Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

天空の蒼(セレスト・ブルー)』の海賊たち

05

 どうやらライラに避けられているらしい。
 船長室(キャプテンズ・デッキ)に戻ったルシアスは、相変わらず無人の室内を一瞥し、改めてそう思った。

 いくつか雑用を任せてもらいたいと言われた時点で、ある程度予想していたことだ。もちろん、完全に顔を合わせないのは不可能だったが、ライラは二人きりという状況をできる限り回避することに成功していた。

 ルシアスはそのまま、ライラのための小さな『船室(キャビン)』を通り過ぎ、衝立の向こうにある自分用の部屋に向かった。所持品箱(シーチェスト)から私物の葡萄酒(ワイン)を取り出し、自分の椅子に腰を下ろす。
 酒を一口含んだ後、幻滅や苛立ちの溜め息が漏れることはなかった。それどころか、彼はほくそ笑んでいた。

 そう、実に愉快だった。
 ライラがどんな思いで――どれだけ必死になって自分を避けているのかを想像するだけで、つい笑みを誘われてしまう。

 出港してからの数日間、ライラを観察していて気づいたことがいくつもあった。
 まず、彼女は怠惰からは程遠く、規律正しい生活を送る人間だということ。その上、たとえ寝ていても三十分置きに鳴らされる時鐘の度に目を覚まして、小さく身じろぎをする。まるで野生動物か、熟練の兵士のように。

 そして、日常の何気ない仕草も洗練されていて隙がないということ。
 彼女は歩くときも物を食べるときも、姿勢がよく、音も立てない。そればかりか、指の先まで動作が優雅だった。薄暗く殺風景な船室とは不釣り合いなほどに。

 話をすれば、道徳観もしっかりしていて知識もあり、きちんとした教育を受けたであろうことが窺える。彼女がどこの生まれかは知らないが、女性に学ぶことを推奨している国はあまりない。それが許されているのも一部の富裕層のみだ。

 つまりライラは――否、イリーエシアは、貴族かそれに準ずる立場の人間だということだ。
 そもそも、ロイの話からただの平民ではないだろうとは思っていた。しかし、どこかのご令嬢が衣装(ドレス)を脱ぎ捨て、剣を()いて一人旅立ち賞金稼ぎを始めるなどと、誰に予想がつくだろう?

 ルシアスは、時折ここで鉢合わせしてしまったときのライラの狼狽(ろうばい)ぶりを思い出して、また小さく笑った。
 彼女が自分を避けているのは、ひとえに彼女の育ちの良さが隠しきれていないために他ならない。
 男と同じ部屋をあれだけ拒絶していたのも、今なら頷ける。男装に近い格好をしながらも、長ズボン(ブリーチズ)長靴下(ホーズ)ではなく膝丈の靴(ブーツ)という出で立ちも納得だ。まともな淑女であれば、男のようにふくらはぎの丸みが露わになる格好など、できるわけがないのだから。

 普段は勇ましいライラが、二人きりになった途端見せる微笑ましい動揺は、今やルシアスにとって楽しみのひとつとなっていた。
 もちろん、彼女と気の置けない仲になることを望まないわけでもないから、どちらも捨てがたいところではある。

 あまり話し好きとは言えないルシアスが、ライラと語り合う僅かな時間だけは好きだと思えた。
 彼女と話をしていると飽きが来ない。もともと聡明なのに加えて、各地を旅している経験からライラはとても博識だった。本来の素直な性格もあるためか、物の見方にも柔軟さが見える。

 彼女が男であれば旅の自慢話が延々と続くところだが、幸いにもそうではない。かと言って、女性特有の、男の理解の範疇を遥かに超える繊細さもない。
 ここまで気楽に話のできる相手だということに今回初めて気がついたのだが、これは嬉しい誤算だった。

 ただし、疑問も残っていた。
 ロイの話では、イリーエシアは歩くこともままならないほど病弱だったという。そんな娘が、なぜ男顔負けの賞金稼ぎになれたのか。慣れない海上ではやや劣るかもしれないが、平地であれば、ライラはそんじょそこらの男には引けをとらないどころか、抜きん出るほどの実力の持ち主だった。

 興味がどんどん湧いてくる。まるで、隠された財宝を追い求める伝説の海賊にでもなったような気分だ。
 基本的に乗組員の私事については詮索しないのが信条だったが、ライラについてはやはり、いろいろと知る必要があると思った。彼女を守るためにも。

 だが、ただ彼女を問い詰めるだけでは面白くない。ライラも、偽りの名を名乗っているとすれば素直に話すはずもない。特に、今のように警戒されているうちは。
 さて、どうしたものか……


 失敗した、とライラは思った。
 作業を終えて船長室(キャプテンズ・デッキ)に戻ったとき、そこには既にルシアスがいた。

 船長にはその職務の特性から、当直という概念が当てはまらない。だからいつもはさり気なく甲板を見渡して、彼の姿を確認してから部屋に戻るようにしていた。
 しかし今日は、バートレットに言われたことでルシアスに話をするつもりだったから、彼が在室しているのはわかっていたはずだった。

 それなのに。
 奥の部屋に人の気配を感じた途端、何故か怯んでしまった。

 部屋に入ろうとしたその足が不自然に止まってしまったのを、ルシアスは気づいたろうか。
 そんなことを考えながらライラが突っ立っていると、案の定ルシアスは衝立越しに声をかけてきた。
「今終わったのか? ご苦労だったな」
 静かな声。年代物の蒸留酒のように、身体の芯まで深く染み渡るような声だった。

 どうしてここにいるのがライラだとわかったのだろう。そう思ってすぐ、用もないのに船長室(キャプテンズ・デッキ)の扉を開ける部下はいないし、用があるならここで黙っているはずもないことに気がついた。

 やっぱり調子が狂っているらしい。溜め息が漏れた。残念だが、日を改めたほうがいいかもしれない。
「レオン達に、角灯(ランタン)の場所を訊くついでに船内を案内してもらってたんだ。手伝ってもらったから大変ではなかったけれど、それで時間がかかってしまって。でもなんとか終わった」

 そう答えて、夕食の時間まで休むつもりで自分の寝場所に向かう。だが、意外にもルシアスはそこで会話を終わりにする気がなかったようだ。
「そうか。任せておいて言うのもなんだが、疲れたろう。こっちに来て一緒に一杯やらないか?」

 ライラは驚いてルシアスのほうを、正確には二人を遮る衝立を凝視した。
 向こう側はルシアスの私室で、ライラはこれまでそちらに足を踏み入れたことはなかった。特に禁じられていたわけでもないが、なんとなく入ってはいけない気がしていたし、ルシアスもそちらにライラを呼ぶようなことはこれまでなかったからだ。

 しかし、ルシアスからは戸惑うライラの様子が見えるわけもなく、彼は平然と続けた。
「うまい葡萄酒(ワイン)があるんだ。ただ働きをさせるのもなんだから、ささやかな報酬だと思ってくれればいい」

 ライラは迷った。ちょうど自分もその件について話をしようと思っていた。
 迷った末、面倒事は先に片付けてしまおうと決心した。
「わかった。私も話があったんだ」

 ライラは衝立を越えて、ルシアスのいる部屋に足を踏み入れた。
 船尾窓があるおかげで、そこは明るかった。なにせ、正面だけでなく両脇も窓枠が嵌めこまれている。両脇の窓は壁全面ではなく、奥のほうから壁の約三分の一を占める程度だったが、大砲用の窓と角灯(ランタン)の明かりのみの他の区画に比べたら段違いの明るさだった。

 壁際には、釣床(ハンモック)ではなくきちんとした寝台がある。反対側には彫刻と象牙細工の施された見事な戸棚があり、上部の書棚には分厚い本がいくつも並んでいた。棚の足元には鍵のついた所持品箱(シーチェスト)の他、積み荷を入れるような木箱があり、それは丸めた海図を立てかけるのに使っているようだった。

 正面奥の窓際にある机も細かい意匠が散らばる重厚な作りのもので、使い込まれて飴色になっていた。机の上には筆立てのほか、インク壺や方位磁石、水差しなどが置かれている。
 部屋の主の性格を表すような、無駄のない仕事部屋だった。

 家族以外の異性の私室に入った経験のないライラは、少しどぎまぎした。まるでルシアスという男の内側を垣間見たような気分になったから。

 ルシアスは、立ったまま葡萄酒(ワイン)の瓶を傾けていた。
 やや逆光になるような角度だったのでその表情はよくわからなかったが、どうせ彼のことだからはっきりした感情は表に出ていないのだろう。ただ、陰影が彼の整った容貌を際立たせていて、それが余計に彼を造り物めいて見せていた。

 ライラとは違って、向こうは落ち着いたものだ。
 ルシアスはいつもそうだった。冷静で、豪胆。彼が人間らしく感情を剥き出しにすることなんて、あるのだろうか。

(でも、そんなルースだって恋に落ちたんだ)
 ライラはふとそんなことを思い出した。
 アリオルの舞姫は、一時期この冷静なルシアスの心を捉えていた。もしかすると、今現在も。
 あのクラウン=ルースが、リスティーに対してだけは、身請けというはっきりした独占欲を見せたのだ。彼とそれほど深い付き合いのなかったライラにとっても、それがいかに特殊な事例だったのかは何となくわかる。

 この深海色の瞳が熱を帯び、深い声音が愛しげに名前を紡いでいたのだろうか。単なる好敵手(ライバル)のライラには、想像もつかなかったけれど。

(あれ……
 不意に、少し息苦しいような、胸の奥が重くなるような感覚がして、ライラは戸惑った。
 この感覚がなんなのかは知っているが、なぜ今起こるのかがわからなかった。

(私は腐れ縁なだけであくまでも敵。あっちは恋人同士だ。一緒に考えるほうがおかしいだろうが)
 馬鹿馬鹿しい。胸の奥に灯った小さな寂しさを、ライラはそうやって黙殺することにした。