Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

人魚(シレーナ)

16

 ライラ達は早速上の階層に向かおうとしたが、あっさりと出鼻を挫かれることになった。
 四角くくり抜かれた昇降口には、格子戸が嵌められて施錠までされていたのだ。

「なんだこれは……!」

 マルセロが愕然としつつも、格子戸に掴みかかって力任せに押したり引いたりした。だが、当然その程度ではびくともしない。
「くそっ。鍵までかけるか、普通!」
 苛立ち紛れにマルセロは拳で格子戸を殴りつけた。

 その様子を見ていたバートレットが、複雑な視線をロヘルに向けた。
「俺達については予想しなかったわけじゃないが……でも、あんた達のことは一体どう思ってるんだ、神父様とやらは」
「わ、わかりません。でも……、まさか、こんな……」
 可哀そうなロヘルは動揺のあまり、震えてすらいるようだった。

 まだはっきりと反抗的な意思を示したわけでもないのに、その前にあっさりと自分たちを切り捨てるような真似をされてしまったのだ。ロヘル個人としては同じ神職にある者として、まだ神父を信じたい気持ちも多少残っていたのだろう。まさかそれがこういう形で返ってくるとは、夢にも思わなかったに違いない。

 思いつめたような表情で、ロヘルがぽつりと言った。
「もしかして、先程の話を聞かれていたのでしょうか……」
「ディアナにつく、って? おそらく違うな」
 すっかりしょげてしまったロヘルだが、ジェイクは軽く鼻を鳴らしてあしらった。

「聞いてたならその時点で俺達も縛り首確定だよ。大体閉鎖するにしたって、ここは広すぎる」
「確かに、資材置き場一帯をまるごとというのは、随分思い切ってますよね」
 バートレットがジェイクの言い分に賛同する。

 資材置き場には予備の木材だけでなく、支索や帆布、工具などあらゆる物が置かれている。これから錨をあげる船としては、それらすべてを封じてしまうのは得策ではない。
 思い切ったというよりは、場当たり的な何かを彼らは感じ取っていた。

「しかし先手は先手だ、これでこっちは身動きが取れなくなった。さてどうするか……」
 ジェイクは苦々しくそうこぼしたが、ライラがじっと黙って格子戸を見上げているのに気がついた。

「ライラ。どうした?」
 女剣士は淡い色合いの瞳を眇めて、何やら考えているようだった。

「確かに先手を取られた。……でも詰めが甘い」
「え?」

 最後の方の低い呟きが聞き取れなかったジェイクが聞き返したが、ライラはそれを無視して逆に言った。
「ジェイク、手伝ってほしい。皆も」


天空の蒼(セレスト・ブルー)』が抜錨を開始したことは、すぐさま人魚(シレーナ)号側にも伝わるところとなった。
 船の大きさを考えると、より軽量なカリス=アグライア号の方が錨が小さく作業員の不足もしていないことから、早く抜錨を完了できるだろう。
 不意を突いて先に抜錨を始めたところだけが人魚(シレーナ)号の唯一の優位点だが、それはとても心細いものだった。

『まだ動けないのか!』
 夜の闇が辺りを包む中、神父は船尾楼にある船長室に籠って苛々と怒鳴り散らしていた。

『早くしなくては海賊に追いつかれてしまうぞ!』
『わかっておりますよ。そう焦らずとも、向こうもうちと同じく抜錨作業中でさ。すぐ動けないのはあちらも同じってこってす』

 水夫長から航海長に格上げされたウーゴが、にやにやしながら取り繕うように言う。

『船の性能はこっちが上だ。ちょうど風も出てきたし、先に錨をあげさえすりゃあ、逃げ切るのなんか簡単です』

 地位的には航海長は船長に次いで二位か三位だが、それを名乗れるのは船で一名のみのため、空席が出るまで出世は見込めないはずだった。もちろん水夫長だって立派なものだが、やはり権限や給金に差がある。

 ウーゴは今回降ってわいた幸運に浮かれていた。半分諦めていた地位が転がり込んできたのだ。そして、簡単にこの幸運を手放す気はなかった。そういう意味で、幸運の使者である神父の機嫌は何があっても損ねてはならないものなのだった。
 正直、今の体制で不安がないかと言われればそれは嘘になる。しかしここが正念場、この海域を抜けてあの海賊船さえ振り切れば安泰だ。後のことはどうにでもなるだろう。

 そう内心で気合を入れなおしたウーゴだったが、そんな時ちょうど物見からの報告が届いた。
『カリス=アグライア号より、小型艇(バルコ)が向かっています!』
『なっ!』

 クレメンテ神父は驚いて言葉を失ったが、常に彼の脇に控えるフェルミンという名の修道士は至極冷静だった。
『……まあ、そう来るでしょうな』
『フェルミン! 何を呑気な……っ』

 神父は怒気をあらわにしたが、ウーゴはどちらかといえば修道士フェルミンと一緒の意見だった。
 こちらが勝手な行動をしておいて、あちらから何の反応もないわけがない。それくらいは予見できたからこそ、派遣されてきた医師達を慌てて隠したのだ。

 クレメンテ神父がなぜ突然船を出したがったのか、ウーゴは理由を聞いていなかった。とにかく急いで陸につかなくてはならないらしい。それは目と鼻の先にあるヴェスキアでなくても構わないということだった。

 そして神父は何故か、医師とその助手達を向こうに返すという気はないらしかった。生きたまま腐っていく水夫達を今までは見て見ぬふりをしてきたくせに、ここへきて急に手厚い保護をしようと思い立った、というのはさすがに不自然だろう。

 しかし、ウーゴはそれも聞かなかった。その方がいいと思ったのだ。
 医師達を返せば航海長のファビオが戻ってくる。それはウーゴにとっては都合が悪かった。自分の目的はこの船の航海長の座のみ、下手に詮索してせっかく手に入れたものを台無しにするつもりはなかった。

『私が適当に追い返してきますよ』
 これ以上神父の怒鳴り声が続かないうちに、さっさとそう言ってウーゴは部屋を出た。

 甲板から暗い海になんとはなしに視線を投げると、波に漂う小型艇(バルコ)は一隻ではないことに気がついた。一瞬ぎょっとしたが、よく目を凝らせば殺気立っている様子もない。単なる使者の護衛なのかもしれない、と結論付けた。向こうも警戒しているのだ。

 縄梯子を上ってきた使者は二人で、一人は小麦色の肌をした神経質そうな青年で、もう片方は驚くことにまだ少年だった。
 こんな子供を使者に寄こすなど馬鹿にしていると、ウーゴは不快感を覚えた。しかし、威嚇のつもりはないという意味での人選なのかもしれないとも思いなおす。

『はじめまして。我々はカーセイザー船長より遣わされた者で、こちらはティオ・グラーフ。私は通訳のカルロ・サンタンジェロと申します』

 青年の方が東方訛りの強いエスプランドル語でそう言った。すると、少年の方がふわりと微笑んだ。

 ウーゴはその微笑みを見てなんだかもやもやした。
 祖国の聖職者にはこの手の少年を好んで侍らせる者も多く、苦々しく思いながらも誰も何も言えない空気があった。船乗りにもそういう趣味の連中はいるが、クラウン=ルースもそうなのか。少年の顔立ちを見て、溜まるものが溜まってきたらそれも仕方ない、むしろこのくらい美形が相手ならいい方かもしれないと思った。

 そんなウーゴの内心を余所に、ティオ少年は通訳越しに言った。
『こちらの船の抜錨を確認したので、状況を伺いにまいりました。船長はどちらに?』
『船長は……』

 ディアナ・モレーノはすでに船長職を退いていて、現在は同格の権限を持っていたクレメンテ神父が兼任しているのだが、もちろんここでそれを明かすことはできない。
 ウーゴはなんとか言い訳を紡いだ。

『下で、お医者様の手伝いをしておりやす。ほら、通訳も兼ねて、でさ』
 なかなかいい具合に言い訳できたと思ったのだが、少年と通訳の男が一瞬だけ視線を交わしたのが気になった。焦ったウーゴは話を逸らすことにした。

『抜錨の件ですがね、大したことはねえんですよ』
 少年のそれには到底及ばないが、精いっぱいの愛想笑いを浮かべてウーゴは答えた。
『錨のかかりが悪かったみたいでしてね。投錨のし直しが必要だってことになったんですわ』
『なるほど、そういうことでしたか』

 少年は再び完璧な微笑みを形作って言った。
『ところでその治療ですが、経過をついでに確認してくるよう申し遣っているんです。足りない薬品があるならそれも聞いて来いと。うちの船医にその辺りの話をさせていただきたいのですが』
『あ、いや、それは……』

 ウーゴは、嫌な汗がジワリと背中を湿らせるのを感じた。
 しかし、ここは何とか耐えなくてはいけない。

『か、感染症だとかで! いいって言うまで誰も近づけるなって……そう、きつく、言われて……、まして……』
『そんな本格的な治療をもう始めているのですか?』
 少年は可愛らしい仕草で目を見開いた。邪気のなさそうなその表情に、ウーゴはかえって見透かされているような気がしてどきりとする。

『ええ、どうやらそのようで……!』
『そうでしたか』
 ふむ、と少し考えるような素振りをして、少年はしばらくして顔を上げた。
『わかりました。ではその旨、当艦の船長に伝えさせていただきますね。モレーノ船長によろしくお伝えください』

 律儀なほどきっちりと礼をして、少年は身を翻す。
 二人の使者が無事小舟に移り、それがカリス=アグライア号に向けて動き出すまで、ウーゴは船舷から身を乗り出すようにして見守った。
 彼らの乗った小型艇(バルコ)が二つの船の中間辺りまで行ったところで、ようやく安堵の息がついて出る。

 何とか乗り切った……。

 そう思ったのはウーゴだけで、船に戻ったティオは厳しい表情でそのまま真っすぐ船長室(キャプテンズ・デッキ)に駆け込んだ。
 知らせを受けたルシアスは、不機嫌を顕に舌打ちをした。

 ライラ達の無事は確認できなかったという。それどころかディアナの姿もない。対応した男は嘘を──エスプランドル語が堪能なジェイクに通訳が必要だなどと言っていたとか。

(何が起きている?)
 ルシアスは、知らずのうちに奥歯をきつく噛み締める。
(ライラ……!)

 幸い、こちらの抜錨はもうじき完了する。
 ルシアスは心を決め、甲板へ続く扉を開けた。

展帆(てんぱん)だ! 人魚(シレーナ)号を追う、そよ風ひとつ逃すな!」