Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

天空の蒼(セレスト・ブルー)』の海賊たち

13

「へえ、随分色っぽい格好になったな」
 しばらくして、ルシアスとともに船長室(キャプテンズ・デッキ)にやってきた船医(サージェン)が、ティオの服に着替えたライラを目にしてにやりと笑った。
 ライラは恥ずかしさのあまり俯く。自分が目を逸らしたところで、彼の視界から消えてしまえるわけではないのだが。

「ジェイク」
 そこへすかさず、離れた位置の壁に寄りかかったルシアスから突き刺すような声が飛んでくる。ジェイクはわざとらしく肩をそびやかした。

「おー怖。さて、それじゃあ真面目に仕事しますかね。ライラ、とりあえずそこ座ってくれ」
 持ってきた鞄を床に置いたジェイクは、ライラが言われたとおり寝台に座る頃にはいつもの砕けた雰囲気を一変させ、すっかり医者の顔になっていた。

「気になるところはあるか? 痛みだけじゃなく、寒気や吐き気なんかも含めて」
 心なしか、彼の口調も硬質気味に変化しているように感じられる。診察を受けるライラも、つられて背筋が伸びる思いだった。

「今はそれほど気になる部分はないんだ。強いて言うなら、胸のあたりがむかむかする。あとちょっと、腕の傷が少し痛んだのくらいかな」
「胸のむかつきは海水を飲んだからだな。小型艇(ディンギー)の上でだいぶ水を吐き戻したと聞いたから、あとは自然に治まるだろう。腕ってのは、アリオルで怪我したとこか?」

 ライラの正面に膝をついたジェイクが、湿った包帯を解こうと傷のある腕をとった。細長い指の生え揃う、男性にしては繊細な手がテキパキと手当をしていく。
 片手を船医(サージェン)に預けたまま、ライラはその様子を眺めていた。
 不意に、ほんのり甘いような、あの独特な薬草の香りがライラの鼻をくすぐる。

(あ……まただ)
 ジェイクに初めて会ったときと同じ香りだった。香水ほどきつくはないのに、それどころか相当近くへ寄らないとわからないくらい淡いものなのに、その香りに気づいた瞬間、まるで罠にかかったみたいに捕らわれる。

 感覚もあのときと同じだった。敵意も殺意も感じないのに、やたらと心がざわざわして落ち着かない。
(なんだろう、これ)
 触れられている所に意識が勝手に集中する。ジェイクから目が離せない──。

「腕はこれでよし、と」
 ライラの意識を引き戻したのは、そのジェイクの声だった。急に、視界がぱっと明るく開けた気がした。
(た、助かった……)
 危機的状況にあったわけでもないのに、何故かそう思った。身体から力が抜け、思わず深い溜め息が漏れる。

 ふと顔をあげると、ジェイクの肩越しにルシアスと目が合った。彼は何故か、目を細めて睨むようにこちらを見ていた。

(ルース?)
 何か様子が変だとは思ったが、どう声をかけていいかわからずライラがまごついていると、すぐ近くでジェイクの低い声がした。
「顔が少し赤いな。熱が出たか?」
「えっ」

 驚いて視線を戻すと、思った以上に近い位置から顔を覗きこまれていて、ライラはぎょっとした。
 更に顔を紅潮させることになったライラを、ジェイクがどう思ったのかは知らないが、彼はしかつめらしい顔つきでライラの額に手を当ててきた。

 仕事をしているときのジェイクは、普段の飄々とした人格を封印することにしているらしい。相手が真面目に仕事をしてくれているお陰で、ライラの気持ちも次第に落ち着いていった。
 ただ、眼差しも口調も真剣そのものなのに、触れる手の感触は優しい。ライラにはなんだかそれが、彼の仕事に対する姿勢を表しているように感じられた。

「うん。熱はないみたいだな」
 ライラの額から手を外し、満足気に頷くとジェイクは振り返った。
「とはいえ、ルース。この様子だと夜には発熱するかもしれないから、一応気をつけておいてくれ」
「わかった」

 医師のジェイクはともかくとして、こちらもまた平然と応じるルシアスに、ライラは口を尖らせる。
「私は子供か?」
「ちょっと目を離した隙に、海に落ちる程度にはな」
 ルシアスからは即座にからかうような答えが返ってくる。
 だが、ライラは内心ほっとしていた。やはり、先程のことは気のせいだったのかもしれない、と。

「しかし、さすがは名高い賞金稼ぎ殿だな。殺されかけたにしては元気で何よりだよ」
 ライラが無事だったことを自分の目で確認したあとだからか、ジェイクはいつもの軽い雰囲気を取り戻していた。しかしライラは受け流さずにきっちりと注意した。
「殺されかけてなんかない。あれは事故だ」
「だ、そうだ」
 ルシアスがあとを引き受ける。

 ジェイクは呆気にとられたようにルシアスを見てから、振り向いてライラに言った。
「……お前さんは、バーティとそんなに仲が良かったとは聞いてないがね?」
「それとこれとは別だからな」
 むっつりとライラは答えた。確かに、あれだけ嫌な目に合わされていた相手を庇うことが全く不本意ではないと言ったら、それはそれで嘘なのだ。

 ジェイクは興味を惹かれたらしい。彼は面白そうな目つきでライラを見つめた。
「寛大だねぇ。こっちも、お前が『とても怖かったの』なんて泣きついてくるとは思っちゃいなかったが。しかし、そこまでバートレットの肩を持つ理由は?」
「肩を持つも何も、実際殺されかけてないんだから本当のことを言っているまでだ。大体、彼に殺気があったら、その時点でこっちも剣を抜いてる」

 事実だった。ここのところ気が緩んでいたとはいえ、あのときバートレットから殺気を感じていなかったのはライラも断言できた。
 むしろ、相手にそこまではっきりした気持ちがないからこそ、ライラも対応に困っていたのだ。

「ふむ……」
 ジェイクはやや考えこむような素振りを見せ、それから(おもむ)ろに言った。
「そういうことなら、ちょいとこの状況は厄介だな」
「? どういうことだ?」

 ライラが問い返すと、ジェイクは苦い笑いを浮かべながら答えた。
「それがな。一見いつもどおりに見えるが、実際はこの部屋の外は一触即発だよ。なんたって奴は、泳げもしない(おか)の女で、しかもルースの客のお前を海に突き落としたってことになってるんだから」

 ライラは驚きのあまり絶句した。なんだそれは。
 ジェイクの背後から、ルシアスも苦い表情で補足する。
「俺達は海賊だが、誰彼構わず殺していいわけじゃない。殺人未遂は立派な犯罪だ。それも、相当重い」
 それを聞いたライラは血の気が引く思いがした。
「そ、そんな! 違うのに……っ!」

 大事になってしまったとはライラも思っていたが、予想以上だった。事態は全く意図しない方向へと進んでいた。
 海と陸では理屈が違うのかもしれないが、重罪の意味が示す内容はそれほど異なってはいないはずだ。

 ジェイクは動揺するライラを宥めるように静かに言った。
「ルースの命令で、今のところ保留にはなってる」
「どうしよう……。止めないと」
 ライラは衝動的に寝台から立ち上がり、部屋の入口に向かおうとした。
 が、ルシアスの目の前を通り過ぎようとしたとき、その肩を掴まれた。

「待て、ライラ」
 振り向くと、ルシアスの深海色の瞳がまっすぐライラを見つめていた。
 何故止めるのかと、ライラは抗議の目を彼に向ける。

「ルース」
「今お前がなりふり構わずあいつを庇い立てれば、変に勘ぐられるか、逆にお前に同情が集まってバートレットには不利になりかねん。まずは落ち着け」
 静かだが、力強い口調でルシアスは言った。

「ここは私刑も禁止している。今すぐどうこうということはないから安心しろ」
「でもルース! そんな悠長なこと言ってる場合か!?」
 言い返したライラを、ルシアスはじっと見つめた。
 そして、躊躇うようにやや置いてから彼は言った。

「確認しておきたいことがある」
「え? 何……」
「お前がそうやって必死にあいつを庇うのは、本当はお前があいつに惚れているからなのか?」