海賊(ピラーテ)め……!』
 ウーゴがそう歯噛みした時、今度は縄付きの四つ爪錨が甲板に飛び込んでくる。抜錨と砲撃と火消しに気を取られるあまり、接舷する小型艇(バルコ)の存在に気づくのが遅れたのだ。

 風が多少あったがそれでも辺りは煙に覆われ、視界はさらに失われつつあった。大砲による硝煙の他に、火矢によって支索や帆が燃えたせいもある。

『乗り込ませるな! 絶対だ!』
 誰かが聞いてくれることを願ってウーゴは声を張り上げる。

 しかし、煙の原因は大砲と火矢だけではなかったらしい。階下から、叫び声が聞こえてきた。
『か、火事だぁ! 船内から火が……!』