Brionglóid
海賊と偽りの姫
『天空の蒼 』の海賊たち
10
ライラは主計長のカルロと共に食料庫に来ていた。掃除用にジェイクが買ったという火酒を分けてもらうためだ。
主計長というのは要するに事務方の長で、金庫や消耗品、配給についての管理責任者である。軍艦の規模でもなければ他が兼任したりして、必須の役職ではないのだが、この船ではなくてはならない重要な役として設置されている。
カルロはその肩書きに相応しく、神経質と言っていいほど細かい男だった。濃い色の髪は香油で撫で付けられ、口髭もきちんと整えられていて、見た目からしてその性格が窺えるようだった。
ただ、身につけるものの色や形についての感性も優れていて、その細かい拘りの数々が粋に見える男でもあった。
カルロは用を済ませて食料庫を出ると、さっさと扉の鍵を締めた。
船の食料庫というのは時に宝物庫並の存在になる。風が吹かず長期間立ち往生したり、嵐に巻き込まれて妙な場所に流されたりした場合、近くに陸がなければ当初の食料が足りなくなりやがて飢餓状態に陥る。そんなとき、乗組員達は船倉を走り回る鼠を捕まえて、金貨で売買するくらいなのだとか。
この船は、無風状態になったとしてもできる限り配給を続けられるように、主計長をカルロに任せているわけだ。
船長が権力を乱用して配給分を誤魔化すことも珍しい話ではなく、その場合割を食うのは下の人間である。ここでは前もって監督役を置くことで、船長の権力に制限をかけているのだった。
カルロは、柄杓ひとつ分の火酒をきっちり計って入れた携帯水筒をライラに渡した。ライラが別れ際にジェイクから借り受けた、純銀製の立派なものである。
強い酒の殆どがそうであるように、火酒も空気に触れると勝手に減っていくという。それではせっかくの火酒が無駄になってしまうし、しっかりした入れ物がいいだろうという話だった。
実際カルロも、そんなようなことをライラに言った。
「蓋はその都度閉めろよ。でないと大酒飲みの天使が遠慮なく飲んじまう。それと、火酒は燃えるから気をつけろ」
ライラは首を傾げる。
「燃える?」
「そうだよ、だから角灯の近くでは使うな。ああ、間違っても試そうなんて思うなよ。小火なんか起こして頭領に生きたまま皮を剥がれたくなきゃな」
そう言うと、カルロは行ってしまった。これから会議室で高級船員を集めた臨時の話し合いがあるらしい。
もちろんルシアスもその場に参加するわけだが、ライラはその間に船長室の掃除をしてしまうつもりでいた。
火酒を手に露天甲板へ上がると、間の悪いことに昇降口のすぐ近くにバートレットが立っていた。
案の定、ライラが持っている銀製の水筒を見つけて、彼は眦を吊り上げる。
「それをどこへ持って行く気だ」
最初からこうも喧嘩腰で来られては、こちらとしても友好的に相手を受け止めようという気すら起きやしない。ライラは気づかれないように小さく溜め息をついた。
レオン達はいないし、ハル達も会議に参加している。この場の回避は難しいと判断して、ライラは仕方なく口を開くことにした。
「船長室だ、なにか問題でも?」
「問題なんて山ほどある。頭領は下で会議中のはずだ」
「その間に掃除をしようと思っただけだ。これで磨くようにという指示だ。疑うなら、ジェイクに確認を取ればいい」
「水の代わりにそれを使えという指示は俺も聞いている。だが、お前は信用ならないからな。どうせ隠れて飲む気だろう」
「こんな強い酒飲めるかっ!」
思わず言い返してから、ライラは我に返った。どうせ言い返してもまともに取り合ってくれる相手ではない。言うだけ無駄だ。
「もう勝手にしろ」
「あまり調子に乗るなよ、よそ者」
無視して通り抜けようと思ったら、彼はすれ違いざまに、例の突き刺すような視線を投げつけてくる。
「珍しく船に女がいるから、皆お前をちやほやしているだけだ。図に乗って頭領にまとわりつくんじゃない」
どうやらバートレットは、ルシアスの近辺にライラの姿があることについて、不満があるようだった。
ライラは怒鳴り返したい気持ちを何とか抑えた。
(私だってそこまで馬鹿じゃない。ちやほやされたいならもっと可愛げのある行動を取るし、ルースの傍にいたいならここまで神経を使わなくて済むんだ)
身に覚えがないどころか、見当違いの思い込みで詰られるのは納得がいかなかった。
だが、ここは『天空の蒼』の船の上で自分は確かによそ者だ。厄介事は極力起こさないようにしなくてはいけない。
気を静めるために一拍置いてから、ライラは彼を見返した。
「言う相手を間違ってないか? 何か仕事が欲しいと頼んだのは事実だけど、その内容についてはルース本人の提案を受け入れてこうなったんだ」
しかし、ルシアスの名前を聞いた途端、バートレットの視線が更に鋭くなった。
「頭領が? ……お前は何者だ、ライラ・マクニール・レイカード。どうして頭領に取り入ろうとする?」
「何者って……別に狙いなんかない。取り入ってもいない」
「とぼけるな。あのヴェーナの男とて、お前に何か訳があるといういい証拠じゃないか」
「ヴェーナ!?」
驚いて、思わずライラは聞き返してしまった。ライラは直接ロイに会ったわけではないので、彼が魔法都市の紋章をつけていることを本当に知らなかったのだ。
そんなライラの反応を見て、さすがにバートレットも不可解そうな顔をした。逆に、ライラはそれで気がついた。
「私を追ってきたのは、ヴェーナの人間だったのか?」
バートレットは答えなかった。答えるつもりがないだけなのか、答えられないのかまではわからなかった。
ライラにしてみれば、アリオルにヴェーナの人間がいたことすら初耳だ。自分を追ってくるだろうと予測していたのは、あくまでも例の酒場関連の者達だった。
見るからに堅気ではなさそうなあの男達と、世界の秩序がどうのこうのと説いている魔法都市ヴェーナが、手を組んでいたとでもいうのだろうか。
(いや、そこまでヴェーナの権威は落ちていないはずだ)
ライラは自身で即座にそう否定する。
しかしだとしたら何故、追手がヴェーナの人間にすり替わったのだろう。それに、自分に一体何の用だというのだ。
「……ただの破落戸なんて嘘じゃないか。ルースの奴、どういうつもりだ?」
「何度も馴れ馴れしく頭領を呼び捨てにするな、無礼な女め」
ちょっとした呟きにすらバートレットは文句をつけてくる。ライラはうんざりして、わざとらしく溜め息をついた。
「おたくのカーセイザー船長のおかげでこっちも混乱してるんだ。少し黙っていてくれないか?」
「仕事を与えられて正式な乗組員となったなら、規則に従うのは当然だ。船長に対する不敬は厳罰だぞ」
バートレットのこの一言に、さすがのライラもカチンときた。
考えをまとめることも許してもらえないのか。こっちはそれどころじゃないのに。
「仕事をしようと思えばよそ者と言って牽制したり、かと思えば乗組員なんだから規則に従えと言ってみたり。都合よく言い分を変えて、結局自分の思いどおりにしたいだけじゃないか! この卑怯者!」
「この……っ。言わせておけば……っ!」
女性に真正面から反抗をされたことがなかったのか、バートレットが瞬時にカッとなるのがライラにもわかった。
こういう自尊心の高い相手にはよくない対応だった──ライラの脳裏で後悔の念が拡がる。
バートレットは拳を振り上げたが、それでも寸前で自制が働いたらしく、その手が降ってきたのはライラの左肩にだった。
しかし、殴られずに済んだにしても男の力で突き飛ばされる形となり、ライラも思わずよろめいてたたらを踏む。
普段ならこの程度の打撃など、どうということはない。しかしここは船の上だった。
ライラは背後の船舷──基本的に腰掛けられるくらいの高さしかない船縁の手すりに尻もちをつき、それだけでは勢いが殺しきれずに上体は海側へと傾いた。
ぐらりと揺れる自分の身体にライラ自身、まずいと思った。
「あっ」
「……っ」
バートレットが目を見開くのが見えた。彼もすぐに腕を伸ばしてくるが、指先でライラの服の端を掴みはしたものの、その身体を引き止めるには至らない。
──結果。
ライラは海に落ちた。