Brionglóid

禍つ宮

禍つ宮

月下の客人(まろうど)

03

養父(ちち)は何も言わなかった。いいえ、多分言い出せなかったんでしょうね」
 口許に笑みすら浮かべて、彩音は言った。男は黙ってその顔を見つめている。

 神官長とはいえ、実際養父は他の神官達と同様に、霊力もないし異形を見る力も備わっていない。美波が横にいようが無理だった。ひた隠しにしてはいるが、所詮はただの人なのである。そのことに気づいていた彩音は、養父がそれでも人前ではあたかも『見えている』かのように振舞っていたことを、ひどく可笑しく思ったものだった。

 対して、八嶋は見えないモノを見ることができた。

 彼は、かつては雪芽と世界を共有できる里で唯一の男だった。幾ら冷酷に見えようが、同じ物を見る者として理解してくれる八嶋は、孤独な雪芽の心を何度癒したことだろう。その事実に嫉妬した神官長から、大人気ない嫌がらせを幾度となく受け続けていたことを、彩音は知っていた。もっとも、本人が涼しい顔を崩すことがなかったので、敢えて庇うこともしなかったのだが。

 それどころか、いつも感情の欠片も窺わせない八嶋の態度に、彩音はすっかり自分は疎まれているものだとこれまで信じ込んできた。
 しかしその一件からすると、むざむざ死なせるほど嫌われていたわけではなかったのか。
 一瞬そう思ったりもしたが、すぐ思い直した。自分はあの雪芽の娘で、斎女の姉だ。如何(いか)に気に食わないと言えど、そこまで関連のある相手を見殺しには出来なかったのだろう。

 養父は年若い八嶋に詰め寄られて、ひどくうろたえていた。
『これは間接的な同胞殺し』──今の状況が、逆に神の怒りを買ってしまう可能性を指摘されたからだ。
 しかし他の神官は構わず、多数派の勢いでもってその場で強引に事を進めてしまった。

 彩音の幽閉が確定した。八嶋一人では流石に阻止できなかった。

「成る程。それで、そなたがここにいるわけか」
 男は、静かにそう呟いた。その顔からは表情が読み取れなかった。

「八嶋はその日、夜の内に逃げるよう、さりげなく私に言ったわ。手筈(てはず)も整えてくれた……」
 が、彩音は逃げなかった。己の限界を知っていた為だ。それから、美波の為。

 重い病に侵されても、最期は穏やかだったと、薬で眠る自分を見て安心して欲しい。無様に血を吐いて、のた打ち回って事切れる様を見られるよりは、ずっといい。妹一人で大丈夫だろうかと不安だったが、余計な心配だったようだ。美波は、一人でもちゃんとやれている。傍には八嶋もいるだろう。大丈夫。

 大丈夫。大丈夫……。己にそう言い聞かせて、彩音は仮死という名の眠りについた。

「……今思うと、浅はかだった。ここに鎖で繋がれて、初めて判ったの」
 いざこうやって、死ぬまでの僅かな時間を鎖に繋がれてみると、胸の奥底から暗く重たいものが消え去っていない事に嫌でも気づかされたのだ。

 選び取ったこの結果に納得している自分と、そうでない自分が心の中に存在していた。
 美波への思いは本物なのに、胸の奥がざわつく。ふとした瞬間に鼓動が速くなる。
 その度、瞳の表面が熱く潤みそうになるのを、唇を噛み締めて堪えた。ともすれば、なりふり構わず泣いてしまいそうだった。

 不思議だった。
 泣かなくてはいけない理由は、もう何処にも無いはずなのに。不安は、全部打ち消してから、ここへ来たはずなのに。
 それなのに、嫌だ助けてと、狂ったように叫び懇願する自分がいる。無理だこれが運命なんだと言い聞かせる理性を振り払って、ずっと悲鳴を上げ続けている。

「あんなに強がり言ってたくせに……。本当は、死にたくなんかなかったんだ、って……」
 ぽとりと、涙が一粒、頬から顎を伝って落下した。後悔の表れだった。

 不意に、衣擦れの音がした。灯かりが遮られたことを不思議に思う間もなく、次の瞬間には、彩音は男の腕の中にいた。
 そこがあまりにも温かくて、堪えきれなくなった彩音はとうとう声を殺して泣きだした。

 男は何も言わなかった。黙って、彩音のやせ細った身体を抱き締めている。これまで、男が指先で触れてくることはあっても、こういったことをするのは初めてだった。

 自分が泣いたりしたから、慰めてくれているのだろうか……。泣きながら、少しずつ落ち着きを取り戻してきた頭で彩音は思った。
 しかし何故か、男の方が縋ってきているような気もして、彩音は恐る恐る腕を持ち上げて男の背を撫でた。ゆっくりと、何度も。

 静かに時間が流れていく。

 これだけ力あふれる存在だというのに、時折この銀の男は頼りなげに見えることがある。いや、それは自分の傲慢な思い込みなのかもしれないと、彩音は慌てて心の中で打ち消した。

 すると男は、おもむろに彩音の顎に手をかけた。
 彩音の意識がどこかで警鐘を鳴らしたが、世間知らずの少女はその意味に気づけなかった。あるいは、彼の琥珀の瞳が持つ力に魅了されたのかもしれない。
 呆然としているうちに、彩音の唇は、他愛もなく男に奪われた。

「………っ!」

 初めての感触に、目を見開く。
 驚いて反射的に身を引こうとするものの、柔らかく拘束されて身動きがとれない。それどころか、男の腕はさらに彩音の身体に絡みつけられた。彩音の怯えを感じ取って、逃すまいとするかのように。

 彩音の頭の中は一層混乱を深めた。

 性別を超えた人外の美しさから、無意識に異性として見ることをしていなかったのだ。知性を湛えた静かな眼差しに、勝手に安心しきっていた。更にあろうことか頼りなげだなどと、彩音は自分の愚かさに今更情けなくなる。
 今自分を抱きしめるこの腕は、間違いなく「男」のそれだった。

 ──逃げられない。

 そう認めた途端、捕食されるかのような軽い絶望を感じた。
 同時に、角度を変えてついばんでくる唇の柔らかさと、その隙間から漏れる吐息の甘さに気づいてしまい、耳のあたりがかあっと熱くなる。

 彩音が必死に男にしがみつくと、それをあやすように優しい愛撫が全身を包んでいく。ぞくりとした小さな身震いが背筋を走ってからは、次第に力が抜けていった。身体の芯に小さな炎が灯ったような、不思議な感覚だった。

「彩音」
 男がそう名前を口にするのも、こんな熱っぽい呼び方をされるのも初めてで、彩音は思わずびくりと肩を揺らした。
 間近から彩音を見つめる男の瞳には紛れもない情欲の色があり、彩音は改めて戸惑った。

 不安げな彩音の顔を見て取り、そこで我に返ったらしい男は、次の瞬間にはすべての熱を消し去ったかのような表情になり、身体を離した。
 それどころか、ここへ来た時よりも明らかに深い苦悩を滲ませて呻いた。

「……私は……何という真似を」
「……」

 彩音が困ったような表情で俯くと、男は早口で告げた。
「すまなかった。許せるはずもなかろうが、どうか忘れてほしい。……今宵はこのまま帰るとしよう」
 突然、男は立ち上がるとさっと身を翻した。
 あまりにもそっけなく立ち去る彼に、彩音は何も言わずに見送ることしかできないでいた。