Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

天空の蒼(セレスト・ブルー)』の海賊たち

07

 それからルシアスが甲板(デッキ)に呼ばれたのを機に、ライラは早速船医(サージェン)のもとを訪ねることにした。
 食事の際に話を聞いて以来、ライラはジェイクに興味を持っていた。閉鎖的な航海生活に斬新な方法を持ち込ちこんだ『モグリの医者』。ルシアスですら一目置いているらしいその人物は、一体どんな男なのだろう?

 カリス=アグライア号の医務室(シック・ベイ)は、下層甲板(ロウアー・デッキ)の船尾側の一郭にあった。
 帆船の構造上便所が船首側にあるので、医務室(シック・ベイ)に限らず、専門職にある船員の個室は船尾側に集中するのだという。
 もっとも、そこはあくまでも船医(サージェン)の個室だ。負傷者や病人が出た際は、下層甲板(ロウアー・デッキ)の床に寝かせることになるらしい。だから広さも見た目も、外からは他と大差ないように見えた。

 ライラが扉を叩いて手をかけた途端、足もとを何かが駆け抜けていった。
「……っ!?」
「待てこらっ、この馬鹿猫!」
 続く怒鳴り声に驚いて室内を見ると、そこには眉間に皺を寄せた壮年の男がいた。

 年はだいたい四十代半ばだろうか。黒い髪には所々白いものが混じっているが、老いの影はまだ見えない。それどころか、生気に満ちていて、かなり見栄えのする男だと言っていい。
 顎の輪郭もまっすぐ伸びた鼻筋も、そして引き結んだ唇も、どれも鋭角的ではあるが形がよく整っている。年齢はむしろ、重厚な魅力をそこに追加していた。

 ライラは何故か、首筋のあたりがチリチリするのを感じた。それは、微かな緊張だった。
 相手には敵意も見えないというのに、妙に意識を惹きつけられる。
 ライラは不思議に思った。何処かで会ったことがあるのだろうか。そんなはずはないが……。

 彼が纏うゆったりとした白麻の上着には染みもなく、航海中の乗組員であるということを考えれば、身嗜みには相当気をつけていると思われた。
 真鍮製の片眼鏡(モノクル)の奥の眼は知的ではあるものの、どこか神経質そうでもある。単純に、今機嫌が悪いようだからそう見えたのかもしれないが。

 扉の隙間から走り去った猫水夫を怒鳴りつけた船医(サージェン)は、ライラに視線を向けるなり表情を入れ替え、微かな笑みを浮かべた。
「よう、噂の賞金稼ぎ殿じゃないか。どうしたんだ?」
 薄い唇が、低い声を放った。

 言いながら、彼は不躾にもライラの頭から爪先まで、品定めでもするように視線を流した。しかし、ライラ個人を見るというよりは、ただ観察しているようでもあった。
医務室(シック・ベイ)に来たんだから、患者と思われても仕方ないか)
 医者としての習い性なだけかもしれない。実際、ライラに特に異常なさそうだと見るや、ジェイクはすぐに視線を戻した。

 ライラは小さく咳払いをしてから、話を切り出した。
「今後、ルースの身の回りの雑用を私が請け負うことになったんだ。衛生面についての責任者はあなただから、話を聞くように言われている」
「なるほど。新しい専属従僕(キャビン・ボーイ)ってわけか」
 にやりと笑われて、ライラはばつの悪い思いをした。やっぱりこういう目で見られることになるのだ。

「……私ではキャビン・ボーイ(、、、)にはなれないよ。ただの小間使いだ」
「そう嫌な顔しなさんな。ティオの後釜だろう?」
 言いながら、ジェイクは散らかった机の上の小物を大雑把に片付け出した。
「いいじゃねぇか。起きてから寝るまでご主人さまと一緒、着替えの手伝いから始まって、果ては(とこ)の相手までだ。単なる下働きと侮るなかれ。船長の機嫌は船内の平和に直結するからな、これでも重要な仕事だぞ」

 その言葉にライラは目を瞠る。
(今なんて言った? 着替えの手伝いから始まって、果ては……)
 それは、ルシアスから聞いていた話とあまりにも違うような。
 内容を理解するに至り、ライラの頬がみるみる紅潮する。
 すると、肩越しに振り向いたジェイクがぷっと吹き出した。

「おいおい。この程度の冗談でお前、意外と初心(うぶ)だな」
「じょ、冗談……?」
 愕然としながらライラが聞き返すと、船医(サージェン)は笑みを僅かに残しつつ言った。

「まあ、あながち冗談でもないか。船長が仕事に集中できるようにするっていうのが、本来の専属従僕(キャビン・ボーイ)の仕事だ。ただまあ、庶民が悪いお貴族様ごっこするにゃ、格好の制度だからな。以前はよく、ティオが奴の稚児だと勘違いされたもんだ」
 あの見た目と甲斐甲斐しさが(あだ)になっちまってな、というジェイクの言葉に、苦労性の少年水夫を思ってライラは居た堪れない気持ちになった。

 ティオは専属従僕(キャビン・ボーイ)を早々に辞めたという話だったが、考えてみれば、真面目な彼がそういう行動に出ることは滅多にないのではないか。恐らくだが、その手の噂にも相当煩わされていたに違いない。
 ライラは心の底からティオに同情した。いや、後任に納まるのであれば、同情している場合でもない。

 ジェイクは不安そうなライラの顔を見て、苦笑を浮かべる。
「今回も、そういう下世話な見方をする奴はいるだろうがね。安心しな。この船じゃ、やらされるのは本当に雑用ばかりだろうよ」
「そ、そうか……」
 それを聞いて、ライラはホッとした。
 ジェイクは手にしていた瓶を作り付けの戸棚に戻した。おそらく波の揺れで扉が開かないようにだろう、閉めた扉に更に掛け金をかける。

 片眼鏡(モノクル)船医(サージェン)は彼女のほうに向き直り、再び口を開いた。
「しかし、女っていうのはさすがに異例だ。ルースはどういうつもりでお前をその座に据えたんだ、って話さ。ティオ以上に、好奇の目に晒されんのはわかってただろうに」

 至極もっともなその疑問に、ライラはぽつりと答えた。
「私から言ったんだ」
「へぇ?」

 船医(サージェン)は、器用に片眉をあげて彼女を興味深げに見る。ライラは嘆息し、肩を竦めて付け加えた。
「穀潰しというのも気が引けるから、何か仕事が欲しいと。けど、私は船仕事は何もできないから、このくらいしかないと言われて」
「なるほど。……しっかし、なんだその理由。あいつ、相変わらずつまんねえ男だなー」
 壮年の船医(サージェン)は、たとえ相手が頭領であったとしても口さがない。

 本当は、バートレットのような邪推からライラを庇うために、ルシアスは彼女を傍に置き、尚且つ文句を言わせないために仕事も与えるという措置でこうなったのだ。
 ただ、そのせいでジェイクの言うように違う角度から勘ぐられるのだとしたら、この措置には意味があったのか、ライラにもわからなくなってきた。

「まあ、あれだ。だとしたら、だよ。無事に下船したかったら、お前さんも嘘でもいいから、自分はルースの女ですって顔しておけよ。そのほうが何かと楽にいく」
 医者の有り難くない助言に、ライラの眉間に皺が寄る。
「……。無茶を言わないでくれないか」
「実際に抱かれるわけじゃなし、いいだろ別に」
「だ……ッ!?」

 再び真っ赤になったライラに、ジェイクは派手に吹き出した。
「すっげぇ。お前、玩具(おもちゃ)みてぇに赤くなるのな」
「ひ、人をからかって遊ぶな!」
「からかうつもりがなくても、結果的にそうなっちまうんだよ。ちょっとしたことで、そうやってすぐ反応してさ。そりゃ(つつ)きたくもなるって」

 くくく、と収まる気配のない笑いを噛み殺しながら、ジェイクは言った。しかしライラのほうは、それに付き合う余裕もない。
 とんでもないことを引き受けてしまったと、頭を抱えるライラを見て、さすがの彼も困ったなという様子になる。気を取り直したように、少し落ち着いた声でジェイクは続けた。

「ここはならず者ばっかの船ん中だ。お前みたいに右も左もわからんお嬢ちゃんなんか、いい鴨どころか垂涎の的だよ。自衛は必要だ。一年後、赤子抱えて旅をするつもりか?」
「……」
「お前だって面倒事は避けて、無難にやり過ごしたいだろうが」
「それは、そうだけど……」
 消え入りそうな声で何とか応えるライラに、船医(サージェン)は呆れたように溜め息をついた。

「もちろんティオみたいに、いちいち真っ向から反発しても構わんよ? 慢性的な胃痛に見舞われて、ここに通う羽目になってもいいならな」
「うう……」
 ライラは暗い顔で呻いて項垂れた。これでは八方塞がりではないか。

 あれこれ逡巡しているのを、ジェイクは黙って待っている。
 やがて彼女は顔をあげ、困り果てた表情で医者に訴えた。

「ジェイク。私はこれまで、ルースと和やかに話すより、切っ先を向け合った回数のほうが多い。頭でわかっていても、そう簡単に切り替えられない」
「あー、そういうことかよ。単純に男と女ってわけにはいかねぇのか、そいつは難儀だな」
 お前は見るからにその辺不器用そうだもんなと、ジェイクは再び嘆息する。

 彼はじっとライラの顔を見つめ、それから一歩踏み出て彼女の目の前に立った。
 かと思えば次の瞬間、ジェイクはさっと手を伸ばし、ライラの腰を抱き取って引き寄せる。
「じゃあ、代替案だ。──俺ならどうだ?」
「え……っ」

 彼女が呆気にとられる中、船医(サージェン)は雰囲気をがらりと変え、端正な容貌にうっとりするような笑みを浮かべていた。
 低く、そして少しだけ掠れたような深い声が、詩でも歌うように囁く。

「あいつがそんなに嫌なら、俺のとこにいればいい」
「は……、え?」
 反射的に身を引こうとした彼女の腰を、男の手ががっちりと掴んでいる。身体が密着していて腰の剣が抜けないことに気づき、ライラは焦った。

 ジェイクに攻撃意思はない。だから自分の身体が反射的に動けなかったのは、まあわかる。
 それなのに、本能が警戒を訴えていて、ライラは混乱した。
 これは、どういう状況なのだろう。

「あ、あの……?」
「今のまま初心なお前を放っとくなんて、危なっかしくていけねぇ。騒動の種にしかならん。他人のもんだってわかってりゃ、誰も手を出さねぇだろ?」
 ジェイクはライラの困惑に気づいていながら、敢えて無視している。
 その意地の悪さに腹が立ち、ライラは何とか反論した。

「り、理屈は、わかった……! けど、だったらこれも、振りでいいのでは……!?」
「そうなんだが。……お前、正直言って俺好みの美人なんだよなぁ」
 ジェイクは真顔でそんなことを呟く。ライラは返す言葉を失ってしまった。

 その間にも彼は、ライラの顎に添えた手に僅かに力を込め、くいっと上向けさせる。
 至近距離で視線が合い、ライラの心臓が跳ねた。
 ライラの思考が追いつく前に、ジェイクはどんどん先に進めてしまうのだ。獲物に考える隙を与えないのが熟れた男の戦略だと、ライラも意識の何処かでは気づいている。

 だが、不思議と抵抗できなかった。悔しいが、相手のほうが一枚も二枚も上手だった。
 眼差しだけで彼女をがんじがらめに捉えながら、ジェイクは喉もとで低く微笑った。
「ああ、いいね。その、怯えた目」
 男の顔が傾きながらゆっくりと近づいてくる中、ライラは自分でもよくわからないほど頭が回らなくなっていた。