Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

人魚(シレーナ)

04

 ジェイクは苦い顔をして、何度目かの溜め息を吐いた。

「だから、助けるのはお前の国の神様の仕事であって、俺の仕事じゃねえんだって。大体、診てもいない患者を助けるなんて無理だ」
「だったら、一時的にでも船に来てくれればいい」

 なおも食い下がる青年に、船医(サージェン)はあくまでも冷静に告げる。

「そいつはルースが判断することさ。俺の雇い主はあいつだ。それにファビオ、お前だって一存で決められる立場じゃねえだろうが」
「わかってる。だがこれ以上、仲間が死んでいくのを黙って見ていられねえよ……」
「だからこそ、航海長のお前がしっかりしなきゃ駄目だろ?」

 諭されてようやく、ファビオと呼ばれた青年は黙り込んだ。もちろん苦悩が晴れたわけではなく、為す術もないという意味合いでだが。

「とりあえず、お前んとことうちの船長を説得するのが先じゃねえのか? 医者が必要だと思ってんのはお前だけなんだろうから」
 ジェイクの言い分は冷たいようだが、真実なのだろうとライラは思った。
 横でやり取りを見ていて、居た堪れない気持ちになった。ライラ自身が剣以外で死ぬのを望まないように、彼らだって病気なんかで死にたくないはずだ。仲間がそうやって長い苦しみの後に無念の死を遂げるのを、黙って見ているしかないとは。

 今、人魚(シレーナ)号の船長とルシアスが話をしているらしいが、船長の方はまだ事の重要性に気がついていないという。であれば他の人間がルシアスに人魚(シレーナ)号の現状を訴えない限り、人魚(シレーナ)号は病魔の手を逃れることはできないだろう。
 立場上、余計なことをすべきではないとわかっているが、どうにも歯痒かった。

 そこで、ふとライラはあることに気がついた。
 石鹸の代替品を譲ったということは、ジェイクは彼らを助ける気が全くないわけじゃないのかもしれない。

 ライラがジェイクを見るのと、彼が振り向くのはほぼ同時だった。

「さてと。ライラ、すまないがもうひと仕事だ」
 片眼鏡(モノクル)船医(サージェン)は悪戯っぽい笑みを浮かべていた。

「誰かさんが検疫の意味を理解せずにのこのこやって来てくれたおかげで、うちはうちで対応しなきゃならなくなった。手を貸してくれ」
「あ、ああ。もちろん」

 この笑みの意味はなんだろう。(いぶか)しく思いつつも頷くと、ジェイクは腕組をして指示を出した。

「まずはカルロかスタンレイに言って、ありったけの火酒を出させろ。船内全てを洗浄する」
「船内すべて……?」
「船まるごとだからな、呼吸してるだけで二日酔いになっちまうくらいに盛大にやってやろうぜ」

 聞いているだけで具合が悪くなってきそうな話だ。波が高い時の、まだ慣れていない新入り水夫達が甲板のあちこちで青い顔をして蹲っていた光景を思い出し、ライラは思わず顔をしかめた。今度は酒に弱い連中がへたり込むことになるだろう。

「そうだな、そんだけ大量に酒置いときゃ、何本か見失っちまうこともあるかもしれねえなあ。ま、誰も気にしねえだろ」

 はっとしてジェイクを見たのは、ライラだけではなかった。先のことを思って憂鬱そうな顔をしていたファビオも、何かを感じ取って顔を上げた。

 人の悪い船医(サージェン)はにやりと笑って二人を見た。
「そうそう。費用についてなんか言われたら、全部ルースにツケとけって言いな。こんな厄介な客を引き入れたのはあいつなんだからな」
「……後でルースに何か言われないかな?」
 彼の意図を悟って、ライラは懸念していることを呟いた。

 ルシアスが不機嫌になって一番影響を受けるのは、おそらく同室の自分だ。ライラの脳裏にはルシアスの冷笑が思い浮かぶが、ジェイクは気にしていないようだった。
「少なくとも、お前に対してだけはそうそう強く出れないさ、あいつもな」

 一体どこにその根拠があるんだと、ライラは呆れつつも了承した。
「わかった。どっちにしろ、火酒は必要なんだから行ってこよう。他には?」
「壊血病も発生してるって言ってたな。ファビオ、食料も不足してるのか?」

 ジェイクが確認すると、ファビオはすぐに答えた。
「いや。水はさすがに傷んできちゃいるが、乾パンと干し肉の備蓄はまだある」
「なんだそりゃ。もしかして下の奴らにその程度しかやってないのかよ、時化(しけ)てんなあ」
 ジェイクが顔をしかめると、ファビオはファビオで嘆息した。
「ここと違って、うちはそこまで羽振り良くねえんだよ。船の維持費と出資者への配当金、国への上納金を払ったらいくらも残らねえ。出来ることならあやかりたいくらいさ」
「私掠船なんてどこもそんなもんだろ。王様に気に入られてるお前らは、その中でもマシな方だと思うがね」

 ファビオの言葉を軽く突っぱねてから、ジェイクは指先で片眼鏡(モノクル)を押し上げて位置を直した。
「しかし、何だかなあ。国王出資の私掠船なら檸檬(レモン)くらいもらえそうなもんだが」
「海軍には配給されてるかもな。私掠船は所詮海賊崩れだから、そこまで気にかけてもらえるわけじゃねえよ。新大陸か宝の山でも発見しない限りはな」
「エスプランドルなら、檸檬(レモン)なんてタダみたいなもんだろう。次から自主的に入れろよ」
「果物増やすぐらいなら毎回きちんと給料よこせって、暴動が起きそうだぜ」

 ファビオは自虐的な笑みを浮かべた。それだけ懐具合が厳しく、乗組員に無理を強いているのかもしれない。
 二人の会話が気になって、ライラは口を開いた。
「壊血病には檸檬(レモン)がいいのか? この船だとあまり出されていないようだけど」
 しかし今のところ、『天空の蒼(セレスト・ブルー)』に壊血病患者は出ていない。

 ジェイクはライラに向き直って言った。
檸檬(レモン)だけじゃなく、ライムや玉菜(キャベツ)でも防げるらしくて取り入れてる国は多い。麦汁でもいいって聞いたことがあるが、麦だったらパンやエールでいいはずだし、その辺はまだわからん」
「なるほど……。確かに玉菜(キャベツ)は塩漬けやら酢漬けやらでよく出てたな」

 ライラは食材の豊富な食卓を思い出す。
 考えてみればどこの国でも、平時に中流階級以上で壊血病にかかる者はほとんどいない。壊血病は他の疫病のように感染という形をとらないが、そういう特徴があった。
 陸で多く患者が出るとしたら飢饉に見舞われた時の低所得者層だが、本当に食料がない場合は症状が出るより先に餓死してしまう。
(船上でもきっと同じだ)
 おそらく、食べるものが極端に少なく偏った場合に発症するのだろう。ジェイクが食べ物に注目したのも納得の行く話だった。
(原因はわからなくても、治療の鍵はその辺りにある)
 それも、瀉血なんかよりもずっと確かな方法が。
 ライラは顔を上げた。

「ルース達は物資の提供についても話してるんだったな。その中に玉菜(キャベツ)を含められないかどうか、スタンレイに交渉してみよう」
「ああ。お前の進言とありゃ、スタンレイもルースに言い訳しやすいだろうよ。頼むぜ」
 ジェイクに頷き返し、ライラは部屋を後にした。


「あの娘は、クラウン=ルースのお気に入りなのか?」

 扉が閉まるのを待って、ファビオが聞いた。
 先程の会話の中で、ライラはルシアスに対して(へりくだ)る様子もなく、単なる下働きの立場ではないと感じたのだろう。

「ま、そうなるね。それが?」
 ジェイクの言葉を受けて、何か彼なりに思い至ったらしい。ファビオは少し落胆したような表情になった。
「綺麗な娘だ。海の女にしては、すれたところもねえし。頭の弱い感じもしない」
「あいつは海賊でも娼婦でもねえよ。だから変な気起こすなよ、ファビオ」

 釘を刺されて、ファビオは肩を竦めた。
「この船の大事なお姫さまってわけか。……まあ、そうだろうなあ。普通あんだけの上玉が乗ってたら、一手お相手願う野郎どもが列を作ってまともに船が動かなくなる。『御触り厳禁』は正解だと思うね」

 少し認識がずれていたが、ジェイクは指摘しなかった。この船でライラに対する手出し無用が、暗黙の了解として周知されているのは事実なのだ。頭領の怒りを買って仕事を失うばかりか、彼女本人に返り討ちにされて皆の笑いものにされる危険を敢えて冒すような者は、とりあえずこの船にはいない。

「しかしそうなると……うちの船長と鉢合わせするのはよくねえかもな」
 ファビオが呟くのを聞いて、ジェイクも少し思案気に答えた。
「だからまずスタンレイのとこに行かせたんだが……」

「うまいことかち合わずに済めば何てことないんだけどな。あの人はクラウン=ルースに対しては妙な執着がある。そのルースが若い娘を大事にしてると聞いて、さてどうなるか」
「ちっ。俺が行きゃよかったな」

 後悔の色を滲ませる船医(サージェン)に、ファビオは苦笑した。
「俺が行くよ。うちの船長のことだしな。綺麗な女の子が嫌な目に合わされるのは、個人的にも見捨てちゃおけねえ」
「ファビオ」

 踵を返してライラの跡を追おうとしたファビオの背に、ジェイクの声が飛んだ。
 ファビオが振り返ると、腕利きの船医(サージェン)は珍しく真顔で立っていた。

「何度も言うが、他の女はともかくあいつには手を出すなよ」
「……わかったよ、先生。俺だってクラウン=ルースを無駄に怒らせるような真似はごめんだ」

 気圧されたらしいファビオは、そそくさと部屋を出ていく。
 一人残されたジェイクの口からは、苦い溜め息が漏れた。

「馬ぁ鹿。俺だってただじゃおかねえよ……」