Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

天空の蒼(セレスト・ブルー)』の海賊たち

09

 次の日から、早速ジェイクによる指南は始まった。
 それは基本的な掃除の仕方、水の扱い、誰かが負傷した際の対応についてなど多岐に渡った。しかも細かい。一部不可解なものもあったが、ライラは必死になって頭に入れていった。

「使った食器はすぐ汲み上げたばかりの海水で洗って、布で拭いて乾かすこと。こいつは戦闘時以外は絶対だ。日に一度は火酒ですべて磨いてくれ」
 言いながら、ジェイクはライラに何枚かの麻布を渡した。

「これ自体も、湿ってきたら長時間放置するな。洗って、しっかり乾くまで干す。妙な匂いがしてるものは使うんじゃねぇぞ」
「わかった」
「敷布や衣服なんかも、窓越しでいいから時々陽の光に当てる。所持品箱(シーチェスト)の奥に突っ込んであるものも、時折引っ張りだしてそうするんだ」

 洗う。乾かす。ジェイクは多くのことについて、それを徹底させるようにライラに指示していた。しかしそれでいて、真水は貴重品なので一滴も無駄にはするなという。洗えない場合はせめて陽の光に当てろと、彼は言った。
 濡れているものを乾かすのに日光に当てるところまではわかったが、洗わないものまでそうするということがライラには理解できなかった。一見濡れていないものでも、念のため乾かすということだろうか?

「あなたはまるで親の(かたき)みたいに、とことん湿気を嫌うんだな、ジェイク。まさか、鍋から出る湯気すらも許せないわけじゃないだろうな?」
 ライラが何気なくそう言うと、説明漏れがないようにと記憶を漁りながら小難しい顔つきで話していたジェイクは「ぶっ」っと吹き出した。

「湿気が親の(かたき)か。いいねぇ、お前。いちいち発想が斬新で面白い」
 そして笑ったことで肩の力が抜けたのか、ジェイクはさっきより柔らかい表情でライラに向き直った。
「半分は合ってる。だが半分は間違いだな。俺は湿気も警戒しているが、それ以前に病気の発生を警戒しているんだ」
「病気の、発生……?」

「お前がどこの国の出身かは知らないが、疫病の猛威を知らないってことはないよな。この閉鎖された船の中でそれが発生したら、どうなる?」
「……」
 ライラは言葉を呑み込んだ。

 大規模な流行については、歴史書で読んだ程度の知識だったが、それがかつていくつもの国が滅ぶ要因になったことはよく知っていた。国によっては、そのたった一度の流行で実に人口の半数近くが亡くなったという。
 それがこの限られた空間で発生したら……ひと月とかからずに全滅だろう。

「……乾かすことは、疫病を防ぐことに繋がるのか?」
「直接には繋がらないな」
 いとも簡単にジェイクは答えた。しかしすぐに続ける。
「だが、その一助にはなる」
「どういうことだ?」

 思わずライラは訊いた。ジェイクはそんなライラをじっと見据えた。
「そもそも、疫病の正体はなんだと思う? どうやって感染し、そこから人が死に至るのはどういう経緯を経てるのか。考えたことはあるか?」
「それは……」
 ライラは言い淀んだ。

 疫病の原因は毒だ、という説がある。悪い空気に触れると発症するという話も聞いたことがある。昔は、野菜を食べると体が冷えて病気になるとさえ言われていた。
 地域によっては、入浴すると肌が柔らかくなり、毛穴から悪いものが体内に入ってきて病気になると言われているところもあった。医師ですら、それを本気で信じていることもあるくらいだ。

 しかし、結局どれも確かなものではない。正体がわからず、打つ手がないから人は怯えるのだ。自分も含めて。

「ライラ。お前、文字は読めるか?」
 唐突に訊かれ、面食らいながらもライラは首肯した。市井育ちを装って誤魔化す余裕はなかった。
「それなら話は早い。……いいね、学のある女は好きだよ。正確には、自分の頭で考えることのできる女ってことだが」
 ジェイクはそう言って、棚から数冊の分厚い本を取り出した。そのうちの一冊を机の上に広げ、ぱらぱらと(ページ)をめくる。

「こいつはヴェーナで編纂された歴史の本でね。ええと……ああ、これだ。ここを見てみな」
 言われるがままに、ライラはジェイクが指し示す部分に目を向けた。

 今から四百年ほど前にエディルの各地であった、大規模な黒死病(ペスト)の流行についての詳細な記述がある。スカナ=トリアはもちろん、エスプランドルでもテルリッシュでも大量の死者が出たとある。未だに語り継がれる有名な惨事だ。
 しかし、その部分を読み進めていくと──。

「え……?」
 目を疑って思わず声を漏らしたライラの横で、ジェイクは軽く腕組みをして頷きかけた。
「そう、重要なのはその最後の部分だ。実はあの当時、内陸の小国クライレシネィだけほとんど影響がなかったんだ。その理由は長い間謎とされていた。魔導を使ったとか、逆にクライレシネィの少数民族が各国の井戸に毒を撒いたから流行した、なんて噂もあったそうだ」

 それも無理のない話だった。
 疫病は今の時代でさえ多くの犠牲者を生み出していて、これといって有効な手立てが確立されていない。それが四百年も昔一カ国だけ無事だったというのは、余計な疑惑を生むだろう。
 しかし、ライラはそれはあくまでも疑念に過ぎない、と思った。

「魔導にしては大規模すぎる。即効性があって確実に死に至るものをこの期間と規模でやり遂げるなら、何千という高位魔導士が必要だったはずだ。それに、毒も違う。どちらにしても故意なら、その後に他国への侵略行為をしていなければ変だし……」
 ライラが呟くと、ジェイクはにやりと笑った。
「そのとおりだ。彼らが助かった要因は別にあったのさ。俺はどうしてもそれが知りたくてね。クライレシネィにも足を運んだし、いろんな医学書も読み漁った」

 それでも、決め手のないまま何年も時が過ぎていったという。その謎の鍵になりそうなものが見つかったのはごく最近、医学とは一見関係なさそうな所だった。

「ある日、俺はこいつを作るためにアルジール出身の眼鏡職人を訪ねたんだ」
 そう言いながら、ジェイクは指先で自分の片眼鏡(モノクル)をとんとんと(つつ)いてみせた。
「鼻にかける両眼鏡は重いし、質のいい透鏡(レンズ)を二つも使ったら高額になる。そこで片方だけで使えるものを作れる、つまり融通の利く職人を探していたんだ。そうしたら、ようやく見つけた職人がなかなか面白い男でね」

 その男の趣味は、自分の生業の延長線上で作った、透鏡(レンズ)の器具であらゆるものを覗くことだった。
 彼は透鏡(レンズ)の度数を限界まで上げ、それを使って泥水や草、紙など身の回りのものを観察した。彼は肉眼で見えない微細な世界の中で、動植物の細胞だったり、その上で極小の生き物が蠢く姿を見つけては一人で喜んでいたのだ。

 惜しむらくは、彼が医学にも生物学にもそれほど興味があったわけではなく、単なる個人的な娯楽で終始していたことだ。

「世間話の流れでその器具を覗かせてもらったが、あのときの衝撃は未だに忘れられない。それまで頭の中で乱雑に散らばっていただけのものが、一つの線で繋がったんだ」
 当時のことを思い出したのか、ジェイクの端正な顔が興奮で輝く。

「疫病の感染から逃れるためには隔離が有効だと判明したのが、今から六百年前のエスカトゥーラでのことだ。黒死病(ペスト)が空気感染だけでなく、患者の使った衣類や食器などへの接触でも感染することがわかったのが、それから三百年後。その時点で、疫病は体の中に微生物が入り込むことで発症するという仮説が立てられたが、これまで実証されてこなかった。確かめる方法がなかったからだ」
「微生物……?」
「目に見えないくらいの小さい生物って意味さ」
「……! じゃあ、アルジールの職人が見ていたっていうのが……」

 ジェイクは大きく頷いた。
「その可能性はある、と俺も思った。残念ながら、疫病の正体は顕微鏡というあの道具でも見えないほど小さいらしい。だが、人間の肉眼で見えるものばかりが世の中の構成要素じゃないってことだけは証明された。もしかしたら、(カビ)と似たものなのかもしれない」

 黴と言われてライラも想像がしやすくなった。これまで深く考えたこともなかったが、確かに暗く湿った場所にはいつの間にか生えている。
 植物が繁殖するには種が必要で、動物には親が必要だ。しかし黴には元になるものが見当たらない。無いのではなく、小さすぎて見えないのだとしたら……。

 そしてジェイクが湿気を意識するのも理解できた気がした。
 水がなければ生きていけないからこそ、人は水辺に集落を作る。動植物もそうだ。しかし黴や微生物であれば、沼や池でなくとも、水滴や湿気で充分なのではないか。馬と人間とで、必要な水の量が違うように。

「そこで、クライレシネィの一件に話が戻る」
 ジェイクは次の本を取り上げて表紙をライラに見せた。
「『レヴァンドフスキ物語(パン・レヴァンドフスキ)』?」
「クライレシネィ文学の傑作だ。医学書にないなら生活習慣かと思ってな、改めてこういうのを洗い直してみた。この話自体は没落した少貴族が主人公の普通のものだが、当時の生活様式が細かく描写されてるんだ」

 ライラは何気なく(ページ)()った。目に止まった部分を読んだ限りでは、特に医学が主題ということもなく、登場人物達が普段の生活の中でやりとりをする様子が書かれているようだった。
「彼らは昔から、万能酒として火酒をこよなく愛していた。消臭にも痛み止めにも汚れ落としにも、火酒を使うくらいにな。この話の中にもちょくちょく出てくるが、クライレシネィには身体を蒸留酒で拭いて清める習慣があったんだ」

 確かに、ところどころに火酒という単語が見て取れる。
 クライレシネィの人々は特別な対策を講じていたわけではなく、いつもどおりの生活を送っていただけだった。それは、一時的に滞在しただけのジェイクが見落としても仕方ないくらいの、本当にありふれた日常の風景だったのだろう。ジェイクの推測は見事的中した。

「火酒には、微生物を殺すか排除する力があるんじゃないか。俺はルースに頼んで色んなものを船に乗せてもらってるが、水は時間が経てば樽でも瓶でも黴臭くなって藻が浮いたりするのに、蒸留酒は量が減るだけだしな」
「……」
 ライラは言葉を失って考え込んだ。

 クライレシネィの人々が体臭を消すつもりでやっていたことが、無意識に疫病の原因も殺していたのだろうか。しかし実際に、あの国は助かっているのだ。打つ手がないとばかり思っていた黒死病(ペスト)から。
「助かる、のか。本当に……」
 呆然と呟くライラに、ジェイクは力強い笑みを浮かべた。
「可能性が少しでもあるなら実践するべきじゃないか? お前さんだって戦うときはそうだろう。こいつは俺にとっての戦いだ」

 ルシアスは、実際に病死者が激減したと言っていた。彼がジェイクに協力を惜しまないのもそういうことだろう。
 ライラはまだ信じられないような思いと、大きな期待感とで胸がいっぱいだった。

 疫病は、誰かが巻いた毒でも悪魔の呪いでもなかった。そればかりか、対抗する手段があるという。
 いつの間にか強張っていた身体の力を抜くように、ライラは深く息をついた。

「あなたはとんでもない人だな、ジェイク」
 ライラがそう言うと、ジェイクは普段の皮肉げな表情に戻った。
「変わり者だからな」

※著者注)ウィルスや菌を避けるために湿気を避けると作中では書いていますが、あくまでも作中の文化レベル(17~18世紀くらい。病原菌の存在が認識されるのは19世紀以降)におけるキャラクター個人の推測です。
実際の現代医学では当然違う見解となっているので、その辺はご了承ください。