Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

天空の蒼(セレスト・ブルー)』の海賊たち

08

「──だから無防備すぎなんだよ、お嬢ちゃん。ここは、相手を張り倒してでも逃げるとこだろ?」
 互いの息が触れ合う程の距離で動きを止めたジェイクが、苦笑交じりに囁いた。

「……っ!」
 まるで、その一言で呪縛が解けたみたいだった。ライラの頬が熱を持ち、一気に手の中に戻ってきた自我が反動で荒れ狂う。
 しかし、ライラが感情に任せて突き飛ばそうとするよりも、ジェイクが手を離して一歩下がるほうが僅かに早かった。

 彼はこうなる流れまで予測済みだったのだろう。その身のこなしには余裕すら感じられた。
「冗談だよ。いくら俺だって、この年にもなれば分別くらい持ってる」
「冗談にしたって、(たち)が悪すぎる……っ!」
 動揺から思わず(なじ)るライラだったが、ジェイクは少しも動じない。それどころか、不敵な笑みすら浮かべてみせた。

「おいおい、そいつはお互い様ってやつだろ。気ぃ強い癖に、可愛い顔して隙だらけ。今のが俺じゃなくそこそこ悪い男だったら、お前みたいなのはひとたまりもないぞ?」
「……っ」
 図星を突かれて、ライラは出かかった言葉を飲み込む。
 いまだ破裂しそうなほど心臓が騒ぎ立てているのを聞きながら、ライラは彼を睨み上げた。

「次は斬り捨てる」
「おお、怖いな。でもそのくらいでいいと思うぜ」
 へらへらと笑うジェイクはまったく意に介さない。作業机の端に浅く腰掛け、胸の前で悠然と腕を組む。
 それに対し、負け惜しみなのはライラも自覚があった。このまま引き摺るのも彼との差がひろがるだけのような気がして、彼女は悔しさを滲ませながらも無理やり怒りを収めた。

「……。そんなに手がつけられないものなのか、ここって」
「うん?」
 ライラが引いたのが意外だったのか、ジェイクは訊き返し、返答を待たずに続けた。
「いや。さっきも言ったとおり、女を乗せるっていうのが異例なのさ。女人禁制の船が多いのは知ってるだろ。男の聖域なんてのは建前、実際は余計な面倒事を避けるためだ。どこもそんなもんだよ」

 船乗りは、自分達の船のことを「彼女」と呼ぶ。海の神は気まぐれで悋気深い女神だと信じている。
 航海の成功のために、人間の女を遠ざけて彼女らの機嫌を損ねないようにしなくては、とはいうものの、上陸した途端に一晩いくらで女を買うわけなので説得力はない。

 しかし、そんな場所へのこのこやって来たのはライラのほうだ。男達に妙な気を起こすなと、偉そうに言えた立場でもないのだった。

「……わかった。肝に銘じておく」
 ライラは複雑な気持ちになりながら、ようやく絞り出すようにして言った。
「忠告をどうも、見かけによらずあなたが紳士で助かった」
 すると、ジェイクは感心したように「へぇ」と呟いた。

「そんな若いうちから名をあげて、さぞかし小生意気な女だろうと思ってたら……。案外そうでもないんだな」
「悪かったな、期待どおりでなくて」
「馬鹿、褒めてんだよ」
 ジェイクは再び表情を緩め、愉しそうに低い笑い声を漏らした。しかし、ライラは愛想笑いを浮かべる気分にもなれずにいた。

「そんな顔すんなって、せっかくの美人が台無しじゃねぇか」
「今更薄っぺらい世辞など結構だ」
 むっつりとライラが応えると、ジェイクはまた笑った。
「おや、ヘソ曲げちまったかい?」
「誰のせいだと思ってるんだ」
「まぁ、俺だな」

 さらりと認めてから、機嫌を損ねた様子のライラを見て少しは思い直したのか、ジェイクはからかう態度を引っ込めた。
「念のため言っとくが、まるっきり冗談ってわけじゃあねぇよ。この船で頭領の影がある女に手を出す馬鹿もいないだろうが、その宝石みたいな目で見つめられたら、とち狂う奴が出てもおかしくないね。俺ももうちょい若けりゃ、本気になってたかもな」

 片眼鏡(モノクル)の奥から思わせぶりな視線を送られ、またもやライラは真っ赤になって硬直した。
 ジェイクはといえば、そんなライラにまた盛大に吹き出す。

「だっから、しねぇよ! 若けりゃって言ったろ。それに、お前さんにそんな下手なことしてみろ、俺がルースに鮫の餌にされちまう」
「ま、またそうやって人をからかって……!」
「あのな。この期に及んでからかうつもりもねぇよ。悪乗りした俺も悪いが、お前も他愛無さすぎだ」

 目尻に浮かんだ涙を指で拭ったジェイクが、まだ笑いの欠片を残しながらライラに向き直った。
「なるほどねぇ……道理であのルースが傍に置きたがるわけだ。いいぜ、きっちり面倒見てやるよ」
「……」

 信用できないという目でライラに見返され、ジェイクは彼女の機嫌をとるようにおもねった。
「だからそういう顔するなって。悪かったよ、お前があんまり可愛い反応するもんだから調子に乗っちまった。必要なことはちゃんと教えてやるから、それで勘弁してくれ」

 その一言で、ライラははっとした。
 そうだ。ジェイクに振り回されていてすっかり忘れていたが、彼の仕事についてはライラも興味があったのだ。
 ジェイクのやり方をとり入れてから、実際に病死者が減ったとルシアスは言っていた。そんな魔法みたいな話を、ぜひ本人の口から詳しく聞きたいと思っていたのに。

「あの……」
「にゃあっ」
 ライラが口を開くのと、足元で一際高い鳴き声がしたのはほぼ同時だった。
 下を見ると、毛むくじゃらの獣がジェイクの足にじゃれついていた。ライラの背後の扉の隙間から、いつの間にか戻ってきたようだった。

「ね……こ……?」
「ああ、お前さんは初対面か? チビだがこいつがうちの猫水夫だよ。ミアってんだ」
 言いながら、ジェイクは屈んでひょいっと子猫を抱き上げた。

 その子猫は男の腕に体を丸くしてすっぽりと収まった。体毛は白く、全体に薄い縞が入っていて、耳と尻尾だけ色が濃くなっていた。くりくりっとした大きな瞳は淡い青で、まるで硝子(ガラス)玉のようだ。

「よしよし。こいつめ、あんだけ怒鳴られてもすぐ擦り寄ってきやがって。しかも持って行ったもんは、またどっかに隠してきたな?」
 抱き上げられた猫は、「にゃーん」と甲高く答えて後ろ足で一生懸命ジェイクの胸元を蹴っている。が、嫌がっている様子ではない。

 ジェイクもまた、口では文句を言いつつも猫を慣れた手つきで撫であげていた。
「聞いたことはあるだろうが、猫だって立派な乗組員だ。鼠や虫にでかい(ツラ)されると、いろいろと不都合があるのが船ってやつでな。とはいえ、本当なら医者の俺が獣の面倒を見るものじゃないんだが、なんだか懐いちまってね」

 そう言うジェイクは、先程までの不敵な雰囲気はどこへやら、穏やかな目でミアを見つめている。

 その様子に毒気を抜かれたライラは、自分もつられて子猫に手を伸ばした。
 人差し指の背で恐る恐る頬を撫でると、ジェイクの腕の中からミアはライラの顔をじっと見返していた。さすがに、見慣れない相手に対して即座に警戒を解いたりはしないらしい。

「……ふわふわだ」
「しょっちゅう自分で毛繕いをしてるからな。沐浴も滅多にしない人間なんかよりよっぽど清潔だ」
「猫は礼拝に行くわけでもないのにな」
 何とはなしに、ライラはそう言った。

 列強国が集う大陸の西側では、一般の人々は主に礼拝に行く前などに沐浴をする。罪や邪を払うという意味合いの他に、泥や埃がついた状態で祈るのは神への礼儀に反するという考えによるものだ。『清潔』とは、見た目の汚れの他に、肌着を取り替え質素な服装をすることを指す場合が多い。
 もちろん、猫がそういう人間的な礼儀を気にするかどうかは知らないが。

「俺達の言う清潔ってのは礼儀の一部だが、本当はそのためだけにすることじゃない。汚れを落とすことで、こいつらは自分の身を守ってるんだよ」
「身を守る?」
「病を遠ざけるのさ」

 ライラは思わずジェイクの顔を見つめてしまった。
 病を遠ざけるのは祈祷師の仕事だ。医者は悪くなった部分を治療するのが仕事なのに、彼は何を言っているのだろう。いや、この場合病を遠ざけているのは、祈祷師でもジェイクでもなく……。

「理解できないって顔してるな」
 案の定、ジェイクは苦笑いを浮かべた。
「まぁ、無理もない。はなから理解できる奴のほうが少ないさ、例外はルシアスくらいだろうな」

「そういえば、あなたはモグリの医者だってルースに聞いた。けど、あなたの言うとおりにしたら、病死者が激減したって……」
「なんだ、そこまで聞いたのか」
 意外そうに、ジェイクは片眉を上げた。

「そうだよ。あいつは組合の推薦する偉い医者より、どこの馬の骨ともしれない俺を船に乗せることを選んだ。実績さえ示せばあいつの決断は早い」
「ルースにとって、この船の皆は何より大事だろうからな……。けど、あなたはどうやってその知識を得たんだ? 普通の医者の考え方ではないように思う」

 大真面目にライラが問うと、船医(サージェン)は一瞬だけ目を丸くした。しかしすぐに表情を置き換え、軽く笑い飛ばす。
「ははっ、確かに変わり者だよ俺は。俺は患者が助かれば何でもいいからな」

 そこで、抱き抱えられるのに飽きてきたらしい子猫が暴れ出し、ジェイクは再びミアを床へと放してやった。子猫は背中を山のようにして一度伸びをすると、部屋のあちこちを探索し始める。
「変わり者という点では、私だって負けてはいないけどな」
 ジェイクの自嘲にライラが肩を竦めて応えると、ジェイクはいつもの薄笑みを浮かべた。

「いいね、俺達は同類ってわけだ。ま、その辺は機会があれば話してやるよ。いろんな国を旅しているお前さんには、敵わないかもしれんがね」
「医学の途を目指した男の、行き着いた先が海賊船だなんて、充分大冒険じゃないか」
「そうかい? 引退したら本でも書くか」
 ジェイクは冗談めかしてそんなことを言う。

 しかし、彼のライラを見る眼差しには僅かに変化があった。彼の中で、単なる初心(うぶ)なお嬢ちゃんという認識は改めることにしたらしい。
 彼はからかう色を消して、ライラに告げた。
「その前に、まずは仕事だ。覚えることは多いぞ、きっちり頭に叩き込んでもらうぜ」