Brionglóid
海賊と偽りの姫
人魚 号
13
「は?」
「足はこんなだが、手も頭も使える。先生の助手は馬鹿な俺じゃ無理だろうか? 通訳は必要じゃないか? 料理人でもいい」
「おいおい、待てよ。どういうことだ?」
妙な気迫に困惑してジェイクが訊き返す。マルセロは真剣な表情で彼を見つめている。
様子が変だと思ったのか、別のところで作業していたバートレットも近寄ってくる。彼の助手をしていた、隙っ歯のディエゴも。
マルセロは少しだけ気まずげな表情になったが、思い切ったように続けた。
「貴族でもない俺達に、まともに治療する医者なんて初めて見た。恩返しだと思ってくれりゃいい」
本当にそうだろうか、とライラは疑問を持った。
確かに彼らは、他の者達が嫌がる中で手伝いを買って出てくれた。それはもちろん病気の仲間のためで、助けてくれた医者のジェイクに感謝する気持ちもわからなくはない。
しかしだったら、まず先にこの病人達の受け入れを要請するのではないだろうか。もしくは、今後ジェイクが去った後の適切な看病の方法について教えを乞うとか。
逆に彼は、ライラ達に接触するのが目的でこの手伝いを請け負ったと考えるのが自然なような気がした。
ジェイクは目を眇めてしばらく黙っていたが、やがて一度目を伏せると小さく息を吐いた。
「……本当にそれが理由か?」
「……っ」
マルセロがたじろぐ。
ジェイクもライラと同じ疑問を抱いたらしい。だが彼は、マルセロを自分勝手な卑怯者とそしることはしなかった。
「いや、それも理由の一つかもしれないが。それだけじゃないよな」
じっと相手を見つめ、答えを促すようなジェイクの言葉に、マルセロは黙り込んだ。
ここで横になっている病人たちほどではないにせよ、彼も一応怪我人だ。どちらにしても船仕事が出来なくなって船を降りた者は、陸でも仕事が出来る可能性は少ない。治療したくても陸では金がかかる。動けない間は収入もないのだ。
以前ライラが聞いたところによると、航海中における傷病者の保障は原則として船長が負うことになっているそうだ。だからこそ、稼ぎの少ない船の船長は彼らをいち早く手放そうとするのだが、裕福な部類に入る『天空の蒼』であれば面倒を見てもらえると思ったのだろうか。
しかし、理由は意外なところにあった。
「俺は、脱走奴隷だ」
悔しそうに顔を歪めながら、マルセロは言った。
「売り払われた場所から逃げ出して、何とか船乗りになることができた。けど、怪我のせいで船を降ろされる。そしたら生きていく術がないんだよ」
「……そういうことか」
苦いものを噛みしめるようにライラは呟いた。彼がなりふり構わない理由がこれでわかった。
彼は本当に後がない状態なのだ。
奴隷制度の歴史は古く、その制度を敷いている国も珍しくはない。そのどこの国でも、身分というのは大きな壁となって人々の前に立ちはだかる。
奴隷の子は奴隷でしかなく、上の階級との婚姻も許されていない。代を重ねるうちに彼らも徐々に諦めることに慣れ、その立場を受け入れていく場合も多いが、マルセロは拐われてきたと言っていた。自由を知っている彼はまだ諦めていないのだ。
とはいえ奴隷の脱走などもってのほかで、捕まればどんな目に合わされるか。マルセロのように、ほんの少し前まで一般人として暮らしていた人間が連れ去られてきた場合でも、それは変わらなかった。拐われてくるのは大抵、新大陸の原住民か敵国の領民だからだ。
皮肉なことに、奴隷を法的に庇護するのは彼らを買った主人でもあった。奴隷達は「人」よりも「物」としての側面が強く、所有者の「財産」だった。
しかしそこから逃げ出したマルセロは、保護を一切失った状態というわけだ。
エスプランドルでは特に、異国人であることがばれてしまえば、異端だ邪教徒だと告発される危険性もあった。病人達は最悪でも教会の保護を受けられる可能性があるが、マルセロはそれすらも危うい。
「あんた方の行動に刺激を受けたのは本当だ、それは誤解しないでくれ」
マルセロは言った。
「祖国に戻れるなんてもう思っちゃいない。だがせめて、俺達に唾を吐きかけるような連中より、あんたみたいな医者に使われて死にたいんだ」
「人聞きの悪いこと言うんじゃねえよ、助手を死なせたことなんかねえぞ」
げんなりした様子でジェイクが言い返す。
「お前には同情するがね。あいにく助手は間に合ってる」
「うちの船は欠員も出てませんしね」
バートレットもそう言うが、その眼差しにはマルセロに対する同情の色が僅かながらある。
孤児だったという彼にしても、身寄りがないのはマルセロと一緒だ。万年人材不足と言われる船乗りの世界は、そんな子供でも異国人でも、果ては犯罪者だったとしても受け入れる貴重な場所だった。船に乗りさえすれば船長が身元引受人になってくれる。だからこそマルセロも、船乗りになる道を選んだのだろう。
時には奴隷のような扱いをする船もあるが、航海が終われば他の船に移ることも不可能ではない。仕える相手を選べる点では、陸の奴隷生活よりは多少ましなのかもしれなかった。
ジェイクとバートレットの反応がいまいち良くなかったせいか、マルセロは肩を落としてしまっている。
不憫に思ったライラは、別の視点から提案してみた。
「そのまま身の上を隠して、港で別の国の船を探すのじゃ駄目なのか? このあたりはエスプランドルからも離れてるし」
「正攻法ではある。ただ、斡旋所も玉石混交だからな。悪どい輩に捕まれば有り金すべて巻き上げられるどころか、結局骨までしゃぶり尽くされる」
答えたのはバートレットだ。要するに、コネか金が物をいう世界らしい。もしくは運。
彼はさらに続けた。
「船長に紹介状を書いてもらう手もあるが、エスプランドル船ではおそらく、紹介先もエステーべ教徒の船に限られてしまうだろう」
「子供の頃に拐かされたのなら、母国に伝手もない、か……。ちなみに出身は?」
ライラがマルセロに視線を投げる。
日に焼けていたが、それでも褐色とまでは言えない明るい色の肌。この肌の色でさらに服装にも髪型にも特徴がないとなると、意外とどこの国の人間なのかわからないものだとライラは思った。
『マルセロ』というエスプランドル風の名前もおそらくは偽名だろう。多民族国家のエスプランドルなら、この外見で異国人かどうかを判断するのは難しい。
「メフルダードだ」
「メフルダード……」
マルセロが答えたのはエスプランドルと長い間敵対している国の名だった。
復唱したきり黙り込んだライラの顔を、バートレットが軽く覗き込む。
「どうかしたのか?」
「あ、いや」
はっとして、ライラは弱い笑みを浮かべてみせた。
「過去に行ったことがある。聞けば理不尽な話だし、私で何か助けになれそうなことはなかったかなって」
「そうか。でも船乗りか隊商の知り合いがいるのでもなければ、国外から接触するのは難しいんじゃないか?」
バートレットの至極まともな意見に、ライラは曖昧に頷く。
そんなライラに目をやったジェイクが、苦い顔で釘を刺してきた。
「ライラ。お前また余計なこと考えるんじゃねえぞ。あんときゃ、この坊やが相手だったから通った話なんだ」
「……何の話です?」
自分のことを言われていると勘付いたバートレットが訊く。口をつぐむライラに代わり、ジェイクが説明した。
「このお嬢さんは、この手の理不尽とか割に合わない懲罰とかいうもんが嫌いらしい。それを理由にクラウン=ルースに楯突くくらいにな」
それを聞いたバートレットが、まるで化物にでも遭遇したかのような顔でライラを見る。
何かを言いかけて何度か口をパクパクさせた後、眉間に皺を刻んだ彼がようやく絞り出したのが次の言葉だった。
「お前、馬鹿じゃないのか?」
「……うるさい」
その話題を出された以上は何か言われると覚悟していたものの、やっぱり気まずいライラは短く悪態をつくことしかできない。
呆れを通り越してやや混乱気味のバートレットは、それで終わらずにぶつぶつと呟いている。
「信じられない。頭領に歯向かうなんて……それもそんな理由で? いや、庇われた立場で言うのもなんだが、それにしても……」
「わかってるよ、もう!」
この話題をとにかく打ち切りたくて、ライラは半分自棄になって声を上げた。そんなライラの肩を、「わかってるならいいんだ」とジェイクが軽く叩く。
「くちばし突っ込むにしても、もうちょっと慎重になったほうがいい。今のままだと、生命がいくらあっても足りないからな」
そう言って、ジェイクはマルセロと、その後ろで不安そうにこちらを伺うディエゴを見た。
「元奴隷なのはお前だけなんだよな?」
マルセロは傍らのディエゴにちらりと視線を投げてから頷いた。
「このディエゴと、ここを離れてる奴らは違う」
「ディアナやファビオにその話はしたか?」
「話せるものか。脱走奴隷なんて知られたら、この船にも迷惑がかかる」
即座に言い返したマルセロの言葉に、ライラ達も黙り込む。
彼は怪我のことがなかったとしても、他国籍の船と接触する機会を伺っていたのだろう。国籍の違う船であれば、少なくとも身分の縛りはなくなる。
しかしこのままエスプランドルの船に乗り続ければ、いつか正体が露見してしまう。そうなったら、ディアナはどういう対応をするだろうかと、ライラは思い巡らせた。
(人魚号は国王の船だ。そこの船長である以上、本音はどうであっても脱走奴隷を本国へ突き出さなければならないだろうな)
そうしなければ、罰せられるのはディアナの方だ。あれだけ母国を愛する彼女のことだ、国を裏切るなど到底できないだろうし。
そう考えると、マルセロは随分危険な賭けに手を出したものだ。よりによって国王の私掠船を選ぶなんて。
「あの二人なら病人や怪我人を波止場に放り投げて終わりってことはなさそうだが、『メフルダードの邪教徒』ともなると確かに庇いきれないかもな」
ジェイクが難しい顔つきでそう呟いた時、ロヘルが慌てた様子で戻ってきた。
物静かで足音も抑えて歩く彼にしては珍しく、文字通り駆け込んでくる。
「あの……! セニョーラ・モレーノは、船長は、こちらにはいらっしゃいませんよね?」
「来てないな。何かあったのか?」
「やはり、そうですか……」
ジェイクの返答にロヘルは安心するでもなく、むしろ落胆を呼んだようだった。若い修道士は失意を振り切るように顔を上げると、困惑の残る眼差しで告げた。
「どうやら船長が、どこかの船室に軟禁されてしまったようなのです……!」