Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

人魚(シレーナ)

20

『ぎゃああ……っ』
 絶命の叫びと共に、血まみれの男が上から降ってきた。途中で階段にぶちあたり、ごろごろと転がり落ちると、口から大量の血を吹き出しながら生気のないうつろな目をこちらに向けてきた。

 先を急いでいる中での突然のことに、一瞬足を止めたライラ達だったが、彼らの中に怖気づくような者はいなかった。
「派手にやってるな。ルースの野郎、俺達がいること忘れてんじゃねえだろうな?」
 ジェイクがやれやれといった様子でぼやいた。

 すぐそこの昇降口から垣間見える露天甲板からは、雄叫びや剣が交わり合う甲高い音が無数に届いてくる。鼻をつく血の匂いと、それに少し混ざる何かが燃える匂い。湿った海の風がそれらを下層の彼らのもとまで運んできた。
 若干呑気にも見えるジェイクとは裏腹に、ライラをはじめ、バートレットやディアナはそわそわしていた。戦いの気配を直接肌に感じ取れる場所まで来たことで、神経が高ぶっているのだ。

 ディアナは部下がやられたことに嘆き悲しむわけでもなく、むしろ死んだ男に真摯な眼差しを向けた。
『ルカ。あんたは海の上で、仲間とともに勇敢に戦って死んだ。あたしはあんたの仲間として、死ぬまでその事を誇りに思おう』

 簡潔な弔いの言葉を告げると、ディアナは不敵な笑みを浮かべてライラ達に向き直った。
「参ったね。止めなくちゃいけないのはわかってるけど、あたしも戦いたくなってきたわ」
 それは、敵討ちというよりは、私掠船の船長として真っ向勝負したいという欲求から出た言葉のようだった。

「気持ちはわからなくもないですが、別の機会に願えませんか」
 今はそれどころじゃないでしょうと、バートレットが呆れたように諌めると、ディアナは唇を尖らせた。
「言ってみただけじゃないか。わかってるよ」

 それから不意に、ディアナは表情を消した。
 他の者達も、理由はわからないまでも察して口を閉じる。

 ディアナは視線を薄暗く埃っぽい周囲に走らせた。上の喧騒にかき消されて物音までは聞こえなかったが、彼女は注意深く辺りの様子を探った。
 最終的に、壁際にずらりと並んだ大砲の一番奥に視線を止めたので、一同もつられてそちらを見る。

『そこにいるのは誰?』

 張り上げた声だったが、詰問口調ではなかった。医者や料理人などの非戦闘員は、戦闘中に隠れてやり過ごすのは珍しくないからだ。

 海戦では、相手が海賊であったとしても、必ず皆殺しになるわけではなかった。武器や金目のものさえ奪えばそのまま去っていく場合もあるし、使えそうな人材なら連れて行くこともあった。
 しかしいくら隠れていたとしても、露天甲板のすぐ下ではとばっちりを食う可能性も高く、ディアナとしては更に下層に誘導しようというくらいの気持ちだったのだろう。
 声をかけられた方は、暗がりでうまく隠れていたつもりだったのか、驚いて身動(みじろ)ぎした。しばらく返答はなかったが、ディアナ達がいつまでも立ち去らないので観念したらしい。

 やがて、四名の乗組員が彼らの前に現れた。年の頃は様々だったが、全員が一般水夫だった。
 真ん中にいた中年の男が、敵意のこもった目をディアナに向けた。

『何故ここにいる、ディアナ』
『今日の昼間までは船長だった人間に、敬称も無しかい。わかりやすくていいけどね』
 ディアナは不愉快そうに鼻に皺を寄せた。

『あんた達こそここで何やってんのさ。こっちから売った喧嘩を途中放棄? 随分なご身分だこと』
『喧嘩を売ったつもりはない。ある目的ができたから先を急ごうとしただけだ。足を引っ張るような真似をしてきたのは海賊どもだ』

 男達はむきになって言い返すではなく、淡々と言った。本気でそう思っているようだった。
 ディアナはそこに何を感じ取ったのか、仮面のような冷たい表情になって彼らを見据えた。

『何事にも、順序ってもんがあるのよ。立てなくちゃいけない義理ってやつもね。クラウン=ルースに恩を仇で返し、戦う仲間をよそに自分達だけ隠れんぼかい? 気高きエスプランドルの名が泣く外道ぶりじゃないか』
『愚かな女如きが、知ったような口をきくな!』

 母国語でやり取りするディアナの後ろの方で、ライラは周囲の様子に神経を尖らせていた。
 会話の内容がわからないので、逆に意識がそちらに偏らずに済んだとも言える。上の戦闘は相変わらず激しく、いつここが巻き込まれてもおかしくない。

 しかし、ライラが気になったのは上ではなく、別の部分だった。
「何か変だ。まだ誰かいるんじゃないか……?」

 ライラが注目しているのは、先程の大砲の影だった。
 その言葉を受けて、バートレットがそこへ向かう。やや遅れてマルセロも続いた。

『おい、やめろ!』
 水夫のうち二人が彼らを止めようとするが、バートレットはうるさげに振り払うと構わず砲身の向こう側に回り込んだ。

 暗がりだったせいもあって、部外者のバートレットよりもマルセロの方が相手の正体に気づくのが早かった。
 彼は愕然とした様子で声を上げた。

『……クレメンテ神父!? どうしてここに……っ』

 マルセロの反応を受けて、ディアナは目を見開いた。
 そして無言で水夫達を手で押しのけ、大股でそこに近づいていった。ライラやジェイクもその後を追う。

 そこで身体を縮こませて隠れていたのは、確かにあの神父だった。

 バートレットがすぐにそれとわからなかったのは、部外者の彼がクレメンテ神父をそこまで見知っていなかったのもあるが、もう一つ理由があった。
 神父はいつもの暗い修道着ではなく、他の水夫と同じような麻の服を着ていたのだ。

『神父殿、あなたがここにいるということは、上にいる者達は誰の指揮のもとで戦っているんです……?』
 ディアナが硬い声音でそう問いかけた。

 クレメンテ神父は屈んだまま、のろのろと顔をそちらに向けた。そこでようやく注目を浴びていることに気がついたのか、仕方なさげにのっそりと立ち上がる。
 その腹部が暗赤色に染まっていたので、ライラは一瞬ぎょっとした。しかし神父の様子からすると、本人の血ではないらしい。そうなると逆に嫌な予感に駆られたが、ライラは黙って様子を伺うことにした。

 クレメンテ神父は、不機嫌そうにディアナを()めつけた。
『……フェルミンが、適当にやっているはずだ。何も問題はない』
『問題はない……?』
 聞き返したディアナの声が怒気をはらむ。

『では、何のために私から船長の任を取り上げたのです? わざわざ戦闘になるようなことをしていながら、こんなところで何をしておいでですか!』
『戦うつもりなどなかった!』

 激高したディアナに対抗するかのように、神父は怒鳴り返した。
『こんなところで無駄に費やす時間などないのに、野蛮な海賊どもめ……フェルミンまでその気になりおって! 私のせいではない!』

 ディアナは絶句して立ち尽くしていた。
 もちろんルシアス達だって、好き好んで戦闘に身を投じているわけではない。では、今行われているのは何のための戦いなのだろう?

 神父は(たが)が外れたように、尚も吠え立てる。
『私は、国王陛下より神の教えを広めよと任命された者。選ばれた者なのだ! こんなところで死んでいい人間ではない……!』
『では、いっそ降伏されてはいかがです?』

 突如かけられた低い声に、全員が振り向いた。
 ジェイクだ。彼は流暢なエスプランドル語で更に告げた。

『神父殿。あなたがその服を着ているのは、負けたとしても一般船員であれば助命が叶うと見越してのことでしょう。聞けばあなたは、ここにいるモレーノ嬢から司令官の権限を剥奪なさったとか。決定権はあなたにあるのでは?』
『貴様、言葉が……!?』
『医者だと言ったでしょう。エスプランドルは医療の分野でも先進国だ。街の瀉血屋ならともかく、医者が貴国の専門書を読まないなんてことはない』
 しれっとして、ジェイクは答えた。

『どうです? こうしている間にも人の命が失われていく。しかし俺達は別に人殺しが趣味ってわけじゃない。意味のない戦闘が早く終わるなら、それに越したことはないんですよ』
『ぐ……っ』