Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

人魚(シレーナ)

03

「……書き出すのはこれだけ?」
 ライラはさり気なく話題を逸らした。
「ああ、助かったよ。それじゃあ次は……」

 ジェイクが今度は低い位置にある棚の本に手を伸ばした時、部屋の外で荒々しい足音が響いた。そして次の瞬間、いきなり部屋の扉が派手に開けられる。
 ライラは反射的に腰の剣に手を伸ばしながら、立ち上がって振り向いた。

おい(エイ)やぶ医者(メディカストロ)!!」

 視線の先には、悪魔のような形相でこちらを睨む背の高い青年が立っていた。見たことのない顔──『天空の蒼(セレスト・ブルー)』の乗組員ではなかった。
 では、これが人魚(シレーナ)号の新しい船長なのだろうか。少なくとも、この尊大な態度は一介の水夫ではなさそうだ。

 その青年は、ルシアス程ではないにしても肌の色は浅黒く、はっきりした目鼻立ちに短い顎髭という、野性的な風貌の主だった。しかし、晴れ渡った空のような青い瞳は長いまつげで覆われ、目尻が少し下がっているところは優しげに見えなくもない。年齢はハル達と同じ三十代の前半と思われた。

 意外にも青年は武器を手にしていないようだったので、ライラもとりあえず戦闘態勢を解くことにする。
 視線だけでジェイクの方を伺うと、ミアが大きな音に驚いて逃げてしまったからか、彼は不機嫌そうに言った。

「随分騒がしいご登場だ。せめて公用語で喋っちゃくれないか?」
 すると青年はこれ見よがしに舌打ちをした。
「あんたは俺の国の言葉も話せるじゃねえか、先生」
「そこまで堪能じゃないんでね、込み入った要件なら公用語で頼む」

 ジェイクが(うそぶ)くと青年は眉間の皺を深くしたが、ふとそこで脇にいるライラに気がついたらしい。しかし訝しげな様子だったのは一瞬で、すぐさま驚いたような顔になったので、ライラはぎくりとした。こちらは記憶に無いが、向こうが自分の顔を知っている可能性はあった。
 ライラが対応を決めかねていると、青年が先に口を開いた。

「見ない顔だな。しかも……女だと?」
「俺の助手だよ」
 すかさずジェイクが口を出す。ライラが直接受け答えをしてボロを出すのを避けるためだろう。しかし青年は、ライラから視線を外そうとしない。

「最近の医療助手ってのは、腰に立派な剣をぶら下げてるものなのか?」
「護身用だ。お前みたいな奴が乗り込んできた時のためにな」

 ジェイクの咄嗟の機転にライラは乗ることにした。今だけのことなら、ジェイクの助手ということで誤魔化し通すのは名案だと思えた。
 青年は、まじまじとライラを見つめてきた。敵意でもなく好奇心でもなく、なんだかよくわからない視線にライラは戸惑った。

「海賊には見えないな。それに……不思議な瞳の色をしている。お前、奴隷の血筋か?」
「……ええ」
 変に否定して詳しく聞かれるのも厄介だし、架空の医療助手を装ってライラはそう答えたのだが、青年は何を思ったのか人の悪そうな顔をした。

「おいおい、先生。こいつは単なる助手にしちゃ見た目が良すぎる。まさか、他人に言えない個人的な目的のために、こんな若い女を買ったんじゃないだろうな?」
「違ぇよ。このお嬢ちゃんは読み書きが得意だから重宝してるんだ。邪推する暇があったらさっさと要件言いな」

 あからさまに面倒くさそうにジェイクは言った。すると青年は一旦押し黙り、ライラを気にしながらも懐に手を入れてあるものを取り出した。

「以前貰い受けた石鹸が紛い物だった。どうしてくれる」
 青年の手にあるのは粉の入った硝子(ガラス)瓶だった。コルクで栓がしてある。
「航海中に使おうとしたら、全く役に立たなかったぞ」

 ライラはその瓶を凝視してしまった。粉末状の石鹸など初めて聞いた。

 石鹸というのは普通固形で、テルリッシュの一地方でしか生産していない高級品だ。うまく固形にするのにもコツが必要で、手間と時間がかかる代物だと聞いたことがある。ただ、本物の石鹸が高価すぎるため、一般的には洗濯も洗い物も灰の上澄み液を使う。

 ジェイクは素っ気なく言った。
「航海中ね。お前、俺の話を聞いてなかったな? これは海水じゃ泡立たねえよ。本物の石鹸と同じで真水じゃないと無理だ」
「なんだと!?」
「それでも全く役に立たないってことはないと思うが」

 淡々と告げるジェイクの言葉に、ライラは興味を惹かれた。
「この粉が石鹸って、本当に?」
「いや、さすがに代替品だよ。通称石鹸の木(ソープナッツ)って言ってな、東南の国に生えてる植物さ。その実を乾燥させてすり潰して使う。本物の石鹸に比べりゃひどい匂いだが、灰の上澄みで洗うのと大差ないし、何より安価だ」

 生徒に教える教師のように、ジェイクはライラに説明した。些細な事でもすぐ疑問を投げつけるのはライラの悪癖なのかもしれないが、今のところ彼は何でも快く教えてくれている。
「石鹸やこの粉は、火酒と同じ効果を持つのか?」
「検証したわけじゃないが、近い効果を持っているとは思ってるよ」

 ジェイクとライラの会話から何を感じ取ったのか、青年は今度は苦悩するような表情を浮かべた。
「なぜ、この船と違って俺達の船では病がなくならないんだ? ジェイク、あんた本当に魔法使いじゃないのか」
「……病が流行ってるのかい」

 ジェイクが片眉を上げて訊ねると、青年は溜め息とともに頷いた。
「この航海で壊血病と腹痛で八人死んだよ。赤痢の疑いがあると、ヴェスキアでも検疫で止められて入港できなかったうえ、病を怖がって人が集まらず、新しい乗組員をほとんど補充できなかった」
「赤痢、だと……!?」

 突然、ジェイクがものすごい形相で声を荒げた。
「馬鹿野郎、その状態で呑気にこの船に来たってのか!? 検疫の意味わかってんのかよ!」
「赤痢と決まったわけじゃないし、患者は隔離している! それに船倉には近づかないようにしているから、俺は大丈夫なはずだ。実際、発生してからひと月経ってるが、この通りなんともない」

 弁明する青年の表情は強張っていた。
 その様子から、ライラはなんとなく人魚(シレーナ)号の置かれている状況を悟った。赤痢は必ず死に至るわけではないが、あっという間に広まる厄介なものでもあった。症状が重い場合は立って歩くこともままならないほどで、苦しい症状の末に体力を失えばもちろん死んでしまう。

 ジェイクが以前疫病を警戒していると言っていたのを思い出す。船内に広まったら最後、全滅もありうると。人魚(シレーナ)号はまさに、その道を辿っている最中ではないのか……?

 背中を冷たいものが駆け上がっていく。
 すると、不意に片眼鏡(モノクル)船医(サージェン)の手が伸びてきて、ライラの肩を軽く叩いた。
 振り向くと、もう落ち着きを取り戻したらしいジェイクの視線とぶつかった。

「心配すんな。厄介なのは確かだが航海で赤痢は珍しくないし、この船ではそれもしばらく起きてなかった。大丈夫、お前を死なせたりはしねえよ」
 その一言にほっとしたのは、ライラだけではなかったらしい。青年もまた、一筋の光明を見出したかのような眼差しでジェイクを見つめた。

「ジェイク、あんたが来てからこの船は病死者が減ったと聞く。頼む、俺達の船も助けてくれ」
「俺は聖職者じゃねえよ。悩める子羊全てに手を差し伸べるほど暇でもねえ。やぶ医者だからな、仲間の面倒見るので精一杯さ。そもそも、お前んとこの船医(サージェン)はどうした?」

 きっぱりとした口調のジェイクを相手に、青年はまたしても言い淀む。それから忌々しいことを思い出したように、今までで最も苦い顔つきになり、吐き捨てるように告げた。
「医者は八人のうちの四番目だよ。宣教師は生きてるが、不幸な仲間に神の慈悲を願うどころか、怯えて部屋から出てきやがらねえ」
(クソ)以下だな」
 ジェイクが肩を竦める。

「ま、状況はわかった。なるほどねえ……。おかしいと思ったぜ、船長だけでなく航海長のお前が揃って船を空けるなんてよっぽどだ」
「無理やりついてきたんだよ。船長はまだ自分達で何とかなると思ってて、足りない人手と当面の物資だけを借り受けるつもりらしい。でもそれだけじゃ駄目だ」

 青年は、じっとジェイクを見据えて訴えた。
「なあ、やぶ医者ってのは言葉の綾だ。本気で言ったわけじゃねえ。あんたがヴェーナの魔導師みたいに、この船を病から守ってるのは知ってるんだ。俺はその腕を信じる。だから頼む、教えてほしい。どうやれば病人を助けられるんだ!?」