Brionglóid

禍つ宮

禍つ宮

巫女の弔い

05

 ふと、男が視線だけ動かして彩音を見た。

「だが、これだけ夜を重ねても、そなた自身の話は一切無かったな。私としてはそのことが残念極まりない」
「…………ッ」
「今のそなたの境遇を思えば、言いたくないのもわかる。しかし、そなたに関わる全ての物事が呪われていたわけでもあるまい。自らを、あまり追い詰めぬことだ」
「……私は」

 小刻みに震えながら彩音は青褪め、俯いた。着物の裾を握り締める。痩せてみすぼらしいその顔を、男は見つめ続けた。

「私は、違うの。私はあなたが思うような人間じゃない」
「妙なことを言う」

 男は含み笑いを零した。否定するにしては弱々しく、彩音は首を横に振りながら言った。
「いいえ、本当に違うのよ。そもそも、私は自分が本当に巫女であるかどうかもよくわからないし。でも……、この岩場で死を迎えねばならないのなら、やっぱり私は巫女なんでしょうね」

 もしただの人間であれば、母も、自分も、死に際くらい穏やかにいられたのかもしれない。
 土地神に仕える神職の者。その者の『死』は凶兆だ。だからこそ、自分はこんな……暗く冷たい場所で、孤独な死を迎えることになったのではないのか。唯一の肉親に看取られることもなく。

 でも本当は、それすらも里の神官達の方便で。

 (てい)のいい厄介払いだと、充分承知している。何が神のご意思だ。この岩窟が満潮になれば海の底に沈むことは、里の者であれば誰だって知っている。
 自分は、美波に出来る限り辛い思いをさせまいと、それだけでこの境遇を甘んじて受け入れているだけだ。土地神がいったい何をしてくれるというのだ、母の時ですら、傍観者に徹した神だというのに。

 あの母で無理なら、自分の如き存在が“神”の慈愛を受けて救われるなど、あるはずもない。だから彩音は、はじめから死を覚悟してここに入った。巫女としてここに繋がれ、人として死ぬのだ、と。

「巫女、そなたの言霊(ことだま)は力を持っている。そうやって、自らの言霊で己を縛り付けるな」
「……それが本当なら、私じゃない、妹の力よ。美波の傍にいると、影響を受けて私にも異形が見えるようになったから。本当は……私は、母上や美波が傍にいなければ何の力もないの」

 彩音はとうとう最大の秘密を暴露した。今まで誰にも話せずにいたことだ。何故自分はこの男にこんなことを言っているのだろう。

「では、妹巫女の祝詞がこの地を満たし、そなたの言葉すらもその恩恵を受けた、とでも言うのか、巫女よ?」
「だって、それ以外に考えられないでしょ。あなたがこの場に呼ばれたのも、美波の編んだ祝詞が耳に入ったからじゃないの? 常人の私の声はそう遠くまでは届かないし。だからあなたはあの声に惹かれて、それで……」

 (いぶか)しげに答える彩音は、本当にそう信じきっていた。
 そんな彩音に、男は杯を傾けながらおもむろに訊ねた。

「最初の夜……舞をもってそなたは土地神の眷属になったと言ったな。十一年前、社で舞を奉げたのはそなたではないのか」
「え?」

 意表を突かれ、一瞬何を言われたのか理解できなかった彩音は、呆けたような顔で聞き返した。

「十一……ええ、そうだけど。それが……?」
 十一年前と言えば、彩音の母が死んだ翌年だ。七歳の彼女が致し方なく奉納舞を舞った、あの年。
 それを聞くと、男は懐かしむように薄く笑った。

「やはり。私がはじめにここへ足を運んだは確かに気まぐれからだが、その面差しには覚えがあると思っていた。……しかし、妙縁もあったものだ。あれは見事な舞であった」

 彩音は驚いて男を凝視した。男があの場にいたという偶然が信じられなかったのだ。
 咄嗟に記憶を洗うが、思い出せない。あの時は自分も幼かったし、急な出来事で余裕がなかったからかもしれないけれど。
 だがそういうことならば、今この男が死に行こうとする自分にあれやこれやと言うのも、多少頷けることではあった。

「あなたは……あれを見ていたの?」
 驚きも(あらわ)に彩音が言うと、男は、今度は彩音に向けて笑って頷いた。
「私でなくとも、あの様な舞と祝詞を捧げられては、(たと)え果ての地にいる草木の精霊とて無視はできまい」

 いささか妙な言い回しに、彩音は引っかかるものを感じた。
 ごくりと、知らずに息を呑む。
 気紛れにここへ立ち寄っただけの力ある異形とばかり思っていた。唐突な現れ方といい、常人離れした佇まいといい、まさに話に聞く(あやかし)の王か、それに順ずる者だと。

 だが、目の前の男には、肝心の“虚無”も“狂気”も見当たらなかった。それどころかこの男は……まさか。

「あなたは何者なの……?」
 もう一度、慎重にそう聞く彩音の様子に、男は可笑(おか)しそうに口端を吊り上げて答えた。

「どうでも良いことだ、佳蛇の巫女よ」
「……っ」

 確信に至るなり、彩音は全身から血の気が引くのを感じた。堪らず、ばっとその場に平伏す。鎖が高く鳴った。

「知らぬこととはいえ、海の(ぬし)様に対し(たてまつ)り、ご無礼の数々(ひら)にご容赦くださりませ……!」
「私がこの海の主人であると、何故そう思う」
 男は否定もせず、逆にそう問いかけてきた。
「ただの異形かも知れぬだろう」

 彩音は、岩場に手を着いたまま顔を上げ、男の顔を見つめてこう答えた。
「それは……ありえませぬ」
「何を根拠に」

「あなたがもし異形ならば、私はなんとしても生きて里に戻り、皆の間違いを正さねばなりません。この世に、そのような賢者の瞳を持つ異形がいるのだとしたら」
「…………」

「今まで、数々のご無礼を働きましたこと、お許しくださりませ、どうか!」
 彩音はすぐまた顔を伏せ、額を苔生(こけむ)した岩場に擦りつける様にして必死に謝罪した。
 が、男は大した感慨を受けた風でもなく、面白くもなさそうに目を細めた。

()めよ」
「全ては私の至らなさによるもの。責めはこの身が受けましょう。ですからどうか、里の者には何も……!」
「止めよと言うておる!」

 厳しい声が飛び、彩音は黙った。ふう、と息をひとつ吐いて、男は低く告げた。

「里には何もせぬ。案ずることはない」
「あ……」

 ありがとうございます、と蚊の鳴く様な声が彩音の唇から漏れた。死装束を纏った細い肩が震え、嗚咽が漏れていた。

「謝る必要もない。私はそなたらの言う“海の神”などではないからな」
「え……っ」

 彩音が顔を上げて、涙に濡れた目を見開く。男は続けて言った。
「私は少なくとも、この里にいる人間どもの誰よりも古くからこの地にいるが、そのような者は私とても見たことがない」
「なん……っ」

 そんなはずはない。だって、民や自分が見えないのは仕方がない。だが、母も、八嶋も、美波も。『そこに神が存在している』のを知っているから、ああやって毎日毎日お社に篭って祝詞をあげているのではないのか。

「もっとも、そなたの母はそのことも承知だったようだが」
「! あなた様は、我が母をご存知なのですか……?」
「存じているとも。今の世には稀だ、あのように秀でた巫女は。たおやかで、聡く、美しかった……」

「なぜ……」
 じゃらり、と音がしたのに男が目を向ければ、平伏していたはずの彩音が自分の足に縋り付いていた。

「何故です!? ご自分の巫女が、人間の男に無理強いされているのを、黙っておられたのですか!?」
「私はここの海神ではないと言ったはずだ」
「この地に、あなた様の他に相当する者が誰もいないというのであれば、母が祈りを捧げていたのはあなた様に対してでございましょう! 違いますか!?」
「……。私ではない。残念ながら」

 男が目を伏せたので、彩音ははたと我に返った。
 この男ではない……?

「そなたの母は、以前余所(よそ)の社の斎女であった。小さな山の寂れたところで、巫女は雪芽一人だったようだ。子を守る姫神であったから、あれが母であることもそなたの存在も許された。男神であったら決して許されぬことだ。斎女は神の妻となるべき者だから」

「…………」
「姫神の方も、雪芽を好いておったようだな。雪芽も、ヒトの子を宿したというのに斎女の神気を失わなかった。だから、資格を失うても社にいることが出来たのだろう。社が燃えてこちらに移されても、雪芽は姫神の巫女であり続けたのだ」

「その、姫神様は、今はいずこに……?」
 会ってみたい。母と繋がりを持つその神に、無性に会いたくなって、彩音は訊ねた。
 が、男の返答はそっけない内容だった。

「おらぬ。社も斎女も失った悲しみで、消えてしまった」
「消えた……」

「巫女よ。そなたの眼は確かに開かれてはおらぬ」
「……っ」

 自分で常人だと言ったくせに、いざ他の口から断言されると堪えるものがあって、彩音はぐっと奥歯を噛み締めた。
 男は強張ったその頬に手を伸ばし、(ほぐ)す様に軽く撫でた。黒目がちな彩音の目を、正面からじっと見据えて。

「だが、その気になれば真の眼を得ることも叶おう。さすれば、多くのものが新たに見えてくるはず」
「…………。で、でも、私には……もう、時間が……!」
「まだ遅くはない。巫女よ。眼を背けるな。真実を掴むが良い」
「…………」

 男の、端正な顔に見つめられて、彩音は言葉をなくした。
 まだ遅くはないと、言ったのがこの男でなければ本気で受け取ったりはしなかったろう。自分の死期は決して遠い先のことではないから。
 だが……。

「私……いえ、わたくし、は……」
「“私”で良い」
「えっ」

「そちらの方が似合う。今更気取ることもなかろう。それにどうせ、普段はそちらを使っていたのであろうが。堅苦しい言葉遣いはやはり似合わぬ、私は自然なままのそなたが良い」

 言うだけ言って、男は立ち上がった。思わずその動作を目で追った彩音に軽く微笑んで、身を翻す。
 又来る、と、それだけ言い置いて。