Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

天空の蒼(セレスト・ブルー)』の海賊たち

12

 貸してもらったティオの服は、確かにライラの体型にほど近い大きさのものだった。
 しかし肌着(シュミーズ)の胸周りがややきつく、上着(ダブレット)の中に見える位置だったが胸元を少し開けておくしかなかった。それだけならいざしらず、靴の替えがないために膝下から素足というのがまた落ち着かない。
 船の男達の中にも素足で動き回っている者はいるが、それとこれとはわけが違う。

(こんな風に足を出したら、まるで娼婦じゃないか)
 これではただの男装ではなく、なんだか倒錯的なことをしているような気になってきて、ライラはひどく落ち込んだ。でもこれしか着るものがないのだから仕方がない。

(最初に医務室(シック・ベイ)に行かなくて良かったのかも)
 もしあのままジェイクについて医務室(シック・ベイ)へ行っていたら、部屋に戻る際にはこの格好で甲板を歩く羽目になっていたはずだ。それを思うと、ルシアスの指示に感謝したくなった。

 それからライラは、気力を振り絞って衝立の向こう側に行った。

 窓際に立ったルシアスはしばらく何も言わなかった。ライラのほうを見もしない。腕組みをしたまま、窓の外を眺めている。
「あの……」
 その背中に声をかけると、彼は深く息を吐いたようだった。

「まったく……。こんな気分を味わうのは久しぶりだ」
 絞り出すような声音に、ライラは何も言えなくなった。
 髪から滴る水滴が床に染みを作るのを、ただ黙って見つめることしかできなかった。

「バートレットが、お前にいい感情を持っていないのは知っていた。放っておけばまた(いさか)いがあると、何故俺は見抜けなかったんだろうな」
 ルシアスは、先日ライラの言葉を受け入れてバートレットを処罰しなかったことを、後悔しているのだ。

 ライラにとってもそれは痛恨の極みだった。あのとき、然るべき処分がなされていたら、こんな大事にはならなかったのかもしれない。ルシアスを始め、沢山の人に迷惑をかけることになってしまった。
 しかし──。

(それでも、こんなことで懲罰なんて間違ってる)
 バートレットは故意に突き落としたわけではない。それはライラもよくわかっていた。実際、彼は手を伸ばして助けようとしてくれた。
 気に食わない相手ではあるが、前後関係を無視した処分が下されるべきではないのだ。

「今回のは、事故なんだ」
 振り向いたルシアスに、ライラは訴えた。
「最初はただの口論だった。故意じゃなく、足を滑らせて落ちたのは偶然で……」
「またそうやって、お前はあいつを庇う」
 ルシアスがライラの言葉を遮る。その言葉は荒れてはいなかったが、普段の彼を思えば感情的になっているのは明らかだった。

「俺は、何かあったときのためにと、お前を傍に置くことを決めた。でもそれでは足りなかった。だからこうなった。なのに、当のお前がそんな調子では、俺はどうすればいい?」
「……」
 ライラは俯いた。ルシアスの言いたいこともよくわかったからだ。

 航海に全責任を負う船長として、またライラの庇護者として、ルシアスは手を打ってくれていたはずだ。なのに、結果的にライラ自身がそれを踏みにじることになった。自分の我が儘で、彼の顔に泥を塗ったようなものだ。

 ルシアスは苛立ちを持て余すように、やや乱暴に髪をかきあげる。
「自分に害意を持つ相手を、どうして庇えるのかがまったくわからない。あいつとお前の間に、何があるというんだ? 信頼か、友情か? それとも……」
「何もない! けど、処罰するような話でもないんだ」
「だがこういう話をするのはこれで二度目だ。今回も見逃して、次に本当に生命を落とすことになったらどうする? そのときも俺か、他の誰かが助けてくれるはずだからいいとでも?」
「……っ」

 ライラは口を(つぐ)んだ。
 顔に泥を塗ったばかりでなく、この上さらに自分達に甘えるつもりかと、彼が言うのはそういうことなのだろう。

(そりゃあ、迷惑だよな……)
 故意じゃないとはいえ、見逃すことで次も『事故』が起きないとは、ライラにも言い切れなかった。
 そして、何かある度に責任を取るのはルシアスなのだ。それは庇護下にあるライラがどう思っていようが変わらないことだった。

 自分のあまりにも無力な立場を今更痛感し、ライラは唇を噛んだ。
「他人をあてにするのは違うと、私も思う。全ては私の軽率さのせいだ。それでお前の面子(めんつ)も潰してしまった。本当にすまない」
「面子の問題ではない」
 ルシアスはそうじゃないという風に首を振る。
「そんなのはこの際どうでもいいんだ」
「え……」

 ライラは顔をあげた。思いも寄らない返答だった。
 では、彼は一体何に怒っているのだろう。
 ルシアスはそんなライラを、ひたと見据えた。

「間に合うと、頭ではわかっていた。バートレットがそういう人間ではないことも。でも、それでも……溺れかけているお前を見て、心臓が止まるかと思った」
「……」

 ライラは驚きのあまり言葉を失った。あのクラウン=ルースの言葉とも思えなかったからだ。

 彼がその名をあげたのは元々『天空の蒼(セレスト・ブルー)』という集団があってのことだが、それ以上に、彼の手腕によるところが大きい。

 どこの国にも与さず、かと言って破落戸(ごろつき)集団とつるむこともなく、海軍崩れから犯罪者までが入り乱れる海賊達の中で存在感を示し続けるというのは、尋常なことではなかった。
 そしてそれを可能にしたのが、情にも欲にも流されないクラウン=ルースだったはずだ。
 それなのに。

(彼は今、なんて言った?)
 ライラは、腐れ縁を頼って突然押しかけてきたただのよそ者だ。彼はなりゆきと気まぐれで、彼女への助力を請け負ったのじゃなかったのか?
 感情の起伏が少ないはずのルシアスが、こんなに苛々しているのは、そのライラが面倒事を引き起こして彼を煩わせているからで。
 そう、だと思っていたのに。

(ルースは、本気で心配してくれていたんだ。私のことを)
 その事実は、不思議なほどあっさりと胸の奥に落ちてきた。
 いくら冷静沈着だからといって、ルシアスに人の心がないわけではない。乗船してからは特に、彼の人間らしさや気遣いといったものは何度も目にしてきたはずだ。

 逆に、そういうものを見聞きしておきながら、今まで誤解していた自分自身に疑問を抱いてしまう。
 愚かな自分は、彼の頭領としての立場だけでなく、一人の人間としての想いまで踏みつけにしていたわけだ。結局、自分しか見えてなかったのだ。
 そのことに気づいた途端、羞恥でライラの頬は熱くなった。

「その、ルース。……心配をかけて、すまなかった」
 つい語尾が萎んでしまうライラに、ルシアスは短く嘆息した。
「結果的に無事だったとはいえ、あくまでも結果だ。いつも同じ結果が出るとも限らない。俺はお前が簡単に死ぬ奴ではないと信用してはいるが、絶対に死なないわけじゃないこともわかっている」
 彼の言うことにもいちいち納得できて、ライラは素直に頭を下げた。

「てっきり、義務感とか責任感だけで守られているんだと思ってたんだ。私は一時的な滞在者にすぎないし。そんな風に心配されてるなんて、本当に気が付かなくて」
「お前の中の俺は相当な冷血漢のようだな」
 返ってきた言葉は、少し皮肉るような響きを帯びていた。

「義務感や責任感も実際にあるが、それだけで割り切れたら苦労はない」
「そう、だよな……」
「だいたい、何とも思ってない相手にここまで譲歩などするか」

 さり気ないその一言にライラが気づくより先に、ルシアスは話の流れを変えた。
「しかし譲歩しすぎたのかもしれない。今度という今度は、きっちり片を付ける。それでいいな?」

 今度は黙認はしない──その決定にもはやライラが口出しできるものではないことはわかっていたが、どうしても伝えなければいけないことがあった。
 返答を待たずに部屋を出ようとしたルシアスに、ライラは声をかけた。

「ルース。ひとつだけ」
「何だ」
「バートレットは、忠誠心から私を危険視していただけなんだ。私は賞金首を狩る人間なわけだし。私がいつかお前の寝首をかくんじゃないかと、そういうことを気にしてたんだと思う。だから……」

 ルシアスは相変わらず感情の読みづらい表情で聞いていたが、やがて軽く頷いた。
「わかった。……ジェイクを呼んでこよう、お前はここで待っていてくれ」
 言い終えると、今度こそルシアスは部屋を出て行った。