Brionglóid
海賊と偽りの姫
『天空の蒼 』の海賊たち
11
ザバンッ、という明らかに異質な水音を聞きつけ、甲板上は一瞬で騒然となった。
「おい、何の音だ?」
何人かがすぐさま駆けつけて、船舷近くで呆然と佇むバートレットを発見する。
そのうちの一人であるレオンが下を覗き、青褪めた。
「ライラさん!!!」
彼の叫びを聞いて、全員が海面を覗きこむ。騒ぎは更に大きくなった。
「ライラが海に落ちたぞ!」
「縄を投げろ!」
「駄目だ、彼女は縄を登れない!」
「何か浮くものを投げるんだ!」
「小型艇を降ろせ!」
乗組員達が騒ぐ間も、船は風を受けて前進する。水の中で藻掻くライラを、そこに置き去りにするように。
波の力もあってライラはぐんぐんと後方へ押し流されていく。このままではあっという間に船との距離が開いてしまう。
「ライラさん、暴れないで! じっとしてください! そうすれば身体が浮きますから!」
彼女を落ち着かせるように、レオンが身を乗り出して声をかける。とはいえ、彼自身冷静さを欠いた様子だった。
泳ぎを習得しているのは船乗りか、水辺に生まれ育った者くらいだ。泳げるにしても、海と湖ではだいぶ事情が違う。さらに女性ともなれば、泳げる確率は皆無に等しかった。
ライラは言われたとおりに暴れるのはやめたが、じっとするのはさすがに不安なのか、時折ぎこちなく水を掻く。波があってうまく息ができないようで、仰のいては苦しそうに喘いでいる。
水を吸った服が纏わりついて重いのかもしれない。あれでは体力の消耗が激しいだろう。
「くそっ」
居ても立ってもいられなくなったのか、レオンが上着を脱ぎ捨てる。小型艇が降りるのを待たずに飛び込むつもりだ。
そこへ、階下の会議室にいたルシアス達が現れた。
「何事だ」
「頭領! ライラが落水を……!」
「今小型艇を降ろしてます!」
人だかりを掻き分け、ルシアスは左舷の後方に足を向けた。
皆が騒ぎ立てる中、一人だけ放心したように佇むバートレットの姿をルシアスは一瞬だけ目に止めた。
しかしすぐに視線を外し、ルシアスは下を覗き込む。
「……」
その光景を目にした瞬間、彼は周りに分からない程度に眉根を寄せた。
そして顔をあげるなり、傍らにいた航海長のスタンレイに言う。
「一旦減速する。縮帆させろ」
「アイ、サー。……野郎ども、帆を絞れ! グズグズするな!」
スタンレイが振り返りざまに怒鳴りつけると、乗組員達がそれを受けて慌ただしく動き出した。
「俺、先に行って彼女を支えます。許可を願います、頭領」
すでに靴も脱ぎ捨てたレオンがルシアスに言う。
ルシアスも頷いた。
「任せた」
その返答を聞くが早いか、レオンは船舷に足をかけて一気に飛び越えた。
ザンッ、と一際大きな水音を立てて飛び込む。すぐさま浮上したレオンは、一直線にライラのほうへと泳いでいった。
縮帆作業や小型艇の準備で、ライラが落ちた船舷の辺りからは人が減っていた。
だがバートレットはまだ、何も言えずにそこに立ったままだ。
その彼に向けて、ルシアスは告げた。
「あいつはこの程度で死ぬほどやわじゃない」
貴婦人でもあるまいし、と続けようとしてルシアスはやめた。どこぞのご令嬢ではあるかもしれないが、とにかく彼女はこのくらいでどうにかなるような玉ではない。
ルシアス自身、心の中で自分にそう言い聞かせた。
バートレットはその言葉をどう聞いたのか、小さく「アイ」と応えただけだった。
やがて、支索で吊られた小型艇が海面へ降ろされた。
「頭領、俺が行きます」
バートレットは震える声でそう言った。まだ顔は真っ青だったが、それでも眼差しは真剣だった。
「俺に行かせてください……!」
「ふざけんなバートレット! 助ける振りしてとどめ刺しに行く気じゃないだろうな!?」
皆と同じく甲板に出てきたギルバートが、凄みをきかせながらバートレットに詰め寄った。
「ライラを目の敵にしていびってたのは知ってたが、てめえ、とうとうやりやがったな……!」
「違う! 俺は!」
「陸者を海に落としたらどうなるか、わかってないわけねえよな……!?」
「違う……!」
「待て」
ルシアスは声だけで二人を制止した。
視線の先では、ライラが助けに来たレオンに抱きかかえられているところだった。
「ライラが戻ってきたら状況を訊く。それまでは保留だ」
結局、ライラの救助に向かう小型艇の乗員には、櫂を漕ぐのに適している屈強な乗組員が選ばれた。
ライラはレオンの手を借りて何とか小型艇の上に這い上がり、船に追いついた後は、更に彼に抱えられるようにして縄梯子を登った。
そうしてようやく甲板に戻ってきたライラは、そこに集まった者達の視線を一気に集めて戸惑った。思った以上に大事になっているようだった。
「えっと……こんな騒ぎを起こしてしまって、すまない」
寄りによって海に落ちるなんて、とライラは情けなさと恥ずかしさでいっぱいになりながら皆に頭を下げた。
この頃は、本当にみっともない姿ばかり晒している気がする。部外者の自分がここまで迷惑をかけて、ライラはもう穴があったら入りたい気持ちだった。
だが、実際には彼女が注目を集めていたのは別の理由もあった。
肩から羽織った毛布の隙間から見えるのは、濡れた衣服が張りつき、女性らしい身体の線をこれでもかというほど強調された肢体だったのだ。
「怪我がないか、一応診てやろう」
こちらも騒ぎを聞きつけてやってきたジェイクが、苦い表情で彼女に言う。
「ついでに早く着替えろ。濡れたままだと風邪を引いて胸をやられるぞ」
「医務室ではなく船長室でやってくれ」
おとなしくジェイクについていこうとしたライラだったが、何故かルシアスがそれを止めた。
肩に手をかけられて彼を見上げると、ルシアスはさり気ない仕草でライラの毛布の合わせ目を寄せてくれた。
濡れた衣服が張りついた胸元を乗組員達の視線から隠したのだが、ライラはその思惑に気づかず、意外と面倒見がいいんだなと単純に彼の行動に感心した。
「落ち着き次第、バートレットも呼んで事情を訊く」
「わかった。あとで道具を持ってそっちに行こう」
ルシアスにそう応えるが早いか、ジェイクは早速医務室へと足を向ける。
「ライラさん、良かったら俺の服を使ってください」
遅れて甲板に現れたティオが、綺麗に畳まれた自分の着替えを差し出してくれた。この気の利く少年の姿が見えないと思ったら、わざわざ取りに行ってくれていたらしい。
「女物がないんで、これで我慢してもらうしかないんですけど……。多分俺の体型が一番近いと思うから」
「ありがとう。使わせてもらうよ」
礼を言って受け取るライラの横で、ルシアスはレオンを労った。
「レオン、ご苦労だった。お前も早く着替えるように」
「アイ、サー」
ライラと同じように毛布を被ったレオンだったが、こちらは慣れた様子で返事をしていた。
それから彼は、振り向いてライラに声をかけた。
「だいぶ身体が冷えているはずです。ライラさん、風邪引かないようにしてくださいね」
「ありがとう、レオン。本当に助かった」
「いえいえ、どういたしまして」
ライラが礼を述べると、レオンは濡れた髪の下から微笑みをひとつ投げて寄越し、それから着替えるために階下へと去っていった。
「部屋に戻るぞ」
レオンの後ろ姿を見送っていたライラの肩を抱いて、ルシアスが促す。
若干力のこもったその手に、ライラは有無を言わせない何かを感じた。
(さすがにルースも怒っているのかもしれない)
皆に迷惑をかけただけでなく、おそらく話し合いとやらも中断させてしまったのだから当然だ。
だから船長室に入った後、着替えたらすぐ奥の部屋へ来るようにと言われて、ライラはいよいよ叱責を覚悟した。