Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

海賊との再会

05

 日が西へ傾き、東から徐々に星の数が増え始めると、アリオルの街はいっそう賑やかさを増したようだ。
 特に、港にほど近い場所にあるカリガンタという地区は、船仕事に従事する低所得者を客とする店が数多く建ち並ぶ。その日稼いだ賃金の殆どを、ここでの一晩で使ってしまう者も珍しくはなかった。酒も女も、贅沢さえ言わなければ大体のものが揃っていた。
 居酒屋には仕事を終えた男達が詰め掛け、質がいいとはとても言えない黒いビールを片手に、楽師の奏でるリュートに合わせて陽気な歌声を披露している。時々笑い声が吹き出し、嬌声が飛び出したりもした。

 ある居酒屋の二階にいた一人の女が、客のふかす煙草の煙に閉口して立ち上がった。
 にぎやかな大通り側ではなく、裏に面した窓を開け、深呼吸をするつもりで外に顔を出したとき、下の路地に小さな人影を見つけた。薄暗く他に人気のない路地の中で、窓から漏れる明かりを受けた頭髪が蜂蜜色に輝いている。

 向こうも、こちらに気づいたようだ。二階の窓を見上げたその顔は、一瞬女の中に嫉妬の焔が燃え上がるほど愛らしく整ったものだった。
 しかし、子供はそんなことにはお構いなしに、女に向かって微笑みかけた。

「今晩は、お姉さん」
「あら……

 声を聞いて初めて、女は相手が少年である事に気づいた。
 よく見てみれば、華奢ではあるものの、背は高いようだし笑い方にもやんちゃなところがある。しかし、それにしたってとんでもない美少年だった。
 少女ではないと判った時点で、女の中にあった嫉妬の焔はたちまち消え去っていた。代わりに、愛想の良い笑みが自然に込み上げてくる。

「そんなところで何やってるの? ここはボウヤみたいな子供の来るところじゃないわよ。早くおうちに帰んなさいな」

 殊更優しい口調で、女はそう言った。追い返すだけならキツイ口調で一言怒鳴ればいいだけの話だが、少年への名残惜しさが無意識にそうさせたのだった。
 しかし、半分は本心も含まれていた。
 客の中には少年を好む性癖の男もいる。こうしている内に誰かに見つかって、この少年があんな埃と汗まみれの酒臭い男どもに汚されるのは嫌だった。
 少年はそんな事考え付きもしないのだろう、親切な女に素直な好意を抱いたらしく、小走りで窓の真下まで寄ってきた。

「判ってる、すぐ帰るよ。でも僕、親父に頼まれ物しちゃって。ここの旦那に用があるんだけど、何だか店に入り辛くてさ」
「あら、じゃあそこで待ってるといいわ。あたしが呼んで来てあげる」
 母性本能をくすぐられて、女はそう申し出た。
「ほんと? ありがとう」

 期待通りに返される微笑みに満足しながら、女は店の奥へと一旦消えた。
 しばらくして、下の入口から貧相な小男が出てきた。まだ宵の初めだというのに相当飲んでいるらしく、顔が耳まで赤くなっている。

「やあ、おっさん。また会ったね」
 少年はにっこりと笑った。
 しかし店の主の方は覚えがないといった表情で、訝しげに少年を見返している。
「坊主、何処のガキだ……?」
「やだなあ。忘れちゃったの? この間会ったじゃない」
 言いながら、少年は男に近寄ると突然その手を掴んだ。

「痛……ッ」
 男が驚いてその手を引くと、腕に小指の長さほどの切り傷が出来ていた。
 赤い珠が見る見るうちに盛り上がり、糸となって腕を伝っていく。酔いの覚めた男は、ナイフを持って佇む少年に殴りかかろうとした。

「てめえこのガキ、何しやが……!」
 しかし、少年の方は子鹿のような身軽さで後ろに飛び退き、男の拳は空を虚しく泳ぐ。男が顔を上げると、無邪気な笑顔を浮かべる少年の姿が目に入った。
「はじめは痛いけどね。でも、もう痛くないでしょ」
「え……?」

 男は腕の傷にもう一度目をやった。
 相変わらず血は流れ出している。が、確かに痛みがなくなっていたのだ。
 しかしそれだけではない。男は、傷口から甘い痺れが全身に広がっていくような、奇妙な感覚に囚われた。

「おっさん、これ何だか判る?」
 困惑する男をよそに、少年が懐から取り出したのは、粉薬を入れる小さな蝋引き紙の包みだった。
……?」
「これ、この薬ね。燃やして煙を吸うと、とってもいい夢が見れるんだ。でも、別の薬と練り合わせて身体に直接、例えば傷口から入れたとなると……どうなると思う?」

 微笑む少年の前で、男は膝から崩れ落ちる。何が起きたのか判らないと、その目が訴えていた。
 助け起こす振りをしてしゃがみ込みながら、少年は低い声で囁いた。
……あんたがあの人に手を出したのは、本当に偶然みたいだから殺さないであげるよ。もうこっち側に戻ってこれないかもしれないけど。でも、これくらいは自業自得だって、判ってるだろ」
「な……?」

 と、そこで店の入口が開き、さっきの女が顔を出した。
「用は済んだ?」
「ああ、お姉さん」
 少年はまた無邪気な表情で顔を上げる。
「どうしよう、いきなり寝ちゃったんだ。飲みすぎなんじゃないの、この人。すごく酒臭いし」
「ええ?」

 女は蹲った男を見て、呆れかえったような顔をした。
「あーあ、仕方ないわねえ。その旦那、ここのところ儲かってるらしくてねえ。最近よく飲むから……でも丁度いいわ。酒乱なのよ、そいつ。こっちは寝ててくれた方が有り難いから、その辺寝かせといて良いわよ。そのうち目ぇ覚ますと思うし」
「そう?」
 小男の身体を引き摺り、傍の壁に寄りかからせるようにした後、少年は立ち上がって女を振り返った。

「じゃ、僕用事済んだからもう帰るよ」
「あら、中で檸檬(れもん)水でも飲んでいかない? 奢るわよ」
「ううん、今日はやめとく。家で親父も待ってるしさ。また来るよ」
「ふうん……。そうね、またいらっしゃいな」
 女は残念そうな表情を隠しもしなかったが、また来るという一言に納得して、少年を見送った。

 少年はその後南北に伸びる通りの人の流れに紛れ込み、民家のある北ではなく、南に向かって走った。居酒屋と安宿が並ぶ通りを駆け抜け、やがて交差点を曲がって西へ続く緩やかな傾斜の道を下っていき、港の入口、倉庫街へと入っていく。
 早朝には荷役業に関わる男達で溢れかえるこの区域も、今は静まり返っていた。夜の漁に出る者は別の停泊所へ既に船に集まっているのだろう、波止場のある付近の空が明るかった。

 少年は暗い路地を走り、やがて目の前に小さな明かりを見つけて立ち止まった。交差点に小さな蝋燭が一本立っている。集合場所の目印だった。

「よ。遅かったじゃないか、ティオ」
 脇の小道から声をかけられて、ティオは振り向いた。頭部を赤い布で覆った、彼より一、二歳ほど年かさの少年がひとり、壁に凭れ掛かっていた。

「リック。君ひとりかい?」
「ああ。他の奴ら、もう戻らせたぜ。収穫は?」
「あったよ。ほら、これ」
 蝋燭の淡い光に照らすように、ティオは懐から、さっきとは別の布の包みを取り出した。中に、褐色の粉末が入っている。女に会う前に、裏から忍び込んで失敬してきたものだった。

「こいつは……
 リックは、その粉末をひとつまみ手にとって匂いを嗅いだ。途端に、眉をひそめて嫌そうな顔をする。
 ティオも、既に無邪気な笑顔など微塵も残しておらず、険しい表情でリックの考えを肯定した。

「言ってた通り、芥子の一種だ。ライラさんが飲まされたのはこれだ。一回きりなら多分影響は残らない」
「へえ、良かったじゃん」
「全くね」

 ティオは素っ気無く答えた。リックはその様子に何か感じ取ったのか、年下の少年に遠慮がちに訊いた。
……なあ、()ったのか?」
「いいや」
「え、マジ? 手緩くねえか? 大将、姐さんの事で相当キてたんだろ?」

 まるで本人が近くにいるかのように、リックは言葉の後半部分で身を縮ませて声を潜める。ティオは、年長だが『仲間』としては後輩に当たる少年に苦笑してみせた。
「それほどでもないよ。今回のは序の口。本気だったら俺達に任せたりしないよ」
「あ、それもそうか。……で? これからどうするんだ」

 粉末を元通り包み直して懐に仕舞いながら、ティオは頷いた。
「俺達も戻ろう。頭領に知らせなきゃいけないことがある」
「了解。じゃ、行くか」

 リックは焔を吹き消して、蝋燭を地面からもぎ取った。
 二人は、『天空の蒼(セレスト・ブルー)』の船を目指して駆け出した。