Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

人魚(シレーナ)

15

 陽は既に沈んでおり、天穹(てんきゅう)には無数の星が散らばる。たなびく雲の影が爪の先のような細い月に時折纏わりついていたが、星明かりを邪魔するほどではない。

 陸のある方角の空が、街の明かりでほんのり明るかった。あれは海港都市ヴェスキア──自治区として多様な国の船を受け入れる商業の街は、夜を迎えて一層活気づいていることだろう。エディルの西側の鯨はほぼ捕り尽くされて鯨油の値段も上がっているはずだが、明かりを自重するのではなく金をさらに積んででも輝きを保つのがあの街のやり方なのだ。

 船縁に立って彼方に視線を投げていたルシアスは、夜風に煽られた長い髪を片手で抑えた。
 いい風なのに停泊中とは勿体無いことだと、恨むでもなくその原因となった船を見る。

 少し距離を開けているとはいえ、大きな人魚(シレーナ)号の甲板をこちらから見渡すことはできない。甲板の高さが違うためだ。
 向こうの様子を報せるのは、淡い角灯の明かりを揺らすように映る人影のみ。一応、檣楼(しょうろう)からであれば甲板も見えるので、見張りには警戒を怠らないよう言いつけてあった。

 そこへ、小走りでやってきた乗組員が踵を揃えて報告をする。
「頭領、船倉の洗浄作業終わりました!」
「同じく、砲列甲板(ガン・デッキ)完了しました!」
 ルシアスは彼らに小さく頷き返した。
「よし、ご苦労だった」

 ライラ達が出立した後、カリス=アグライア号では夜にも関わらず大掛かりな清掃が行われていた。しかし停泊中なのが幸いし、作業に当たれる人数が多かったために思ったより早く終わりそうだった。

 出掛けにジェイクがしていった指示に従って大量の酒が消費されることとなり、辺りには潮風に混ざって酒の香りが漂う。
 まとわりつく匂いに顔をしかめるでもなく、ルシアスはさり気なく人魚(シレーナ)号の船尾を見やった。船全体の装飾に漏れず、豪奢な作りの船尾灯はいまだぼんやりと辺りを照らしていた。

「クラウン=ルース」

 呼ばれて振り向くと、ファビオが立っていた。
「パラシオスか。何か用でも?」
 ルシアスはファビオを姓の方で呼んだ。
 無表情はいつものこととはいえ、その態度にファビオなりに何かを感じ取ったらしく、彼は苦笑を漏らした。

「棘があるなあ。そう邪険にするなよ、厄介事を持ち込んで悪かったとは思ってる」
「こちらも善意や好意だけで手を貸したわけじゃないのでね。気負う必要はない」

 ルシアスの尚も素っ気ない言い方に、ファビオはそれでも気を悪くした風ではなかった。むしろ、どこか晴れ晴れとした様子で言った。

「わかってる。でも本当に助かった。この船に会えてなかったら、俺達は生きて祖国に帰れなかったかもしれないんだからな」
「まだ、礼を言うのは早いと思うが」
「それもわかってる。だが礼はしておける内にするのが俺のやり方だ。俺達はいつ感謝の言葉を言えなくなるかわからねえだろ」

 ファビオはそう言って勝手にルシアスの横に並ぶと、同じように人魚(シレーナ)号を見上げる。
「しかし、ここはさすがだな。うちみたいな堅苦しさはないのに、いざ動くとなったら軍隊みたいに組織立ってる。声変わりもまだの子供まで、だ。もしよければ、水夫をうまく使うコツを俺にも教えてくれないか」

 ファビオは暇を持て余している様子だった。拘束されてないとはいえ、立場上ここの乗組員と一緒になって船内での洗浄作業に参加するわけにもいかない。しばらくは大人しくしていたものの、船上でじっとしていることなど本来あり得ない彼は、そろそろ限界を迎えたようだ。

 話し込むつもりらしいファビオに、こっそり嘆息しながらルシアスは答えた。
「……そんなものはない。もしあったとしても、知ってるのは俺じゃなくうちの航海長だろうよ」

 それは半分が事実で半分が嘘だった。人心を完璧に掌握していると豪語する気もないが、頭領と呼ばれる立場でまったく把握できていないわけもない。

 要は、彼に説明するのが面倒だっただけだ。

 正直ライラへの態度を見てから、ファビオに対して好意を持つのが多少難しくなっている。
 彼女のはつらつとした美しさはルシアスも認めるところだが、他の男にそれだけを賞賛されることに違和感があった。いや、不快感か。

 ライラという人物の魅力を外見だけで判断するのは惜しいと思う。短くはない付き合いの中で、彼女のいろいろな表情を見てきただけに。
 しかし、彼女が内面に秘めているものにファビオが気づいてしまったら、それはそれで厄介なことになりそうだった。

 そこまで考えて、思いもよらないところで己自身の矮小さに気づかされたルシアスは、何とも言えない気分になった。クラウン=ルースは滅多に私情を挟まないはずなのだが。

 いつも以上にむっつりとしているルシアスを見て、ファビオは何故かにやにやと笑った。
「あんた、前と印象が随分変わったな」
「は?」
「こう言っちゃ悪いが、もっと面白みのない男だと思ってたんだけどな」
「……ほう」

 興味なさげなルシアスとは裏腹に、ファビオは尚も言った。
「顔も頭も良くて腕も立って、立派な船も持っててよ、非の打ち所がない。獲物を襲う時すら顔色ひとつ変えないって噂だ。そういうのは女には好かれるだろうが、男には煙たがられるもんさ」

 そこでようやくルシアスはファビオに目を向ける。淡い空色の瞳がそれを真正面から受け止めてきた。
「でもよく観察してみれば、意外と人間味があるらしい」
 ルシアスが思わず眉根を寄せると、ファビオは軽やかに笑う。
「そういうとこだよ」
「……好きに言ってろ」

 ルシアスが顔を背けた、ちょうどその時だった。
 遠くから、地鳴りのような音が届いてきた。

 二人同時に人魚(シレーナ)号の方を凝視したが、この位置では変化は目にすることができない。
 そこへ、檣楼からの伝言を預かったレオンが駆け寄ってきた。

「報告します! 人魚(シレーナ)号、抜錨開始の模様!」
「はぁ? なんだそりゃ」
 返答をしたのはルシアスではなくファビオだ。普段の軽薄な雰囲気が消えうせ、その目には明らかな動転の色がある。
「抜錨って、どういうことだ!?」
「それはこちらが聞きたい」
 レオンに詰め寄りかけたファビオを、夜の闇に溶け込みそうなルシアスの声が遮った。
 ファビオも、それから反射的に身構えたレオンも我に返って彼を見る。ルシアスは改めてレオンに向き直った。

「あちらは戦闘態勢をとっているか?」
「ネイ。甲板は慌ただしいですが、戦闘配置ではなさそうです」
「不可解だな。しかしうかうかしている余裕はない。……総員に申し伝えろ。こちらも抜錨開始、ありったけの小型艇(ディンギー)を降ろせ。厨房(ギャレー)の熾火はまだ生きてるな?」
「アイ、頭領。ご命令通りに」
「では早速行動を開始しろ」
「アイ、サー」

 答えるが早いか、レオンはすぐさま(きびす)を返して走り去る。それを見て慌てたのはファビオだ。
「待ってくれ、これは何かの間違いだ! ディアナがこんなことするはずが……!」
 ルシアスはそんな彼を一瞥した後、周囲に向けて誰にともなく告げた。

「この男を牢へ放り込め」
「クラウン=ルース……!!」

 頭領の命令を聞いてただちにやってきた乗組員が、ファビオの両脇から羽交い絞めにして強引に膝をつかせる。別の者が背後に回り、彼を手早く縛り上げた。
 ファビオは屈辱的な扱いを受けながらも、必死にルシアスに訴えた。

「頼む、話を聞いてくれ。俺たちはあんた達を嵌めようとしたわけじゃないんだ! あの船で何かがあったんだ、じゃなきゃこんな……っ」
(やかま)しい、黙れ」

 ルシアスに凍るような視線を向けられても、ファビオは諦めなかった。
「だっておかしいじゃねえか! ここはこんな夜に暢気(のんき)に動き回れるような海域じゃない、だからここに停泊したはずだろ!?」

 ファビオが言ったのは、今回の取引に当たってあえて面倒な海域に錨を降ろしたということだった。この辺りは陸が近いだけでなく、大昔に小さな島が点在していた場所で、それが海の下に沈んだ現在は水深が浅い海域となっていた。下手に動けば、船底が岩礁に引っかかって難破することもあるだろう。

 ここを選んだのはお互いの保険だ。どちらかが裏切って戦闘に持ち込んだとしても、錨を降ろしている以上すぐには動けない。足止めを食らったまま近距離で砲撃戦が始まれば、両方とも船腹に大きな穴が開いて沈没するだけだ。

「もしあの船が……ディアナが裏切っていたんだとしたら、俺も腹を(くく)る。斬首でも吊り首でも好きなようにすればいい! だから……!」

 ファビオがそこまで言い募った時。
 突如、ルシアスが腕を伸ばして彼の襟元を鷲掴みにし、力任せに引き寄せた。

「ぐ……っ」
「驕るなよ、エスプランドル人」
 苦悶の表情で喘ぐファビオを至近距離で睨みつけ、ルシアスが静かに恫喝する。

「裏切っていたとしたら、だと? ……もしそうなら、貴様の首ひとつでは到底足らん話だ」
 その暗い水底のような眼差しに射抜かれ、ファビオも思わず息をのんだ。先ほどまでの表情の少ない男のものとは思えない、()てついた激情のこもる眼差しだった。

 が、次の瞬間にはもう興味を失ったように、ルシアスは彼を離してすっと立ち上がった。突然解放されたファビオは、視線で彼の姿を追うことしかできない。
 ルシアスは、相変わらず不気味な轟音をたてる人魚(シレーナ)号の方を見ていた。

「……」
 その時ルシアスの唇が、女剣士の名を刻んだことに気がついた者はいなかった。

 やがて、カリス=アグライア号でも乗組員達が慌ただしく動き出し、重い錨の引き上げられる音が響き始める。
 人魚(シレーナ)号の船尾灯は、まだぼんやりと灯ったままだ。