Brionglóid

禍つ宮

禍つ宮

巫女の弔い

04

 それでもやはり、翌朝眠りから覚めてみると、すべてが夢の中の出来事のように思えたものだった。

 また夜が来て、岩窟の中に男が現れた時、彩音は唖然とした。

「さあ、話を聞かせてくれ。巫女」
「話……?」
「昨日、約束したろう」

 あっさりと言われ、彩音は戸惑った。確かに約束はしたが、本当に来るとは思わなかった。しかも、次の日になんて。

「でも……。何を、話せば……」
「そなたが今守ろうとしているものだ」

 男は着の身着のままといった状態だったが、彩音の傍らに腰を落とした途端、小さな灯かりがどこからともなく出現し、手には酒が満たされた(さかずき)が現れた。その杯を傾けながら、男は言った。

生命(いのち)を賭すほど素晴らしい土地なのだろう、あの里は。では、語る事も多かろう」
「…………」

 彩音は言葉に詰まった。
 何か思い出そうとすれば、辛い記憶ばかりが甦った。養父のこと、母の死、神官達の仕打ち、不治の病。どれも、酒の肴に相応しい余興となりそうな話ではなかった。

 小皿に満たした油の中に芯を入れただけという、粗末極まりない小さな灯かりを間に置いて、二人は相対していた。
 辺りは静まり返って、ただ、油の燃える臭いが微かに漂うばかり。

 男が動く気配はなく、仕方なく、彩音は過去の記憶の引き出しを漁り、その中から比較的温かなものを選んで言葉にしていった。
 過去をひとつひとつ振り返る作業は、彩音には正直辛いことだったが、じっと聞いている男の横顔を見れば、とてもやめる気にはなれなかった。

 男は、次の日も、その次の日もやってきては彩音の話に耳を傾けた。

 どこまでも不思議な男だった。典雅な中にも神々しいような気を纏い、凛として近寄り難いかと思えば、猫のようにふらりと現れて側に居座っている。その上、たまにはお前も飲めと酒の入った杯を寄越(よこ)してくる気さくさだ。

 男は硬い岩場に優雅に座して、持参した酒をちびちびやりながら、決して話し上手などではない彩音の言葉を黙って聞いている。思いつく限りの話を訥々(とつとつ)と語る彩音は、こんな有触れた話などつまらなくて聞き流しているのではと、時折言葉を切ってしまうのだが、しかし男は、その都度目を上げて続きを促してくるのだった。

 この男は、何が楽しくてここへ来るのだろう。

 男と数回にわたって夜を語り過ごすうち、言い知れぬ不安が心の内で育っていった。
 男の考えが読めない。その不安が、ただでさえ多くはない彩音の言葉を余計少なくしていった。

 その夜、いつまで経っても黙ったままの彩音に、男は唇に杯を寄せるその手を止めて視線を向けた。

「巫女? 気分でも悪いか」
「いえ……そうじゃ、ないんだけど……」

 言い難そうにして、彩音はそこで目を伏せた。
 すると、彩音の顔をじっと見ていた男が先に口を開いた。

「昼の間に、また発作を起こしたのか」
「え……」
「血の匂いがする」

 何気なくそう指摘され、彩音は俯いた。
「…………」
 身の置き場がないくらい、恥ずかしいと思った。

 何せ、自分は鎖に繋がれて久しい。通気性のいいとは言えない岩窟の中で、潮の香りに混ざって確かに異臭が漂っていた。鼻が慣れてしまっている彩音はともかく、外から来た者はどんなにひどい思いをすることだろう。
 どうしようもないこととはいえ、目の前の存在の美しさが惨めさを更に大きくさせた。

「……ごめんなさい……」
「何故そなたが謝る。私は責めたつもりはない」
「でも……。誰かを招き入れるには、あまりにも……」

 酷い有様だ。言外にそう告げた彩音の意を汲み取り、男はちらと暗い岩窟の中を眺めた。

 そもそも、ここは人間が昼夜を過ごすような場所ではない。気にする以前の問題だった。ここに彩音が鎖で繋がれていることこそが異常なのだが、それを彩音に告げたところでどうなるものでもないと思ったのだろう。男は、杯を持った手と逆の手を、ふと持ち上げた。

 それだけだったのだが。

 あっという間に汚物は一掃され、岩窟には清涼とした潮の香りのみが満ちていた。それどころか、彩音の衣装も真新しくなっており、冷たい海風も遮断されて辺りはまるで春の日差しの中にいるような暖かさになった。

「すまなかったな、巫女。私こそが気を遣うべきであったのだ。……どうも、ヒトの目線でものを考えるのは不得手(ふえて)でな」
 何でもないことのように男はそう言い、そして、本当に何もなかったかのように再び杯を傾けた。
「気になることがあれば遠慮なく申せ。私では気づかぬことの方が多そうだ」
「…………」

 彩音は、垢や血液などで薄汚れていたはずの着物が、男が片手を上げただけで元の白い衣装になってしまったのを、言葉もなく見つめた。

 何気なく振るわれた、偉大な力。
 今まで抱えていた不安が、明確な形を持った瞬間だった。

 死を目前にした自分とは、対極の位置にいる者。それは、己を映す鏡でもあったからだった。
 輝かしい存在と、影さす自分。

 ぐっと握り締めた自分の拳は、骨にかろうじて皮が張り付いているような有様で、以前より更にみすぼらしかった。目の前の相手はこんなにも美しいのに。

「あなたは……いったい何者なの? どうして死にかけの私なんかに構うのよ。単なる暇つぶしにしては、ちょっと趣味が悪いわ」
「ふふ、趣味が悪い、か。そうやもしれぬな」
 笑いながら、男は酒を口にした。

「燃え尽きる寸前の(ほのお)に見惚れるが如く、私はそなたの魂に魅了されている。一瞬たりとも長く見つめていたい。有限なればこそ、この世の全てが私にはいとおしく思える」
「なっ……」
 傲慢な台詞に、彩音は言葉を失った。

 だが、彩音はその言葉に含まれた別の意味合いに気づいて男を見た。やはり、彼は永遠に近い時を生きる者なのだろう。だが、有限なればこそ……と呟く彼自身が、その時は何故か(はかな)く見えた。