Brionglóid

禍つ宮

禍つ宮

歪んだ楔

02

 八嶋は社に戻ると、まっすぐ斎女のいる拝殿へと足を向けた。神官長への報告は後だ。

 板張りの回廊を通る足音だけで、相手には彼の帰還がわかってしまうだろう。
 本当ならば入室前に(ひさし)の間で跪いて帰還の挨拶を述べるべきところ、斎女がそれらの形式を無視して御簾の奥から飛び出してきた。

「八嶋殿!」
「お、っと……」
 勢い良く抱きつかれ、咄嗟に八嶋はその少女の身体を受け止めた。

 おそらくはこんな事だろうと大体予想してきてはいた。しがみつく少女の背を撫でて、八嶋は穏やかに訊ねる。
「只今里より戻ってまいりました。それより、どうなさったのですか? 私をお呼びだと伺ったのですが」

 己の胸に顔を押し付けるようにして、美波はしばらく何も言わなかった。八嶋は辛抱強く待った。
 やがて、か細い声が胸元から届いた。

「朝、八嶋殿がいなくて……。私……、あなたがいなくなって、しまったのかと……」
「私が? 何を馬鹿な」

 笑い飛ばそうとした時、ばっと少女が顔をあげた。まるで糾弾するような眼差しに、意表を突かれた八嶋は作り笑いを引っ込めた。

 いつもの我儘とは少々事情が異なるらしい。
 しかし、待っても罵倒が飛んで来るわけでもなかった。仕方ない、と八嶋は内心溜め息をついた。

「……他の者に、言伝をしてあったはずです。里が襲われたのですよ、社の人間として行かねばならないことはおわかりでしょう」
 美波はやはり、見つめるだけで何も言わない。責め立てられるのかと身構えていた八嶋は、苦い思いでそんな彼女を見つめ返した。

──この年齢の少女ならば、致し方ないことではあるが……。

 思春期の少女は心が不安定で予想がつかない。親のぬくもりをほとんど知らずに育った娘なので、尚更揺らぎが大きいのかもしれない。
 いつもというわけではないが、時折美波はこうやって子供っぽい態度を見せたり、理屈の通らない我儘を言ってくることがあった。相手を振り回すことで関心を得ようとしているのは、八嶋にも何となくわかる。だが、今はそういうことに付き合っている場合ではないのだ。

「斎女。今は一刻を争う時なのです」
「わかっています!」
 叫んで、美波は再び八嶋の胸に顔を埋めた。

「でも、でも不安が消えないのです。こんなお役目は私の手には余るのに、投げ出すことは許されない。本当は逃げたくてたまらないのに……!」
「斎女」
 八嶋は抑えた声音で制した。少女の弱音は今に始まったことではないが、場所が悪い。

 寝殿造の社殿では、建物を囲む回廊は高欄がついているだけの吹き晒しだ。聞き耳をたてずとも話し声は他人に聞こえてしまう。
 八嶋は、美波の肩を抱くようにしてやや強引に室内へと連れ込んだ。
 静かな、しかし強い口調で諌める。

「斎女、そのようなことを口にしてはなりません。誰が聞いているとも限らないのですよ」
「斎女なんて呼ばないでください! 私の名前は美波です!」
「いつ……美波。よろしいですか、よく聞いてください」

 びくり、と少女が怯えたように硬直したのは、その言葉の意味を理解したためではなかった。
 その肩を抱く八嶋の手に、戒めるような力が加わったからだ。

「あなたがどうしても耐えられないというのであれば、仕方ありません。お辞めになるがよろしい」
「……!」

 少女が凝視してくるのを、あえて何でもないように八島は続けた。
「でもその際は、一人でここを出ておいきなさい」
「一人でって……や、八嶋、殿……。あなたは……? 一緒には……」

 しがみつく細い指が震えている。しかし八嶋は気づかぬ振りをした。
「参りませんよ」
「どうして!? どんな時も私の傍に居てくれると、あんなに……!」

 そうだ。いついかなる時も傍を離れないと、八嶋はずっと言い続けてきた。彼女が完全に自分に心を委ねるようにするために、ずっと。
 自分だけは彼女の味方であると、そう思わせるために。
 しかし八嶋は今初めて、違う言葉を口にした。

「それは、あなたが斎女だからですよ」
「私が……いつきめ、だから……?」
「私はこの里の神官です。あなたがお辞めになるなら私は次の斎女を探し、その方にお仕えするまでのこと」
「……」
「あなたが里を捨てるというなら、私はお引き止め致しません。ここでお別れです」

 ぴしゃりと言い放ったその言葉がどれ程の衝撃を与えたというのか、美波は大きく目を見開いたまま微動だにしなかった。その顔はいつも以上に白く見え、まるで人形になってしまったかのようだ。

 流石の八嶋もその様子に心が傷まないわけではなかったが、それにすら蓋をして彼女から身体を離す。
「我儘ばかり言ってないで、勤めを果たしてください」
 去り際にそう言うと、彼は踵を返す。

 八嶋は回廊を通って拝殿を突っ切り、更に奥の本殿へ足を向ける。
 美波は追っては来なかった。八嶋はそのことに妙な心残りを感じていた。

 これまで散々甘やかしてきた少女が、いずれは己の立場を客観的に理解しなくてはいけなくなることは必然だった。

 しかし、それは今だっただろうか。今の彼女は、それを受け止めきれるだろうか。
 歩きながらあれこれと考え、どうやら彩音が生きていた影響が少なからずあることに自分で気がついた。

 扱いの難しい美波よりも、力ある者の加護を受けて生き延びた彩音の方が、やはりこの里の斎女に相応しい。美波のような愛嬌はないが、責任感という面でも、母親を亡くした直後から幼い身で妹を守り続けて来た所を見れば十分だろう。
 一方の美波のあの幼さも、斎女という立場でなければ本来は愛されるべき部分だろうし、本人も重責に耐えかねて限界が近い。元々、皆の先頭に立つのに適した性格ではないのだ。美波が斎女になったのは、完全に周りの大人の都合によっている。

 そう。八嶋をも含めた大人の都合、だ。

 翻弄されてばかりの不運な姉妹への思いを巡らせ、八嶋は一度だけやるせない溜め息をついた。

 そして次の瞬間には、半ば強引に意識を切り替える。自分にはやらねばならぬことが山程あるのだ。
 辺りに人気がない事を確認し、彼は慎重にその場所へと向かった。

 場所は本殿の裏。何の装飾もない板切れのようなその戸は、周辺を植え込みで覆って隠してある。気をつけてみなければ誰も気がつかないような入り口に、八嶋は慣れた足取りで近づくと躊躇いもなく戸を開けた。

 黴臭い、ひんやりとした空気が溢れ出る。中は真っ暗だ。そこは部屋ではなく狭い通路に繋がっており、下へと続く石段がある。
 石段の先がどうなっているかは暗くて見えなかったが、八嶋は気にせずに先へと進んだ。通い慣れた場所なのだ。

 行き着いた先は、石壁に囲まれた地下室だった。
 部屋に入ってすぐの位置にあった燭台に、八嶋は火を灯す。たったひとつの小さな灯りは、四角いだけの部屋を薄っすらと照らし出した。

 奥には、四隅に青竹を立てた祭壇がある。榊の小枝をくくりつけた注連縄(しめなわ)で結界が作られており、更にそこを見守るような形で奥と左右の壁際に計八つの台座があった。台座にはそれぞれ「黒い塊」が置かれている。

 以前は配置ではなく鎮座していたそれは、よく見れば衣服を着た白骨体だった。長い月日とこの場所の湿気のせいで、肉体は朽ち果て、骨も黒く変色している。どの遺体も、正座をしてぽっかりとあいた眼窩を結界へと向けていた。

 八嶋はそれらに一礼をしてから歩を進め、結界の中へと入った。
 祭壇の前に跪き、更に礼をして手を伸ばす。
 真っ白な懐紙の上にいくつか、先の尖った黒い石の欠片が転がっていた。指先が触れると、まるで熱した炭のようにぼんやりと赤く光る。

 八嶋はそれらを恭しく手にとり、しばし見つめた。
「……やはり足らぬな、まだ」
 小さく呟く。

 それは結界が失われる未来を見越して、八嶋の一族が長い時間をかけて作ってきたものだった。見えないものを見、聞こえないものを聞くことが出来たからこそ、真に里の将来を憂いて、自らの命を削るようにして石に霊力を込めてきた。その成れの果てが、台座に座る者達だ。
 何人もの能力者の命を吸ってきた石は、その甲斐あって異形の力に対抗できるほどの霊力を内包するまでになった。

 神が去った以上、結界を維持する別の力が必要だ。八嶋の一族は、異形を捕縛してその霊力を結界の糧にしようと考えたのだった。八嶋は一族最後の一人として、この石を託されている。

 八嶋は石を手の中に包み込み、祈るように目を閉じた。
 予定通りであればこれで十分だったのだが、流れが変わってしまった。比較的大きな力を持つ異形を捕まえることができれば、数十年程度は保つだろうと言われてきた。しかし、これではまだ足りない。数十年結界が延命したとて、結果は大きく変わらないのだ。

 八嶋の眉間には苦痛をこらえるような皺が刻まれ、額には汗の玉が次々と浮き出る。石は貪欲に八嶋の霊力を貪り食う。まるで生き物のように。

 どんどん食らうがいい、と八嶋は思った。
 彼の脳裏にあるのは、ただの異形ではない。
 狙うはもちろん、彩音の傍にいる存在だった。

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