Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

人魚(シレーナ)

05

 部屋を出ると、来客用の晩餐のためか、厨房(ギャレー)からいい匂いが漂ってきていた。今日は波もそれほど高くはないし、停船中なので火が使えるのだろう。

 日が傾いて昇降口から差す太陽光がなくなった現在、角灯(ランタン)をつけているとはいえ船内は薄暗い。当直外の者達は、釣床(ハンモック)で毛布を頭から被って眠っている。
 この状況でスタンレイとカルロを探し出すのは……とライラが迷っていると、下の階からハルが上がってきた。

「ライラ、お前こんなところ彷徨(うろつ)いてちゃ駄目だろうが」
 渡りに船とはこのことだ。ライラは彼に頼ることにした。
「わかってる。けど人魚(シレーナ)号が……」

 事情をかいつまんで説明すると、ハルは少し考えてから呟いた。
「なるほど、疫病ね……。そういうことなら確かにうかうかしていられねえな。洗浄作業には何人か割り当てよう」
「スタンレイか、カルロがいないと火酒が出せないんだ。二人がどこにいるか知ってる?」
「カルロは知らねえが、スタンレイだったら、確か外で若手の航海士達に星の読み方を教えてたと思うぜ。まだ上にいるはずだ」
「ありがとう」

 早速昇降階段に向かおうとしたライラの腕を、すかさずハルの大きな手が掴む。
「待ちな。お前を外に出したらまずいらしい。代わりに俺が呼んでくる」
「あ……」
 はた、と我に返ったライラは、ぎこちない動きで身体を元の位置に戻した。

「なかなか不便だな。自分で動けないってのは」
「しょーがねえよ。お前が悪いわけでもねえだろうしな」
 ハルはそう言って笑ってみせる。
 船の中では人を使う立場にあるというのに、ハルはこういう部分で身軽な男だった。いかつい外見が人を遠ざけるどころか、むしろ下の者に慕われている理由がライラにもわかる気がした。

「セニョリータ! よかった、まだここにいたんだな」
 声をかけられて二人が振り向くと、ライラの後を追ってきたファビオが追いついたところだった。

「あんたは確か、人魚(シレーナ)号の」
「航海長のファビオだ」
 ファビオが差し出した手を、ハルはややためらいがちに握った。疫病のことを気にしたのだろう。

「ここで掌砲長(ガンナー)をやってる。ハルだ」
「ああ、いつぞやは痛い目を見せてもらった。二度と海上で会いたくない相手だと思ってたが、こういう形なら悪くない」
 にやりと笑ってから手を離すと、ファビオはライラに向き直った。

「さっきは言い忘れたが、うちの船長は気難しくてね。君みたいな女の子には手に余るから、追いかけてきたんだ」
「あたしが何だって?」

 突然上の方から声がして、三人とも驚いて天井を見上げた。声は、正確には少し離れたところにある昇降口から降ってきたものだった。

「あー、しまった……」
 ファビオが苦い顔つきで呟く。
 ライラが個人的に驚いたのが、声が女のものだったことだ。

人魚(シレーナ)号の新しい船長って……)

 三人が対応を決め兼ねていると、声の主は上からひらりと(しな)やかな動きで下階に飛び降りてきた。
「頭の軽そうなエスプランドル語が聞こえてきたと思ったら、ファビオ! あんたこんなとこで何やってるんだい!?」

 怒りで眉を釣り上げたその女性は、まるで太陽を人の形に落とし込んだような存在だった。

 金褐色の長い髪が、波打ちながら顔の周りを彩っている。肉付きのいい身体は全体的に日焼けしたような小麦色で、大きめの目も口も鼻も彼女の健康的な美しさをうまく構成していた。
 真っ赤な上着は男物に見えたが、彼女の身体に合わせてしつらえた物らしかった。金糸で薔薇の刺繍が身頃にたくさん施してあり、縁を豪奢なレースが飾る。胸元はライラ同様大きく開けられていたが、こちらは敢えてそういう作りにしてあるようだ。零れ落ちそうなほど豊かな胸が作り出す深い谷間を、そこから覗かせていた。
 ライラよりも背が高く肩幅が広いせいで大柄に感じるが、同性のライラから見ても目を引く美女だった。

「ついてくるのは構わないけど、クラウン=ルースと二人きりにしてくれって言ったのはそっちだろ」
 さすがに見慣れた相手であるせいか、ファビオはそんな彼女にもうんざりした様子で文句を言ってのけた。
 しかし当の女船長が更に(まなじり)を吊り上げたのは、そんな彼の態度に対してではない。

「何これ……本当に女がいるじゃない!」

 半分悲鳴のような叫びだった。胡桃色の鋭い眼差しが射るように向けられているおかげで、ライラは叫びの原因が自分であることを悟った。

 女船長はライラを睨みつけながら肉厚の唇をわななかせている。やや大げさとも受け取れる表情だったが、演技でも何でもなく元来こういう人間なのかもしれない。
 騒ぎのお陰で、釣床(ハンモック)で仮眠を取っていた乗組員たちも何事だと起きはじめた。そればかりか、上層甲板にいた者達まで何だ何だと覗きに来る始末だ。
 そこでようやく、ルシアスが階段を降りてやってきた。

「ルース、あんた昔あたしに言ったよね!? ここは海賊船で子供の遊び場じゃない、自分で自分の面倒を見られるようになってから来いって!」
 振り返りざま、再び彼女がルシアスに向かって吠える。
「それなのに、何なのよこの小娘! あんたに相応しい女になるために、今まであたしがどんな思いをしてきたと思ってんのさ!」

 ここまできて、ようやくライラは自分が今回遠ざけられた理由を理解した。
(ルースの女関係が絡むからだったんだな)
 脱力するような思いでライラは溜め息を漏らした。
 そうと知っていたらこんなところを彷徨(うろつ)かずに全力で隠れたものを、時既に遅しだった。

「女の身で海賊の(かしら)になるのがどんなに大変か……! すべてあんたのためだったのに!」
 掴みかかられても、ルシアスは顔色一つ変えずに黙って聞くだけだ。相変わらず、何を考えているのかわからない。

 ライラが想像するに、かつてこの女船長がルシアスに惚れ込み、船までついてこようとしたものの、遠回しに足手纏だと断られたのだろう。しかし彼女はそこで諦めることなく、努力してルシアスと同じく船長の座にまで昇り詰めた。彼女の言葉通り、男社会の船の中で上を目指すのはどんなに大変だったことだろう。それをやり遂げたのだから、なんとも天晴な根性の持ち主ではないか。

 しかし、とライラは心の中で続ける。

 ルシアスの恋人はアリオルのリスティーだとばかり思っていた。戦う力を持たない彼女を、守るために別れの選択をしたのだと。実際、戦闘時に人質にでもされたらただでは済まないだろう。若い女ともなれば、死んだほうがましという扱いを受けるかもしれない。危険は敵だけではない、同じ船内にだって熱を持て余した男達が溢れかえっている。船内の統率を優先して、女人禁制にしている船も多いと以前誰かに聞いたことがあった。
 ライラの場合、乗船の事情が事情だったのと、本人が剣を扱えるという点での特例に過ぎない。一応ルシアスも、船長室への隔離という措置を合わせて取っている。もちろん、これで何かあった場合はもう自分で何とかしろ、という意味にライラは受け取めていた。

(その辺りのことを彼女に説明すべきなんだろうけど)
 どこまで話すべきか。
 自分が戦える事、どの程度戦えるのか、その理由……といろいろ突っ込まれてしまえばライラの生業含めて一通りぶち撒ける事になる。
(難しいな)
 ここは余計なことをせず、ルシアスに任せるのが得策だとライラは考えた。
(そもそもはあいつの問題じゃないか)
 と、ライラは表情の少ないその横顔を睨みつける。

 あの美貌の女船長を無下にし続けたのはルシアスなのだ。リスティーだって、偶々立ち寄った居酒屋で見初めて身請けしている。
 陸では有り得ない不実さだが、船乗りならば当たり前のことなのだろうか。
 彼らの中には港ごとに女房を置いている者もいるというし、寄港する度に娼館へと足を向ける者もいるという。そうやって、長い航海の間の禁欲生活を乗り越えるのだ。
(お前もそうだったってことなのか、ルース)
 ライラは大した表情も浮かべないまま、女船長の罵倒を受け止めているルシアスを見た。

 広い海を渡り歩き、美しい女と見れば次から次へと手を伸ばす。時が来たら何もなかったかのように、再び海へ、次の美女の元へ──。
 船乗りには当たり前なのだとしても、ライラはもやもやしたものが胸の内側に巣食っているのを自覚せざるを得なかった。
 男達にとってその方面の忍耐とは、長い航海の間だけでも辛いだろうし、この上停泊している時もとなれば、拷問に近い要求であることはライラも理解している。しかしどうしても、失望の念が沸き起こってしまうのだ。

(この女船長や、リスティーだけじゃないのかもしれない。次の港にも、きっとルースに泣かされる女がいるんだ)
 他に方法はなかったのか、誰かが涙を流さずに済む方法が。
(聡明なお前ですら、こんなやり方しか思いつかなかったっていうのか?)
 第三者のライラが感じるべき義憤ではないのかもしれない。けれど。
 やるせない思いが、溜め息となってライラの唇から零れ落ちた。