Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

人魚(シレーナ)

08

 海賊達の中に佇む蒼灰色の瞳の青年水夫に視線が集まる。
 人魚(シレーナ)号の二人は知る由もないが、それ以外の人間は落水の件を思い出さずにはいられなかっただろう。きつい懲罰から逃れるための言い訳か、はたまた罰を受ける羽目になったことへの仕返しか。海賊達の多くはそう疑った。

 しかし本人はあくまでも大真面目だった。
「俺を同行させてください。彼女に返さなければいけない借りがあるんです」
「まさかとは思うが、意趣返しじゃねえだろうな?」

 ハルが念のためそう確認すると、バートレットはぴくりと少しだけ眉根を寄せたあとは、いつも通りの冷たい表情に戻った。

「違いますよ。不本意ながら、彼女には何度か助けられた。個人的な感情はともかく、受けた恩は返すのが筋ですから」
「なるほどね」

 ハルは口ではそう言いつつも曖昧な表情でライラを見た。
 借りを返すと言っても、ライラに護衛など必要ないことは『天空の蒼(セレスト・ブルー)』の誰もが知っていることだったし、医療助手としてなら手伝う相手はライラではなくジェイクだ。

 バートレットもそのくらいは承知の上だったようで、むっつりと言った。
「ライラは確かに縄も登れないし、泳ぎもできない陸の人間だ。でもその彼女が船に赴くと言うなら、俺が補佐します」
 少し言いにくそうだったのは、縄も登れず泳げもしないライラを、事故とはいえ海に突き落としてしまったのが自分だったからだろう。己の非を正直に認めるというのは、簡単なようでいてそうではない。
 ライラはバートレットの為人を垣間見た気がした。
 他人にも厳しいが、それ以上に自己に対しても厳しいのだ、この青年は。

「確かになあ、小舟が転覆でもした日には、俺だけじゃどうにもできん」
「うちの漕手はそんなヘボくないよ、失礼だね」
 ジェイクの言葉にディアナが軽く食って掛かる。それから当てこするように言った。
「けど、そんな足手まといが助手だっていうんじゃ、お()りの一人二人は必要かもね」

「またそんな意地の悪いことを言う。うちの国は基本的に縄梯子を使うから一本縄を登れないのも普通だし、船乗りで泳げない奴だって珍しくないじゃねえか」
 横からファビオがそう(いさ)めると、ディアナはたちまち真っ赤になった。
「も、もうっ。いちいちうるさいんだよ!」
「はいはい。お前はルースが絡むといつもそうだよな」
 溜め息混じりにぼやいたファビオは、次いでライラに微苦笑を向けた。

「悪ぃな、気を悪くしないでくれ。うちの船長は根はいい奴なんだが、愛しのルースの傍に美人がいたもんだから気が気じゃねえんだ」
「美人……?」
 ライラは目を瞬いた。
 するとファビオは、笑みを深くして彼女に向き直った。
「もちろん君のことだ、セニョリータ。君がとっとと誰かの物になっちまえばディアナの癇癪(かんしゃく)も収まるってなもんだが、他の男に夢中になられちゃ今度は俺が癇癪を起こしちまう。もしその気があるなら、是非俺を選んでほしいな」
「は、はあ……」
 流れるような口説き文句をうまく受け止めきれずに、ライラはその場に立ち尽くしてぽかんとした。

 一方で、不穏な空気──ライラ達ではなく、主に頭領のいる辺りだが──が流れ出したのを察知してか、ジェイクが殊更明るい声を張り上げた。
「とりあえず先陣は俺とライラとバーティだけでいいな。ひと荒れ来る前に出発しようぜ」
 ひと荒れと聞いて、その場にいた非番の航海士などは首を傾げたものだ。今夜は波も高くなく、星が綺麗な穏やかな夜だったから。
 自分の発言が招いた疑念にはおかまいなしに、ジェイクは人魚(シレーナ)号の二人に聞く。
「聖職者ってのは医療知識もそこそこあるはずだが、宣教師は本当に部屋から出てこないのか? 手伝いは多い方が助かるんだがね」

「扉を締め切って毛布かぶってるよ。身の回りの世話をするために信者だか僧見習いだかを二人ほど引き連れてきたけど、そいつらを通してでないと話もできない」
 ディアナが肩を竦めながらそう答えた。
 教会が強い力を持つエスプランドルでは、聖職者に強く出れない部分があるらしい。不満に思っていてもどうこうしようという気はないようだった。

「ジェイク、そのことについてだが」
 やや神妙な面持ちでファビオが口を開いた。
「あんた、どこの宗教を信仰している? 洗礼は受けてるか? セニョリータと、補佐のお前もだ」

「俺は無宗教だよ」
 ジェイクが答えたのを受けて、ライラとバートレットも答える。

「私は、宗教にはあまり詳しくなくて……そういう意味ではジェイクと一緒かもしれない」
「俺はもともと孤児ですよ。生まれた時に母親が洗礼を受けさせたかもしれないが、俺は知りません」

 バートレットの返答に、ファビオは厳しい口調で告げた。
「もし聞かれたら、物心ついた時から孤児で知らんとだけ答えておけ」
「わかりました」

 バートレットは若干面食らった様子で頷いた。ジェイクはそこで何か思い至ったようだ。
「お前の言いたいことはわかったよ、ファビオ。異教徒は死すべし、ってやつだろ」
「そうだ」

「同胞を助けてくれる相手にまでそんなこと言うかねえ?」
 ディアナは首を傾げたが、ファビオは甘いとでも言わんばかりに目を眇めた。

「言うさ、あいつなら。仲間の命を少しでも重要だと思ってくれてれば、今頃俺たちはここに来ることもなかったかもしれない。同胞が目の前で死にかけていることより、異教徒が目の前にいる方が奴にとっては大問題なんだ」

 ディアナも思い当たる節があるのか、複雑な笑みを浮かべた。
「……まあ、そうだね。ちょっと、あたしらとはまた違う過激な考えをお持ちのようだしね」

 ディアナの遠回しな言い方で、『天空の蒼(セレスト・ブルー)』の面々も大体のことを察した。

 エスプランドルでは一神教を熱烈に信仰するあまり、異教徒はすべて悪魔の申し子と見なされる。悪魔を破滅させるのは善行とみなされ、それに伴う苛烈さは聖典が謳う慈悲や謙虚さなどが消し飛ぶ勢いだった。もちろんディアナやファビオのように、国民すべてがそんな過激思考の主ではないのだが、聖職者であれば警戒すべき相手と見ていいだろう。

「お客さんに不快な思いをさせないよう、あたしが目を光らせとくよ。なんだったら、神父様にはそのまま部屋に閉じこもっててもらうわ」
「そうそう、つまらない嫉妬でセニョリータに妙なことするんじゃねえぞ。ルースにしてみりゃ逆効果だからな?」

 ファビオにしっかりと釘を差され、ディアナはまたしても頬を紅潮させた。
「な……っ。わ、わかってるよそんなこと!」
「わかってるならいいさ」

 にやりと笑ったファビオの横で、ジェイクは改めて切り出した。
「留守中についてだが、ここはここで洗浄が必要だ。この二人は病の種をつけてこの船に来た可能性がある。何も手を打たなけりゃ、早晩ここでも赤痢が発生するかもしれない」

 ジェイクの言葉に、周りがざわめく。わかりやすいように彼は病の種という言い方をしたが、例の目に見えない微生物というやつのことだ。
 ジェイクはルシアスに向けて言った。

「もしここで誰かが感染したとしても、発病前には俺も戻ってくるつもりだ。だが想定以上に時間がかかってしまった場合、患者が出たら速やかに隔離すること。吐瀉物と排泄物は直接触らないようにして即廃棄、汚れた部分は即洗浄だ」
「わかった」

「看病に当たる人間は念のため布で鼻と口を覆うこと。掃除の時みたいなやつだ。だからって防げるとは思わんが、多少はマシだろう。それ以外の人間も海水でいいからこまめに手を洗え、いいな」
「アイ、先生(ドクター)

 ルシアスは頷くと、海賊達に向き直った。

「聞いての通りだ。この船の洗浄と、感染者が発生した場合の受け入れ体制を整える。これには総員で当たるからそのつもりで」
 落ち着いた声音の指示とは裏腹に、海賊達から威勢のいい応答があがる。少し気圧された様子のファビオなどは、思わず「すげえな」と呟いた。

 ルシアスはライラに近づくと、腕を引いて人集(ひとだか)りを抜けた。
「ルース?」
 きょとんとしたライラの耳元に、彼は唇を寄せて囁くように言った。

「帰ってきたら話がある。それと」
 突然鼓膜を揺らす低い声に思わず身震いしながら、ライラは何とか平静を保った。
「なん、だ……?」
「万一何かあったら船尾灯を消せ。すぐ助けに行く」

 ライラは彼の顔を見返した。

 今までにないほど近い位置に彼の眼差しがあり、一瞬怯みかけるが、その真剣な光を見て取ってライラも頷いた。
「わかった」
 ルシアスは満足げに微笑むと、ライラの肩を軽く叩いてから、詳しい指示を出すべくその場を離れていった。

 妙に気恥ずかしい気持ちになるのは、彼が過保護だからだろうか。
 ライラはそう考えたが、少し違う気がした。いくら顔見知りとはいえ僚船でもなく、むしろ交戦することもある相手だから、危険が全く無いわけではないだろう。だからこそ自分も、表向きは助手として、実際のところは護衛としてジェイクについていくことにしたのだ。

(じゃあこの、顔の火照りはなんなんだ……?)

 ライラは別のことを考えることで落ち着こうと思った。でないと、こんなところをディアナに見つかってはまた大騒ぎになってしまうだろうから。