Brionglóid

禍つ宮

禍つ宮

月下の客人(まろうど)

04

 次の夜、銀の男は姿を見せなかった。
 それどころか、その次も、そのまた次の夜すらも。

 彩音が岩窟の海側にある入口を見つめる回数は、日を追うごとに多くなっていた。男が来るのはいつも夜だったにも関わらず、日がな一日、気がつけばそちらへ視線を投げてしまっている。
 そしてなんの変化もないのを見る度、溜め息を吐いて俯くのだ。

「何を期待してるのよ……」
 自らを戒めるように呟いた。

 期待、というのもなんだか違うような気がした。もしあの男がまた現れて、この間と同じような行為に出たなら、彩音はやはりどうしていいかわからず戸惑うだろう。

 銀の男はなぜあのような真似をしたのか。
 自分に劣情を抱いたから? ……まさか。こんな痩せこけた人間の小娘に。
 では、恋情を寄せてくれたのか?

「もっと有り得ない」
 彩音は溜め息を吐いた。そういった幻想を抱くには、相手があまりにも強大で、美しすぎた。せめて自分がごく普通の家に生まれた健康な娘であったなら、そんな夢を見ることも許されたのかもしれないけれど。

 それ以外で考えられるとしたら、憐れみだろうか。
 あの時も、確か自分が泣いたのがきっかけだったはずだ。異性とそういったやり取りをした経験の少ない彩音には、抱擁はともかく、同情のみでその先まで進む感情というのが存在するのか、理解しきれなかったが。

 去り際、男はひどく後悔していたように見えた。おそらく、彼としても本意ではなかったのだろう。

 しかし、あの男が来なくなった今も、この岩場は暖かく清潔だった。朝起きれば温かな粥が置かれている。灯りも油が途切れることがない。
 一番気がかりだった満潮の水位も、そういえば訪れぬままだ。ここから空は見えないが、祠に繋がれて十日は優に越えている。
 それらは、あの男の気持ちが完全にこの岩場から離れたわけではないことを示している気がした。 

「優しい方なんだわ」
 気持ちが離れたわけではないのならばなぜ、と恨む気持ちより、彩音は銀の男の思いやりを嬉しく思う気持ちの方が強かった。里の人間達とくらべても、彼は優しい。

 ここへ入る際、社の者達は食事は用意するといい、数日はきちんと格子の付いた入り口の前に置かれていた。しかし、次第に一食減らされ、一日減らされ、すっかり途絶えてしまうのも時間の問題だと思っていた。銀の男が現れなければ、自分の寿命はもっと短かっただろう。

 ここに姿を見せなくとも、彼は彩音に差し出した手までは引っ込めていない。この里に来て以来、そこまで慈愛の気持ちを持って接してくれたのは実の母くらいではなかったか。彩音にとってそれはとても重要な事だった。

 彼はこの地の神ではないと言っていた。それなのに、里の人間にそれだけ心を砕いてくれるとは、あの銀の男は一体何者なのだろう。
「そういえば、母上のことも知っていた。母上がお仕えしていた姫神のことも……」
 彩音は、改めて情報を整理しようと思い立った。

 どうやら、自分達人間が考えているものと、銀の男が言っている内容には差異があるらしい。

 佳蛇に限らず、大抵の里にはお宮やお社がある。そこには神職の者達が集い、祝詞をあげて土地神の加護を請い、里を守る結界を維持している。それとは別に、お社には巫女達の霊力によって別の結界が張られている、と言われていた。

 彩音が見える範囲でわかるのは、里を覆う結界というのが一種の力場の様なもので、実際は覆っているわけではないということだ。地面全体から微量の霊力のようなものが放出されていて、里の中心部から遠のくほど薄くなっていく。だから、異形の力量によっては人のいる場所まで入り込むこともあるのだ。

 一方、お社の結界はまさに膜のようなもので覆われていた。拝殿を中心に、境内を覆うように半球状の膜が張ってある。人間は入れるが、異形は一切立ち入ることが出来ない。

 彩音が神官達に教わったのは、それらが土地神の恩恵によるものであり、自分達神職の者が神の眷属となることで霊力を(たまわ)り、社の結界を維持しているという内容だった。

 しかし、銀の男に言わせれば佳蛇に土地神は存在しないという。神の眷属を自称する神官や巫女達に霊力がないのは、彩音も知っている。

「それじゃあ、結界って何なの……?」
 彩音は呆然と呟いた。今まで当たり前だと思っていた知識が、ひっくり返ったかのようだった。

 里を異形から守っている結界とは、誰が作って、誰が維持しているものなのだろう。それに、神でも異形でもない銀の男の正体は、一体なんなのか。そもそも異形とは?

 わからない。

 そういえば、この岩窟だってそうだ。『潮の祠』というからには、以前はここに神が祀られていたはずだ。彩音自身、海神の意思を問うためにここに繋がれているのだから、ここは海神の社なのだろう。では、今ある社はなんだという話になる。社の者達が『潮の祠』へ祈りにくることもない。

 土地神のいない空っぽの社。かつて海神を(まつ)っていた祠。誰の手によるものなのかわからない結界。

「わけがわからない。どういうことなの?」
 母の雪芽は知っていて、元の社の姫神に仕え続けたという。本当ならば、他の神の社に移っていながらそのような真似はできなかったろうが、この里にはそもそも土地神がいなかった。だから姫神の怒りを招くこともなかったのだろう。

「いいえ、土地神がいなかったんじゃない。以前はいたんだわ、この潮の祠に」
 姫神は悲しみで消えてしまったという。この里の神もきっと、何らかの理由で消えてしまったのかもしれない。

 ──その気になれば真の眼を得ることも叶おう。さすれば、多くのものが新たに見えてくるはず。

 銀の男の言葉が脳裏に蘇り、こういうことだったのか、と思った。次の瞬間、急に胸に突き刺すような痛みが走った。
 発作、だ。

「う……っ」
 唐突に襲ってきた激痛に、息が止まる。目の前に星が弾けた。

 少しでも動いたら痛みが倍増してしまう気がして、身体全体が強張る。衣服の胸のあたりを掴み、彩音は崩れ落ちるようにして岩場に蹲った。喉を何かが迫り上がってきて、()せた。

「げほっ、ごほごほっ……! か、は……ッ」
 うまく息ができなくて、苦しさのあまり涙が滲む。これ以上咳き込みたくないのに、喉に何かがつかえていて呼吸が出来ない。ひゅーひゅーと、喉が変な音を立てていた。胸の痛みはずきずきと絶え間なく責め立ててくる。

 口の中には鉄の味が広がっていた。口元を咄嗟に押さえた手が真っ赤に染まっている。
「ごほっ。ぐっ、……は、はぁっ、はぁ……っ」

 涙が更に溢れる。
 痛みと、悔しさと。いろいろな感情が、頭の中でごちゃまぜになっていた。

「げほっ……! がはっ、ごほごほッ、うう……ッ」
 痛みを堪えるために、意味もなく拳を岩場に叩きつける。何度も。
 そうしている内に、岩場に散る自分の吐いた血が、薄っすらと消えていくのが見えた。銀の男の力だ。

 今度は男の思いやりに対する感謝ではなく、焦りが彩音の中に生まれた。
 このまま自分が死んでも、この通り、綺麗に消えてしまって何も残らないのではないか。この身体も、苦しみも今までの惨めな思いも、何もかも。

「し、た……な……っ。……死に、た、くな……ッ」
 死ねばこの苦しみから開放されるのだとしても、いずれ何もかも消えてしまうのだとしても。
 まだ何も掴んでいないのだ。ようやく何かが見えそうだったのに。

「う……っ。ううーっ!」
 呼吸は次第に収まっていったが、別の苦しみが収まらず、彩音は呻くように泣いた。

 自分に残された時間は、あとどれくらいなのだろう。発作の間隔はかなり短くなっている。自分でも自信がなかった。

 このまま死にたくない。もっと生きたい。

 銀の男の前で一度本音を認めてから、今ははっきりとそう思うようになっていた。
 それが許されないならせめて、もう一度会いたかった。

「……銀の、君……」