Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

海賊との再会

13

 色の濃い空が広がっている。晴れ渡った空。

 ルシアス・カーセイザーは甲板で空を仰いでいた。
 風は安定している。強さも、肌に心地いい程度だ。
 南西の空には雲海が広がっているようだが、あれは天気に影響を及ぼす類のものではない。少なくとも、あと半日ほどは晴天が続くということだろう。
 まどろみを誘われそうな、穏やかな午後の海だ。

 しかしだからといって、船乗りたるもの、船上で完全に気を緩めることはない。
 背後から不穏な気配が突進してくるのを察知すると、ルシアスの意識は瞬間的に切り替わった。
 素早く振り返り、もちろん振り返るより先に右手は剣の柄へと走って、ルシアスは何とかその一撃をぎりぎりで受け止めた。

 刃と刃がぶつかり合った甲高い音が響き渡り、小さく火花が弾ける。
 交差した刃の直ぐ向こうに、剣呑な光を湛えた淡い翠色の眼差しがあった。

「ほう……良く受け止めた。誉めてやろう」
「そいつはどうも」

 年頃の娘のものとは思えない程殺気に満ちた低い声音に、ルシアスは軽口で応じる。同時に、腕力に任せて刃を押し退けて一瞬の間を作り、体勢を整えた上で次の一撃を迎える。
 普通の男のものと比べて、ライラの剣はやはり力が落ちる。だが、その速度、それを維持した上での正確な狙い……女相手だと思って気を抜けば痛い目を見る羽目になるのは必至だ。

 ルシアスの口許が、自然に笑みを形作る。気分が高揚するのを感じた。

 剣を横薙ぎに払い、相手との距離を取る。予想通りライラは後方へ飛退き、隙を作らずに素早く構え直した。
 同じ様に剣を構えながら、ルシアスは口を開く。

「寝起き一発目にしては威勢がいいな。だが、一応訊いておこうか。気分はどうだ」
「生憎、気分は最低にして最悪だ、ルースッ! そんなことより……」
 海賊の顔を上目遣いで睨みつけ、ライラは広い海を指して吠え立てた。

「どういうことだ、これはッ!?」

 陽は既に高く、水平線が眩しいほどに煌めいている。果てしなく続く蒼天には、彼方に真綿のような雲が群を作っているのみ。この世の嫌な事など、全てが洗い流されるような清々しい光景だ。
 しかし、それこそが彼女の激怒の原因であるようだった。

「貴様ッ! どうして陸を離れた……!?」
「何、急用を思い出したのさ」
「そんなわけあるかっ!」

 再び剣を打ち交わしながら、ルシアス達は大砲や係船装置の隙間、帆柱の脇と、狭い甲板で縦横無尽に動き回る。

 ライラを追ってきたらしいティオが、甲板に出るなり予想通りの展開に「ひぃっ」と小さく悲鳴をあげて青褪める。騒ぎを聞きつけた乗組員達が、甲板上に散ってすかさず配置につくのがルシアスの視界の端に映った。勢い余った自分たち二人に帆を支える索具を断ち切られないように守る為だろうが、本音の所はこの余興を楽しむつもりなのは明らかだった。

 しかし、ルシアスは咎める気にはならなかった。ライラも、そんな部分にまで気は回らない様子だ。
 雑魚(ざこ)であれば確実に落命しているだろう一撃を重ねながら、二人は尚も剣を繰り出す。

「船を出すなんて聞いてないぞ、私は!」
 怒鳴るライラに、ルシアスはあくまでも平然と答える。
「当たり前だ、たった今起きたくせに何を言っている」
「だったら! 出港の前に起こすなり何なりすれば良かったろう!」
「無茶を言うな。薬を盛られて昏倒した人間が、そう簡単に目を覚ますと思うか?」
「やかましいっ! それだってお前の所為だろうが!」

 剣の速さもさることながら、それにも負けない速度で、ライラは美貌に似合わぬ悪口を次から次へと投げつけてくる。もっとも、言葉の攻撃の方はルシアスに何の影響ももたらしはしなかったが。

「覚悟しろルース! お前なんか、ぶつ切りにして魚にくれてやる!」
「折角だが、遠慮しておこう」
 それどころかその悪口が、かえってルシアスを面白がらせていると知ったら、ライラはどういう顔をするのだろう。きっと、素晴らしい反応を返してくれるに違いない。

 手加減抜きの打ち合いは、段々と白熱したものになっていった。
 刃が風を切る度、ティオの口から絶望の呻き声が洩れた。息を呑むような一撃が、寸前で遮られては「ほっ」と息をつく。その繰り返しだった。

「あっ、あぶな……! ……も、もういいでしょう! 止めてください、お二人とも!」
 ティオも二人の技量を信頼してはいるが、少し間違えば即致命傷に繋がる剣のやり取りを、平然と眺めていられるほど神経は太くない。ライラとルシアスの距離が縮まることを望んではいたが、もちろんこういう意味ではないのだ。
「いいじゃねえか、ティオ。やらせとけよ」
「リック……!」

 何時の間にか隣に来ていた少年に、ティオは非難の目を向けた。が、彼以外の他の仲間達も、薄情なことににやにや笑いながら事の成り行きを眺めている。
「面白そうじゃないか」
「そうそう。あの二人の一騎打ちなんて、滅多に観れないぜ」
「そういう問題じゃないだろ!?」

 そんなティオの声など、当の二人の耳には届いていない。だが、手遅れになってからでは遅いのだ。
「あなた達が本気でやりあったら冗談ではすみませんよ! ねえ……!」
 と、おろおろするばかりのティオだったが、やがてふとあることに気づいた。

 いつしか剣を交わす二人の互いを見据える眼に、等しく愉悦の色が混ざっているのを見て取ったのだ。

「……何だよ何だよ、人の気も知らないで! 二人して、(たの)しそうにしちゃってさ……!」

 心配するこっちが馬鹿のようではないかと憤慨していると、だから言ったろ、と隣でリックが笑う。
 馬鹿馬鹿しいと思う一方で、しかしティオは首を傾げもした。緊迫した対決に変わりはないのに、いちゃつく恋人達に見せ付けられてでもいるような気分になるのは、いったいどういった心理状況なのだろう、と。

 ティオのそんな心境をよそに、相も変わらず戦いは続いている。
 ルシアスが、口の端を吊り上げるだけの微笑を浮かべた。
「どうした? 足元がふらついてるがもう限界か」
「お前こそッ! 左ががら空きだ、余裕をかましていると死ぬぞ!」
 ライラもまた、今にも喉笛に噛み付かんばかりの物騒な微笑みをルシアスに返した。

 だが、ルシアスはむしろその反応に満足して、喉の奥から声を漏らして更に笑った。と同時に、調子を変えて攻勢に出る。ライラは一瞬(ひる)んだが、しかしそこは彼女も名にし負う剣士、すぐに力強さを増したルシアスの剣技に合わせてきた。驚くべき順応性だった。

「しばらく会わないうちに、また腕を上げたようだな」
「心にもないことを。煽てて隙を作らせるつもりか?」
「思ったことを言ったまでだ。だが」

 ルシアスが言葉を切るより一瞬早く、ライラは自分の失態を悟ったようだった。
 退こうとして動いた踵が何かに当たり、いつの間にか誘導されていたことに気がついたのだ。
 そこは船尾楼の壁面だった。

「く……っ」
「海上で俺に勝とうなどと、浅はかにも程があるんじゃないのか、ライラ。それにお前、ここをどこだと思っている」
 言いながら、ルシアスは決定打を繰り出した。叩き折る勢いでライラの剣を弾き飛ばし、空いた左腕でライラの肩を掴むと壁へ強引に押さえ込んだ。その細い首筋に刃を寄せる。

「ここは『天空の蒼(セレスト・ブルー)』。俺の船だ」
「ち……っ」

 痺れた右腕を抱えながら、しかしライラは至近距離でもルシアスを睨みつける事を忘れない。例えここで留めの一撃を受ける事になろうと、この視線は絶対逸らさないつもりなのだろう。

 ルシアスの白刃に、その翠色の宝玉の片割れが焼きつくほど鮮やかに映った。