Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

人魚(シレーナ)

24

 突然の大声に、ルシアス以外の人間も視線を投げた。声のした方ではなく、海の向こうへ。

 空は既に明るくなっており、だいぶ視界がひらけていた。朝日が昇る方角には陸地の連なりが見え、その手前の海上にはこちらに向かってくる複数の船影が伺える。

 ディアナはその船団を睨んで呟いた。
「ヴェスキアの自警団か。こんな間近でドンパチやってりゃ、そりゃあ目をつけられるわね」

 ルシアスが事態の収束を急いでいたのは、火事のせいだけではなかった。
 夜の闇の中で戦闘を繰り広げれば、近くの港には明かりで気づかれてしまう。特に貿易に重きをおく商業都市として、自治の意識が強いヴェスキアはこの手の事には敏感なのだ。戦闘やむなしとなった時点で、ヴェスキアが朝を待って動き出すだろうこともルシアスは予測していた。

「ここは足場が悪すぎる。細かいことは一旦置いて、今は面倒な来客に備えるぞ」
「ルース。その前に報告がある」

 そう言って一歩前に出たのはジェイクだ。足を止めて振り返ったルシアスに、船医は真顔で言った。

「この船で肺病患者が出た。行動は慎重に頼む」
「肺病……!?」

 ファビオが愕然として訊き返す。周囲にいた海賊たちも、声にこそ出さないものの皆表情を強張らせた。

 それも致し方のないことだった。後の世に結核と呼ばれることになる肺病は、原因菌の存在が発見されるまでに実に多くの人間を死に追いやっていた。この時代の医療の知識と技術では、潜伏期間のある感染症になど太刀打ちできるわけもない。
 実際は肺に限らず、どの部位に感染したか、いつ発症するのかは個人差があった。原因がわからないまま、あるいは同じ病気と気づかないまま、いつの間にか本人だけでなく家族や周囲の人間まで羅患してしまう。

 肺病の発作の苦しさは、まるで海で溺れているかのようだと言われていた。致死率も高く、まさに悪魔の呪いのような死の病だった。
 ルシアスは少しの間黙り、それからおもむろにジェイクに訊いた。

「宣教師、か?」
「そうだ」
「へ……?」

 理解の追いつかなかったファビオが訊き返す。だが、ディアナは別の意味で驚いていた。ルシアスはエスプランドル語を話せないので、マルセロとフェルミンのやりとりはわからないはずなのだ。

「どうしてそれを……」
「ただの推測だ」
 ルシアスは誇るでもなく淡々と返した。
「陸の手前での救援要請、放置されていた病人達、姿を見せない宣教師。全部不可解だった。でもそこに検疫の拒否や無茶な抜錨とくれば、よほど急ぐ事情があるか、もしくは公にしちゃまずいことでもあるのか、だろう」

 ディアナとファビオは顔を見合わせる。ルシアスは続けた。

「救援を要請したのはお前たち二人だろうが、検疫を突っぱね、慌てて錨を揚げるだけの権限を持っているのはその宣教師も同じじゃないのか? 医学の知識があれば自分の病状も十分わかっていただろうしな。とにかく陸に行きたかったんだろう」

 ルシアスの推測の通り、クレメンテ神父は自分の状態を理解していたからこそ、一刻も早い下船を望んでいた。しかし船医が死亡し、寄港するも検疫で足止めを食らってしまった。
 焦った宣教師は普段冷静な修道士フェルミンにのみ事実を打ち明けるが、彼は落ち着いて対処するどころか、陸へ行くためにと暴走に近い行動に出たわけだ。肺病に有効な薬などはなく、綺麗な大気と豊富な栄養、そして安静という自然療法しかないためだ。どれも航海生活では手に入らないものだった。
 ファビオが悔しげに呻く。

「何もかも、保身だったってことか!? あの野郎、どこまで勝手なんだよ……!」
「そもそも肺病に港の検疫はあまり意味を成さない」

 苦い溜め息と共にジェイクが言う。
「元々ひと月程度で収まる病じゃないんだ。こいつは俺の経験でしかないが、強くなったり弱くなったりを長い間繰り返しているように見える。その弱くなった時期、咳が治ったからと楽観して歩き回れば船内がえらいことになっちまう。あの男が部屋に籠もってたのはその意味では正解なんだ」

「当初知らされていたのはフェルミンだけだったみたい。ロヘルにもただの風邪だって言ってあったって……」
 ディアナも俯きがちに言った。自尊心の高いあの宣教師は、女性である船長に相談するなど欠片も考えなかったのだろう。その意地の代償として、クレメンテ神父は地獄のような苦しみの発作を周囲に隠し通すという、辛い試練を受ける羽目になったのだ。

 やがて、病気は進行して喀血が始まった。船のためにも国王のためにも、そして何より自分のためにも、彼は少しでも早く陸へ戻らねばならなかった。戦闘による足止めすら煩わしく、クレメンテ神父は一部の水夫を連れて人魚号を脱出しようとした。吐血を誤魔化すために、死体から血まみれの服を剥ぎ取って。

「でも、陸にいきゃ治るってもんでもないんだろう?」
 ファビオが訊くと、ジェイクは軽く首を振った。
「治るどころか、もって三ヶ月ってとこだろうな」
「……っ」
 ファビオもさすがに言葉を呑み込む。いくら反りの合わない教会の人間だったとしても、その死を喜ぶような男ではないのだ。

 周りの男達も、不安そうな表情で彼らの話を聞いている。戦いに身を投じるのは平気なくせに、病で死ぬのは怖いらしい。
 ジェイクはそんな周囲を見渡し、言い聞かせるように告げた。

「でも船の中に押し込んでおくより何倍もマシだ。本人の症状も緩和する可能性があるし、何より乗組員に感染する危険が減る」
「……わかった。具体的には、どういう対応をとればいい?」
 皆がまだ戸惑いを隠せない中、ルシアスが落ち着いた態度で訊ねた。すると不思議な事に、ざわめいていた男達もしんと静まり返る。

 横から見ていたライラは、今までも何度か目にしたその光景に改めて感心した。

 ルシアスはこういう時のさりげない立ち回りがとてもうまい。姿勢、目線、声音。静かだが、堂々としていて強さを感じるのだ。
 周りが不安に支配されそうになっても決して流されないし、大声を出して発破をかけるでもなく、ほんの一瞬で周囲の人間の注意を引きつけてしまう。部下が動揺しているときこそ、揺るぎない姿勢を示すのが頭領として何よりも重要だとわかっているのだろう。
 実際、腰の引けていた海賊たちは、ルシアスの一言で我に返ったような顔をしていた。

 ジェイクは少し考えてから、ルシアスに向き直った。
「基本的に患者は隔離だ。こいつは変わらん。一刻も早く陸に上げる必要があるが、それまでは俺が()る。診断書を書いてやるから、検疫所ではそれで下船の話をつけられるはずだ」
「では問題は、この船をどうやって陸まで動かすか、だな」

 ルシアスの呟きに、即座に答える者はいなかった。肺病に感染するかもしれない船に、好んで乗りたい者はいないだろう。
 すると、ディアナが迷いながら口を開いた。

「差し出がましいことを言うようだけど、あたし達がやるのはどう? 人手が足りないからそれは補充してもらわなくちゃいけないけど、もちろん港についたら船を明け渡すわ」
「また後ろから、銃口を向けられる羽目にならなきゃいいんですが」

 バートレットが当てこすると、ディアナは恥じ入ったように俯いてしまった。しかし、代わってハルが反論した。

「それはないんじゃないか? 陸に行くっていう目的が一致した以上、こいつらに俺達を襲う理由がない。今更争ったところで、人手不足も病気も解决しねえしな」
「でも国王の私掠船なんでしょう。本国に何としてでも帰りたいと思ったら、足をすくう機会は最後まで狙うかもしれないじゃないですか」
 ルシアスを狙われたという危機感からか、尚も食い下がるバートレットに、今度はファビオが答えた。

「一理ある。けど、大国エスプランドルを舐めてもらっちゃ困る。多分だが、昨夜戦ってる時点でヴェスキアから本国に向けて密使が走ってるよ。俺達が負けたのも追って知るだろう。負け犬の海賊崩れがのこのこ帰ったところで、両手広げて歓迎してくれるような国じゃないんでね」

 その言葉を聞いて、フェルミンの「捕虜は潔く散れ」の一言を思い出した『天空の蒼(セレスト・ブルー)』の面々はやや渋い顔になった。この分では交渉したところで身代金も期待できそうにない、と。