Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

人魚(シレーナ)

02

 名目上は体調不良ということになっているので、自分の釣床(ハンモック)で横になっていたのだが、いつの間にか本当に寝入ってしまったらしい。

「ライラさん、起きてますか?」
 扉の外から自分を呼ぶ声に覚醒を促され、ライラの意識は現実世界へ引き戻された。
「お休みのところすみません、入ってもいいですか」

 声の主はティオだ。ライラは慌てて釣床(ハンモック)を降りた。
 室内は薄暗くなっていた。夢現の中で聞いた時鐘は何回だったろう? 衝立の向こうがぼんやり茜色に染まっているのからすると、それほど時間が経ったわけではなさそうだ。

 手早く寝乱れた衣服を整え、返事をするとすかさず扉が開いた。同時に、喧騒も飛び込んでくる。いつもより少し騒がしい気がした。
 ティオは申し訳無さそうな顔をしつつも、すぐに要件を切り出した。

「これから来客がありそうなんです。船長室(キャプテンズ・デッキ)を整える必要があるので、すみませんが下に移ってもらえませんか? 俺の釣床(ハンモック)でよければそこに」
 やや早口なところを見ると、彼は急いでいるようだ。

「来客って、あの私掠船か? 戦闘にならずに済んだんだな」
「ええ、一応……。もう夕方ですしね。ですが、どうもこちらに救援を求めてるらしくって」
「救援?」
「そういう旗が上がっただけなので、はっきりしたことはまだ。今、あちらの方が小型艇(ディンギー)でこっちに向かっているところです」

 旗、というのは船舶間での通信に使われる信号旗のことだ。予め文字や意味を決めた旗を数種類用意しておき、組み合わせて掲揚することで海上での意思伝達に用いる。しかし統一された規格などはまだなく、語彙もそれほど用意されていないため、伝えられる内容には限界があった。
 ただ、陸が近いのにも関わらず援助が必要というのが不可解だと、ティオは言った。こちらの船に近づいてきたのだから、操船不能というわけでもなさそうだという。

「とりあえず、ここの片付けは俺がやりますから、ライラさんは先に下へ行って休んでてください。お一人で歩けます?」
 説明しながら、その間もティオはテキパキと動いている。

 来客の手前、船長室(キャプテンズ・デッキ)に間借り人がいるのを伏せたいのだろう。ティオがライラの釣床(ハンモック)を降ろしているのを見て、ライラも仕切りとして使っていた帆布を外しにかかった。
「休ませてもらったおかげでもう回復したよ。他に私が手伝えることは?」
「そうでしたか。ええとそれじゃ……、この帆布と釣床(ハンモック)を一緒に下に持って行ってくれますか? それと念のためなんですが、寝ている必要がなくても、来客が滞在している間は隠れててください」

 ティオは手早く畳んだ布類をライラに手渡すと、まず自分が扉を少しだけ開けて外の様子を伺った。
「まだ来てないよな……。俺、ライラさんが寝込んでたなんて今さっき知ったんで、こんな風に慌ただしくてすみません。もう近くまで来てると思うから、急いでください」
「わかった」

 扉を開けたティオに促され、ライラは荷物を抱えて小走りで昇降口へと向かった。例の船が先程よりだいぶ近い位置にあるのを横目で見ながら、階段は使わず直接下層に飛び降りる。

(そんなに危険な相手なのか……?)

 ティオの慌てぶりには少し違和感を覚えた。モレーノ一家という海賊について、改めて記憶を漁りながら抱えた帆布を置く場所を探していると、誰かの釣床(ハンモック)を占領して丸くなっていた毛むくじゃらの小さな乗組員を見つけた。
 猫水夫の方も、気だるげな様子でこちらを見つめていた。さっきライラが飛び降りた音で起こしてしまったらしい。

「ごめん、ミア。そこで寝てたんだな」
 そう声をかけると、ミアはゆったりとした動作で起き上がり、釣床(ハンモック)の中で一度伸びをした後に軽い身のこなしで床へと降り立った。尻尾をピンと立てて、向かう先はどうやら医務室(シック・ベイ)のようだ。
 客とやらが帰るまで、ジェイクの所にいるのもいいかもしれない。ライラはミアについていくことにした。


 船医(サージェン)医務室(シック・ベイ)で分厚い本を読んでいた。ジェイクは、ミアについてきたライラを見てもさして驚きもしなかった。

「ミアに連れてこられたのかい? 上は厄介なお客さんが来るみたいだからな」
「ミアとはさっきそこで会ったんだ。客って、そんなに気性の荒い相手なのか? 確か、年配の男が率いる組織だったと思うけど」

 ライラが尋ねると、ジェイクは本を閉じて向き直った。
「そいつは前の船長だ。今は代変わりして若いのが率いてるよ。気性が荒いというか……、情熱的っていったらいいのかね。エスプランドルのお国柄のまんまの連中だよ。俺は嫌いじゃない」

 ライラは肩を竦めた。
「私は隠れてろと言われた」
「その方がいいな。ややこしいことになるのは目に見えてる」

 笑ってそう言いながら、ジェイクは足元にじゃれつく猫を抱き上げる。
 ライラはぎこちなく切り出した。
「申し訳ないが、居場所がないんだ。来客が帰るまでここにいてもいいかな? 仕事の邪魔はしないから」
「もちろん。患者と美人はいつだって受け入れ可能さ」

 ジェイクに快諾されて、ライラはほっとした。抱えていた荷物を脇において、勧められた椅子に腰を下ろす。
 診察中の医者と患者のような位置で向き合うと、ジェイクがふと思い出したように言った。
「そういやお前、さっきまで寝込んでたと聞いたが、大丈夫なのか?」

 顔を覗き込んでくる医者にまさか仮病だったとは言えず、ライラは適当に答えた。
「ああ、疲れただけだと思う。寝込んだというほどじゃないんだけど、なんだか皆には心配をかけたみたいで申し訳ないな」
「そうかい。確かに顔色も悪くないな。でも、どこか具合が悪かったらすぐに言えよ」

 太ももの上で器用に丸くなった猫を撫でながら、ジェイクは言った。
 普段は掴みどころの無さが勝つものの、時折見られる彼のこういうところはライラも毎度舌を巻く。軽妙な言動もそうだが、整い過ぎている容貌と合わせると、医者としては胡散臭い印象になりがちだ。しかし彼の場合見るべきものはしっかり見ていて、押し付けがましくもなかった。
 ジェイクに対して苦手だと思うことはあったが、仕事に忠実な人間は好きだ。ライラは素直に尊敬の念を抱いた。

「ありがとう、本当に大丈夫なんだ。立場が許せば上で手伝いに回りたいくらいにね。ティオが代わってくれてるようだけど、本来の小間使いは私だからな」
「真面目だねえ。ま、今回は仕方ねえよ。別の機会に尽くしてやんな」

 そう言うと、ジェイクはふと思いついたように続けた。
「今暇なんだったら、俺の方を手伝う気はあるかい?」
「え? 構わないけど……
「そうか、助かる。この船はガキのうちから働かせるから水夫としちゃ優秀だが、文字読める奴が少なくてね」

 棚に手を伸ばそうとして、足の上のミアのせいで立ち上がれなかったジェイクが一旦ミアを降ろそうとする。すると、気持よく微睡(まどろ)んでいた猫水夫が怒ってジェイクの手に軽く噛みついた。
「いててっ。この馬鹿猫、俺の大事な商売道具に何しやがる」
「よっぽどそこが気に入ってるんだな。私が代わりに取るよ、どれだ?」

 笑みを誘われつつライラが申し出ると、船医(サージェン)は決まり悪そうにしながら言った。
「あー、悪いな。そこの赤い背表紙の本を取ってくれ。紙縒(こよ)りがいくつか挟まってるだろう、その(ページ)に引用されている文献の名前があるから、そいつをすべて書き出してほしい」

 次の港で、書店に寄って購入する予定なのだとジェイクは言った。
 紙とペンを借りたライラは言われた通り、(ページ)を繰りながら本の題名を書き連ねていった。その本自体は文字がぎっしりと詰まっており、所々に人体の解剖図などの挿絵が載っている。ライラが歳相応の普通の女性であったなら、最初の図で卒倒していただろうというような絵だ。

 ジェイクの方はミアを片手で撫でながら、普段自分で記入しているらしい消耗品の在庫管理表のようなものを眺めていたが、ふとライラの方を見て呟いた。
「ふうん、随分綺麗な字を書くもんだ」
「そうかな」
「ああ、どこの令嬢かと思ったね。手習いの先生になれるんじゃないか? いや、むしろ俺の助手に欲しいな。そんな綺麗な筆記が出来て、この手の図柄を見てもひっくり返らないなんて、貴重な人材だ」

 ジェイクはそう褒めてくれたが、ライラは弱い微笑みを浮かべた。字はともかく、人間の『中身』は職業柄から目にする機会が多いので、挿絵程度でうろたえるわけがない。